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No.004 合計で女性6人子供2人を殺害・栗田源蔵

殺した後に死体を犯す。女性とその子供たちを崖下へ突き落とした事件は、稀(まれ)に見る凶悪犯罪。


(被害者は仮名)
栗田源蔵が殺害したのは、合計で女性が6人と子供が2人。二つの裁判所から死刑判決を受けた異例の死刑確定囚である。

栗田は、昭和31年(1956年)、国会で死刑制度の廃止か存続かが議論された時も、死刑存続を主張する側から「世の中には淘汰(とうた)する以外にない、大量殺人者がいる。」として栗田の名前が挙げられたほど、凶悪犯の代表格として世間に知られていた。

栗田は秋田県で、極貧の川漁師の子供として生まれ、12人兄弟であった。家計はどん底で、食事さえもまともに与えられなかった。栗田は子供のころから夜尿症(やにょうしょう = おねしょ)に悩まされ、これは成長しても直らず、死刑直前まで夜尿症は続く。

この夜尿症と、生来のおとなしい性格が災いして少年時代はいじめの対象となっていた。小学校を三年で中退し、農家に奉公に出されたが、盗み癖もあって長続きせず、働き口を転々と変えた。


昭和20年6月、19歳の時、弘前の歩兵連隊に入ったが、夜尿症のため二ヶ月で除隊となっている。

そしてその同じ年の年末も近くなった頃、栗田は北海道に流れ、そこで美唄炭鉱の坑夫となった。気の荒い連中に囲まれた、この炭鉱での生活が栗田の性格を大幅に変えた。内向的だった栗田は、粗暴で荒々しい人間へと変化を遂げた。昭和21年8月、炭鉱の近くの農家から米を盗んで、ヤミで売りさばいた。この一件で栗田は捕まり、懲役一年六ヶ月を受けた。

これが最初の転落だった。これ以降は、傷害、窃盗、物価統制令違反、殺人未遂などで、刑務所を出たり入ったりした。栗田の職業は、すでにヤミ米の販売となっていた。当時は物不足で、特に食料が不足していた時代だったので、米はどんどん売れた。
栗田はすでに、ヤミ米販売ブローカー集団「総武グループ」の中心メンバーになっていた。

総武グループの中にも女性はいたが、栗田はその中でも特に情熱的に近づいてきた由美(17)と恋仲になっており、結婚を約束していた。しかし栗田は、同じ総武グループの中の彩子とも結婚を約束しており、三角関係となっていた。


昭和23年1月、静岡県沼津の海岸で由美が、数日前から姿が見えなくなっていた、恋敵である彩子のことを激しく問い正した。栗田が由美をかくまっていると思ったのである。

「由美をどこに隠したの!あの女と別れてよ!」
それに対して栗田の答えはあっさりしたものだった。
「好きなのはお前だけだよ。邪魔な彩子は、もう殺してそこに埋めたよ。黙っとけよ。」

彩子から結婚を迫られた栗田は、すでに彩子を殺して海岸に埋めていたのだ。事実を知った由美は恐怖し、「警察に知らせなければ・・。」と動揺した。栗田にも警察に行くよう勧めたが、栗田は通報されることを恐れ、逆に今度は由美も手ぬぐいで首を絞めて殺害した。殺した後、死体を犯し、同じように海岸に穴を掘って遺体を埋めた。

栗田は第一・第二の殺人をあっさりと立て続けに起こした。この二人の事件は、後に栗田が捕まって自分で犯行を自供するまで発覚しなかった。


しばらくして栗田はヤミ米ブローカーを辞め、泥棒稼業に専念するようになった。地元の近くであり、自分も知識のある東北沿線の、福島・郡山・白川・宇都宮などを荒らしまわった。ただ、昭和23年秋から昭和26年秋ごろまでは、酔った勢いで起こした殺人未遂や窃盗などで秋田刑務所に服役している。

栗田源蔵
昭和26年8月8日、栗田は栃木県の小山駅に降り立った。泥棒稼業の一環としてただここに降りてみただけで、特に目的があったというわけではない。昼間に盗んだ酒を飲み干し、日も暮れていい気分になって盗みに入る家を探す。

ある家の窓を覗くと、若い母親(24)と赤ん坊が部屋で寝ていた。それを見て欲情した栗田は、まずズボンを脱いでから家に侵入した。母親が気づいて悲鳴を上げる。栗田は母親を布団に押し倒し、布で首を絞めて強姦しながら絞め殺した。赤ん坊の方は無事だった。

タンスの中を物色して着物や帯などを盗み、ここで栗田は死体に服などをかけ、もう一度死体を犯した。そして逃げる前に台所にあった鍋や釜を持ち出して、庭に穴を掘って埋めた。この行動は意味不明である。

その後、勝手口に帰ってそこで大便をした。犯罪の後に現場で大便をするということは、心を落ち着かせ、度胸をつけるということで、当時は時々こういう犯人がいたらしい。


昭和26年10月11日。この日の深夜、栗田は千葉県にいた。またもや盗みに入る家を探して自転車に乗ってブラブラしていた。当時の国鉄・興津駅の待合室に何となく行ってみたところ、そこには三人の子供を連れた母親(29)がいた。この女とやりたくなった栗田は「家まで送ってあげよう。」と、さっそく声をかけた。

栗田がいたのは千葉県安房郡小湊町(現:鴨川市)。この町の、太平洋に面するところに急な断崖絶壁に沿った道がある。一歩足を踏みはずしたら崖下に転落してしまう恐ろしい個所で、昔「おせん」という娘が転落したことから通称「おせんころがし」と呼ばれていた道である。

栗田たちは、女性の家まで歩いて行く最中、その「おせんころがし」にさしかかった。時間は深夜1時ごろ。自転車には女性の長男(6)が乗って、栗田がその自転車を押している。女性は次女(3)を背中に背負って、長女(11)と手をつないで歩いていた。当時は街頭もなく、辺りは真っ暗である。

それまでに栗田はさんざん女性に「なぁ、やらせろよ。」「いい身体をしてるな。」などと、しつこく迫っていた。
女性の方も本気で相手にはせず「ここではダメよ。」「また後でね。」といった感じで適当に受け流していた。

いくら迫ってもその気にならない女性に対して、栗田の怒りが突然爆発した。、
「頭に来た!」「やらせないのなら、ここで皆殺してやる!」

自転車を停めて女性に襲いかかった。子供たちが異変を感じていっせいに泣き出した。
「うるさい!」
栗田は最初に自転車に乗っていた長男を引きずり降ろし、石をつかんで頭と顔をメッタ打ちにした。ぐったりとした長男を抱え上げて、10数メートル下の海めがけて崖から投げ落とした。

次に長女を激しく何回も殴り、顔も頭も血だらけにした後、同じように崖から突き落とした。

そして女性がおんぶしていた次女を女性の背中から引きはがし、足をつかんで地面に何回も打ちつけ、最後は片足を持って崖の上から放り投げた。

女性は恐怖に身がすくみ、へたりこんで「助けて!何でもするから!」と必死に命乞いをした。栗田は自転車に積んでいたむしろを地面に敷いてその上で女性を強姦した。その後にヒモで女性の首を絞めて殺し、死体は崖から投げ捨てた。

栗田は冷静にも、そのまま立ち去らずに、下へ投げ捨てた奴らがちゃんと海へ落ちているかどうかの確認を行った。すると、崖の中ほどのところに三人が引っかかって倒れているのが発見出来た。

栗田は自転車用のランプを手に崖を降りていって、その三人を更に石で殴りつけ、完全に殺害した。唯一、11歳の長女だけが見つからなかったのでそれはあきらめたが、実は長女はわりと軽症だったので、崖の中の草むらに逃げ込み、じっと隠れていたのだ。この子だけは何とか助かることが出来た。


その三ヶ月後の昭和27年1月13日、栗田はまたも殺人を犯す。場所は千葉市内で、以前栗田が盗みに入った家である。前回忍び込んだ時に、着物がたくさんあったので、それを覚えており、この家に再び侵入したのだ。

しかしこの家の主婦(25)に見つかって騒がれたため、タオルで首を絞めて殺害した。一緒に家にいた叔母(64)にも見つかったため、この叔母は包丁で腹を刺して殺害した。二人を殺した後、栗田は主婦(25)の死体を犯してから逃走した。

この事件で現場から栗田の指紋が検出され、犯行から三日後、ついに栗田は千葉県警に逮捕された。

公判で栗田は他の事件も自供し、昭和27年8月13日、千葉地裁は千葉県の事件(おせんころがしで崖から突き落としたの母子三人の殺害と、千葉市内での主婦絞殺・叔母刺殺)だけで死刑判決を下した。

また昭和28年12月21日、宇都宮地裁は他の三件(総武グループで三角関係になっていた女性二人の殺害と、栃木で女性を絞殺・大便をして逃走した事件)について、二回目の死刑判決を下した。

1959年10月14日、栗田の死刑は執行された。



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