Top Page 現代事件簿の表紙へ No.022 No.020
行く先々で会社を解雇され、膨らむ借金、四度の離婚。元から犯罪者の要素があった宅間は、社会に対する復讐として弱者の大量殺人を決断する。小学校を襲い、死亡者8名、重軽傷者15名を出す。また、逮捕後は、法廷での反省のカケラもない悪態が更に世間の反感を買った。 ▼事件発生 大阪府 池田市の大阪教育大学付属・池田小学校。 平成13年6月8日、午前10時15分ごろ、この池田小学校の通用門に一台の車が停まった。中から降りて来たのは宅間 守(たくま まもる 37) である。手には出刃包丁を持っている。 宅間は歩いて校庭を横切り、目の前の校舎へと向かった。一年生と二年生の教室がある、三階建ての校舎である。時間は二時間目の授業が終わったところだった。 宅間は校舎に侵入して、まず一番近くにあった「二年東組」の扉を開けた。「何だろう?」と、子供たちは一斉に扉の方を見る。宅間は「ハァハァ」と荒い息をしている。 この教室にはまだ先生がおり、宅間の手にある包丁を見た瞬間、普通ではないことに気づいた。 「外に逃げろ!」 先生は子供たちに向かって大声で叫んだ。子供たちにも包丁は見えている。全員が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。 しかし宅間は無言のまま、まず、逃げる際に転んだ子供に切りつけた。そして次々と、逃げ遅れた子供たちに切りつけ、刺した。 先生がイスを投げつけ、宅間はいったん教室のベランダに逃げたが、瞬(またた)く間にこの教室では4人の子供が重軽傷を負った。 しかしこの教室だけで終わりではなかった。宅間は続いて隣の「二年西組」にもそのまま乱入した。すでに返り血を浴び、包丁も血に染まっている。西組にいた女性教師が異常に気づき、大声を上げて子供たちに逃げるように指示した。 教室内はパニック状態となり、悲鳴を上げて逃げまどう子供たち。宅間は近くにいる子供に無差別に襲いかかった。この教室では8人の子供が襲われ、そのうち3人が死亡した。 そして更にその隣の「二年南組」にも乱入。ここでは先生はおらず、宅間は同じように襲い始めた。この教室での被害者が一番多く、5人が死亡した。逃げる子供を追いかけ、教室や廊下で手当たり次第に刺し、切りつける。 この「南組」の担任教師(27)は、ちょうどその時、花壇に水をまいているところだったが、突然子供たちの叫び声が聞こえ始めたので、びっくりした。 叫び声に混じって 「包丁で刺してる!」という声も聞こえてきた。 ただごとではないと思い、担任教師は急いで教室に向かった。 一方、宅間の暴(あば)れている犯行現場では、二人の教師が駆けつけてきており、二人がかりで宅間につかみかかったが、一人は刺されて重傷を負った。もう一人の教師も宅間に振りきられ、宅間は更に隣の教室へと向かった。しかし二つ続けて教室は無人であり、ここは飛ばしてその向こうの一年南組へ向かった。 ちょうどその時、音楽室での授業が終わった子供たちが何も知らずに教室に戻って来た。血まみれになっている廊下を見て、子供たちも異変に気づく。刺された子供たちが「痛い・・痛い」と苦しんでいる。 「入っちゃダメ! 逃げなさい!」と先生が叫び、教室の近くまで来ていた子供たちも一斉に逃げ出した。 花壇で水まきをしていた先生がかけつけてきて、宅間に襲いかかった。背中を切られながらも何とか包丁を持つ右手をつかんだ。更に顔も切られたが、必死に立ち向かう。 そして副校長(43)が加わり、二人がかりで包丁を取り上げ、足を抑えて、ついに宅間を取り押さえた。 捕まった宅間は観念したのか、「ふぅ、しんどい、しんどい。」と、つぶやいた。宅間は、学校からの通報で駆けつけてきた警察官に引き渡され、ようやく凶行は終わった。 わずか10分あまりの出来事だった。 死亡した子供は8人、重軽傷者は子供が13人、教師が2人。合計で23人の死傷者が出る大惨事となった。 ▼生い立ちと犯行の動機 宅間は子供の頃から根っからのワルで、その経歴にも常に犯罪がつきまとっている。また、家族にも多大な精神的苦痛を与えてきており、いずれこういった凶行に走る要素は十分にあったと言える。 宅間は、昭和38年11月23日に兵庫県伊丹市で生まれ、二人兄弟の次男であった。小学校6年の時に、地元ではハイレベルな中学校である大阪教育大学付属 池田中学校の受験を希望したが、宅間の成績ではとても無理ということで受験させてもらえなかった。 宅間の心情として、「自分をもっと頭の良い人間として産んでくれなかった親が悪い。」と親を恨むようになる。結局地元の中学校に進学し、その後は工業高校へ進むが、学校で教師を殴り、40日くらいで退学となっている。 学生のころから家庭内暴力もひどく、親も平気で殴った。またイライラする時は犬や猫を虐待したり殺したりして気を紛(まぎ)らわした。中学校の時は、学校で虫を見つけるとすぐに殺していた。一度、学校に蛇が出た時があるが、その時も捕まえて、皆の見ている前で蛇の頭を絞めて殺した。 昭和56年に高校を中退し、ガソリンスタンドに勤務するが、すぐに辞めてこの年の11月、航空自衛隊に入る。自衛隊には一年と少し勤めるが、昭和58年、家出娘を部屋に連れ込んでいたことがバレて警察の事情聴取を受け、このことが原因となって除隊させられる。(表向きは本人の意思で退職したことになっている。)
昭和59年、警察の検問を突破して逃げる。パトカーに追いかけられたが、阪神高速に入り、高速道路を逆走して逃げたため、この時も逮捕された。 更に、当時は不動産屋に勤務していたが、家賃の集金に行った先の女性を強姦してまたもや逮捕された。この時には精神病のフリをしてごまかそうとしたが駄目で、懲役3年の判決を受けた。 刑務所を出た後に実家に戻ったが、この頃から母親は精神的におかしくなっていた。宅間のこれまでの暴力や恐喝や傷害などの問題、刑務所に入ったこと、世間体などが母親の精神を崩壊させていったのだ。 父親も、すでに面倒を見きれなくなっていた宅間を勘当し、「二度とうちへ来るな!」と、実家から追い出した。 平成10年、伊丹市で池尻小学校の技能員として採用されたが、その翌年の11年にムカつくことがあって小学校の教師たちのお茶に精神安定剤を混入して飲ませたため、逮捕される。 しかし宅間が、幻聴や幻覚などの症状があると訴え、精神がおかしいフリをしたので、この件は結局不起訴になった。 宅間は金がなくなると実家へ行っては金をせびった。 7歳年上の兄は真面目に少しずつためた金でアウディの新車を買っていたのだが、宅間が「サラリーマンが外車に乗るなっ! 生意気なんや!」と、怒鳴って、角材で殴って車を徹底的に破壊し、廃車同様にした。 結婚は4回したが、いずれも暴力や嘘が原因で離婚している。最初の嫁は自分の職業が医者だと偽って結婚していたことがバレて逃げられた。次の嫁は、宅間がテレクラで知りあった女性を強姦して逮捕された時に逃げた。 三番目の嫁も宅間の前科を知り、逃げ出した。だが、宅間はこの三番目の嫁の時を執拗(しつよう)に追いかけた。「戻ってこんとビール瓶か塩酸で、顔ズタズタにしたるど!」などと脅迫電話をかけ、家に押しかけ、騒ぎを起こして追い詰め、最終的には殴って逮捕されている。 また、サラ金から金を借りてこの妻の素行調査を探偵に頼んだこともあって、借金も次々と背負っていった。この元妻は、これ以上つきまとわないことを条件に宅間に慰謝料200万円を払っている。 四番目の嫁は前述の、職場である小学校の教師たちに薬物を飲ませて逮捕された時に離婚している。これが原因となって宅間は小学校技能員という職も免職処分となった。宅間はこの後、約一ヶ月ほど精神科の病院に入院した。 平成11年5月、自己破産を申請。同じ年の9月、元養母の家に不法侵入して逮捕される。この時のも精神傷害を理由に不起訴になっている。そしてまた精神科の病院に入院する。 平成12年9月、タクシー会社に入社してタクシードライバーとなるが、約一ヶ月後、ホテルの従業員に注意されたことに腹を立て、その従業員に暴行を加えて逮捕される。タクシー会社も解雇される。 宅間のことで心を痛め過ぎた母親は精神科の病院に入院し、兄は自殺した。 ▼大量殺人を決断 私生活で何度も逮捕され、どの職場へ行っても悪者扱いされる、解雇される、サラ金・闇金の借金が返せない、中古車のローンも未払い、アパートも家賃滞納でいずれ追い出される、逃げた四人の嫁たち、そして中学生のころから続いている鬱(うつ)病、いくつもの苦悩が毎日頭をよぎり、だんだんと社会に対する復讐へと心情が傾いていく。 「何でワシばかりがこんな目に合う。ワシがこうなったのも、ワシを見捨てた親のせいじゃ、逃げた嫁のせいじゃ。ワシの苦悩を社会の奴らにも味あわせてやるんじゃ。 世の中に一番効果的に復讐するにはどうしたらええか・・。ダンプで突っ込んで大量に轢(ひ)き殺してやるか、女子高生をさんざん犯しまくってから全員殺すか、スチュワーデスを切り刻んでやるか・・。 いや、弱い者を襲うのがややえろ。そうや、小学生や、小学生をやったる!」 ここで考えがまとまり、付属池田小学校に乱入し、実行に踏み切った。 逮捕後、宅間は「今までさんざん不愉快な思いをして生きてきたんや。自殺しても死にきれん。ならばいっそ、大量殺人をして死刑になりたいと思った。」とも語っている。 ▼父親の予感と後悔 一方、宅間の父親も、子供のころからの宅間を見てきただけあって、宅間が逮捕されて8時間後の6月8日夜、兵庫県の自宅で報道陣へこう語っている。 「息子が事件を起こす前兆はありました。20歳のころに(精神)病院の屋上から飛び降りて死にかけたんです。あの時死んどってくれたら今回の事件は起こってへん。ワシは当時、家内と話しとったんや。このまま死んどってくれた方が苦労せんとになって。」 当時宅間は四階建ての建物の屋上から柵(さく)を乗り越えて飛び降り自殺を計(はか)ったことがあった。しかし、車のガレージが下にあり、その屋根に転落し、一命を取りとめた経験があるのである。 「そのまま命を永(なが)らえたから、今日の結果になってしもうたんや。ワシの悪い予感が当たってしもうた。」 ▼反省のない態度、法廷における暴言 宅間は、裁判において最初の頃こそ「命をもって償(つぐな)います。」といった反省の発言があったものの、その後は悪態のつき放題であり、1分程度で退廷を命じられたこともあった。 以下は宅間の法廷における発言の一部であるが、まるで反省ない態度であり、遺族の感情を逆(さか)なでするような発言が多々ある。 「おう、座っちゃあかんか?」 「反省や申し訳ない気持ちはない。自分への後悔だけ。」 「百人でも千人でも同じだった。関係のない子供より三番目の妻を殺した方が満足だったかも知れない。」 「(自分の父親を)殺していれば、もっと違う人生があった。懲役ら行かずに済んだ。」 「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分・10分で殺される不条理さを、世の中に分からせたかった。」 「世の中、勉強だけちゃうぞ、と一撃を与えたかった。」 「エリートの卵たちを殺して国家に殺されるんや。これで良かったんとちゃうか。」 「(この事件を)起こした後も全然満足していない。」 「子供がかわいそうとは思わない。同じやるんなら恵まれた子を、と。」 「謝罪の気持ちなんかあらへん。求刑死刑、判決死刑でええんちゃうか。」 「(犯行)前夜に戻れるんなら、ダンプにしてるやろな。その方が、5、6人はねた段階でスリップするとは考えられんし、数もいけたと思う。」 「(三番目の妻に対して)あの時、顔をズタズタにしてやればよかった。冷静になればなるほど何でせえへんかったんやろと、悔しくてたまらない。」 「女は絶対に殺すより顔を切る方がダメージが大きい。」 「償(つぐなう)うとか、関係ない。現実的に極刑しかないと思ったからそう言っただけ。謝罪する気持ちもない。」 「答えても答えなくても刑は一緒。絞首台に上がるまで秘密や。」 「立場を置き換えて、自分だったら(被害者だったとしても)謝罪されても何とも思わない。」 「(質問した検察官に向かって)ワシをなめとる。30秒あれば一人くらい殺せる。かかってこい!」 「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう。いずれにしても死ぬことはビビッてません。」 「不規則発言をして裁判長から退廷命令を下され、死刑を言い渡される前に自分は退廷する。遺族には死刑判決を言い渡される瞬間を見せてやらない。」 「おい、ワシに最後にひとこと言わせろや!」 「どうせ死刑になるねんから、そんぐらい認めてもええやろ!」 「こらっ○○(被害者遺族の名前を呼んで)、お前、子供と血ぃつながってないやないか!おい、こら○○、何とか言えや!」 「何も言えないよりは良かった。本当なら4人の遺族を名指しで批判するつもりだった。」 「(遺族に対して)あの世でお前らのガキをしばいたる。」 「お前らのクソガキ8人の命はワシ一人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ!」 このような発言をする一方、あくびや貧乏ゆすり、裁判官にガンをつけるなどの態度に、傍聴席から「宅間、早く死ね!」「一人で死ね!」などの罵声(ばせい)も飛び交った。 ▼死刑の確定した後 平成15年8月28日、大阪地方裁判所にて死刑判決が下る。9月10日に弁護団が控訴するが、9月26日に宅間の意思で控訴が取り下げられ、死刑が確定する。 刑事訴訟法第475条 第2項に「死刑確定後は6ヶ月以内に死刑執行される。」という意味の条文がある。 本気か精神傷害のせいかは分からないが、宅間はこの条文に基(もと)づいて、死刑の早期執行を望んでいた。 弁護人に送った文書に 「死刑は殺される刑罰や。6ヶ月過ぎていつまでもいつまでも嫌がらせをされる刑罰ではない。すぐ殺せば(精神的)ダメージがないので、しばらく嫌がらせをしてから執行する。そんな条文があるんか。法律家ならわしの身になれや。法律を遵守(じゅんしゅ)するのが法律家の仕事やろが。」 と記載している。 現実的には、法務省で行われる死刑執行手続きは極めて慎重に行われるため、6ヶ月以内に死刑執行されることはほとんどない。 死刑確定後から一年弱の平成16年9月14日、宅間の死刑は執行された。異例の早期執行であった。最後まで、遺族に対する謝罪はないままであった。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.022 No.020 |