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No.031 アル・カポネ04 〜 組織の頂点に立つ

カポネは26歳という若さで、ボスであるジョニー・トリオから莫大な収益を上げる犯罪組織を引き継いだ。今後対立組織につぶされるか、組織が拡大出来るかはカポネ次第となった。


▼オバニオンの後継者・ハイミー・ウェイスの報復

オバニオン殺害の指示を出したのはトリオとカポネであることはあっという間に裏社会で広まった。カポネもオバニオン一派からの報復を警戒し、どこへ行くにもボディガードを連れて行くようになった。特別防弾仕様の車を注文したのもこの頃である。

そしてオバニオンの組織の後継者となったのはハイミー・ウェイスという男である。当然のようにトリオとカポネに復讐を企(くわだ)てていた。


オバニオンが死んでまだ間もない時期、カポネは、あるレストランで食事をしながら談笑していた。このレストランの店長のトミーはカポネの親友であり、二人は非常に仲が良かった。

そこへ数人の男たちが、外から店のドアに近づいてくるのが見えた。客だと思って店長のトミーはドアを開けて出迎える。しかし突然、男たちはトミーを捕まえ、そのまま車の中に押し込んで逃走したのである。

翌日、石灰詰めのトミーの死体が発見された。この時ばかりはカポネは大いに泣いたという。しかしウェイスの復讐はこれだけで終わるはずもなかった。


1925年1月、今度はカポネの車が襲撃を受けた。路上に停めていたカポネの車に不審な一台の車が近づき、すれ違いざまにマシンガンを乱射したのだ。車の前部が大破した。

この時カポネは自分の経営するもぐりの酒場へ来たところで、ちょうど車から降りて店に入った直後の出来事だった。わずかな時間差で命拾いをした。明らかにカポネの命を狙った攻撃だった。


▼オバニオンの支持者ジョージ・バグズ・モラン一派もトリオとカポネを狙う

オバニオンがまだ生きていた頃、シカゴ南部を支配していたのがトリオとカポネのコンビなら、シカゴの北部はオバニオンの組織とジョージ・バグズ・モランという男の組織だった。

オバニオンが死んだ後、その組織を直接引き継いだのはハイミー・ウェイスであるが、ジョージ・バグズ・モランもオバニオンの支持者であり、自分の組織を持っていた。モランも、自分のボスとも言えるオバニオンを殺されたことで、トリオとカポネには相当怨みを持っていた。

この男には「瞬間湯沸かし器」というあだ名がついており、一度キレると狂気のように殺戮(さつりく)に走る男だ。

オバニオンの後継者ハイミー・ウェイスがトリオとカポネの命を狙っているところへ、モランというまた新たな敵が参入してきたのだ。


▼ジョニー・トリオが引退し、カポネが組織の頂点に立つ

オバニオンの後継者ハイミー・ウェイス、そして同じくオバニオンの支持者であったモラン一派も、トリオとカポネの命を狙っているという情報は早々にトリオの耳に入ってきた。

これまでの抗争と今後の殺し合いに嫌気がさしてきたトリオは、自分で刑務所行きを決断した。以前カポネとオバニオンと三人で共同経営していた、もぐりの酒の工場が警察の手入れを喰った件で自分の罪を認め刑務所に入ろうと思ったのだ。

しかしその直前、トリオは刑を言い渡される前に身辺整理のために五日間ほど猶予をもらったのだが、そのわずかな間にトリオは「瞬間湯沸かし器」モラン一派から襲撃を受けた。

トリオが車で自宅に帰ってきた時、突然マシンガンが火を吹いた。トリオが雇っていた運転手は即死、トリオ自身は車から降りて自宅の方へ走ったが、彼の左腕に弾丸が命中し、トリオの身体が回転した。更にアゴと胸にも弾丸をくらったトリオはその場に倒れ込んでしまった。

とどめを刺そうと、トリオの身体の上にまたがって銃を構えたのは他ならぬモランだった。モラン直々(じきじき)にトリオを殺しに来ていたのだ。

しかし、モランの銃には弾丸が残っていなかった。モラン自身も焦ったが、そのとき、モランの運転手がクラクションを鳴らし、モランは車に乗り込んで逃走した。


トリオは何とか一命を取りとめた。それから三週間が経ち、トリオは法廷に出席し、先日のもぐりの酒製造工場の件で判決を言い渡された。懲役九ヶ月だった。

刑務所の面会室でカポネと弁護士をを交えて話した時、トリオは自分の引退の意向を伝えた。
「俺はもう、シカゴの犯罪組織から脱退するつもりだ。相手のウェイスにはアイルランドやポーランドのギャングもバックについている。これからのシカゴは、酒をめぐって全面戦争が始まるだろう。後のことは頼む。」

トリオは自分が仕切っていた組織を脱退し、カポネに次のトップの座を託して、刑期を終えたら故郷のイタリアに帰るつもりでいたのだ。

この時、カポネはまだ26歳。これまで、ジョニー・トリオとアル・カポネというコンビと言われながらも、組織のトップはジョニー・トリオであった。そのトリオがいなくなり、これからはカポネ一人が組織を動かしていく立場となる。


▼激化するギャング同士の抗争・ジェンナ兄弟壊滅

1925年5月25日、故オバニオン一派のウェイスとモランは、ジェンナ兄弟のうちの一人を狙って攻撃に出た。車に乗っているジェンナを襲撃し、銃弾を浴びせた。

車で逃げるジェンナを車で追いながら銃撃を繰り返す。そしてついにジェンナ殺害に成功する。ジェンナ6兄弟の中で最初の犠牲者が出た。


6月13日、今度は逆にジェンナ兄弟の一人が、カポネお抱(かか)えの殺し屋の二人・スカリーゼアンセルミを連れてモランを襲った。モランには重傷を負わせたが、殺すまでには至らなかった。

しかしこの襲撃の最中、警察が駆けつけてきてしまった。モラン殺害は失敗したものの、ジェンナ一派はとにかく逃げなければならない。車で逃走したが、運転していたジェンナのミスで電柱に激突してしまった。

三人は車から降りて警官隊と銃撃戦を始めた。この一件で警官二名が射殺された。そしてジェンナ兄弟の一人も警官に射殺されてしまった。スカリーゼとアンセルミはその場からの逃走には成功したが、後に逮捕された。これでジェンナ兄弟は2人を失ったことになる。

この事件で、警官2人を射殺したスカリーゼとアンセルミであるが、後の裁判で「先に発砲したのは警官の方であり、警官の不当な攻撃から身を守った。」ということで無罪になっている。


そして7月8日、またもやジェンナ兄弟の一人が襲われた。彼は路上で数人の男たちに襲われ、残虐な殺され方をした。

ジェンナ6兄弟のうち3人までが殺された。残った3人には戦う気力はなく、シカゴを去って行った。ただ、ジェンナ兄弟が率いていた組織はまた別のギャングが引き継いだので、組織そのものが消滅したというわけではない。

後日、ジェンナを射殺した警官の家は粉々に爆破された。


▼カポネ、検事殺害の罪で指名手配される

翌年1926年4月27日、今度はシセロでビールの販売をしているギャングの一味をカポネが攻撃した。その一団の5人は酒場で酒を飲んでいたのだが、彼らが店から出てくると同時に5台の車が発進してそのギャング団の行く手を遮(さえぎ)った。

車の一台にはカポネが乗っており、同乗していた三人の部下は銃を構えていた。狙いが定まると一斉にギャング団に向かって銃撃を始めた。2人は逃げたが、残りの3人は射殺した。

しかし、この射殺された者の中になぜか検察の者が含まれていた。ギャングと検察が一緒に酒を飲んでいたということになる。


この後カポネは三ヶ月ほど行方をくらませていたが、7月になってようやく警察に出頭した。殺人容疑で起訴されていたが、証拠不十分ということで釈放された。

この時行われた記者会見では、カポネはもちろん自分の犯行を否定し、
「俺はあの検事を気に入っていた。俺が殺すわけがない。奴には金をやっていた。しかも大量に、だ。もっともやった分だけは回収させてもらったが。」
と語った。

検察側とギャングとの癒着(ゆちゃく)、そして法を守るべき組織の中に買収がまかり通っているという事実を堂々と語ったのである。

殺害された検事は後の調べで分かったことだが、ギャング団とも付き合いがあり、検事でありながら、もぐりの酒場にしょっちゅう出入りしていたことも分かった。あの時カポネ一味が敵のギャング団を攻撃した時に一緒にいたのもそのためだった。


ちなみにカポネは、逃亡していた間はミシガン州のランシングに潜伏していた。ここで友人の世話になっていたのだ。その時シカゴでは300人の警官を動員してカポネの行方を追っていたが結局分からなかった。

カポネはランシングにボディガード二人を呼び、優雅に湖で水泳をしたりしてのんびり過ごした。時には湖で子供たちの遊び相手になったり、この辺りの貧しい家庭には金を寄付したりもした。

ランシングの人たちはカポネの正体を知りつつも潜伏に手を貸し、好意的であった。この辺りの人たちが地元のギャングに脅かされているのを知ると、「この人たちに手を出すのであれば、この俺が、アル・カポネが相手をしてやる。」と脅すとギャング団はすんなりと引き下がった。すでにアル・カポネという名前は遠く離れた裏社会にまで響き渡っていたのだ。


▼ハイミー・ウェイスに休戦を申し込むが・・

潜伏先から再びシカゴに戻り、警察からも無事釈放されたカポネだったが、敵対組織はこれを待っていたかのようにカポネを襲った。

1926年9月20日、11台の車の行列が、カポネが昼飯を食べていたレストランの前をゆっくりと通りかかった。そしてどの車も、レストランを通過しながらマシンガンで銃撃し始めたのだ。最後の車が通り過ぎるまで銃弾の雨はやまなかった。

幸いにもカポネは無事、部下と他の客4人が負傷しただけだった。やったのはオバニオンの後継者ハイミー・ウェイス率いるノース・サイド団である。


殺し殺される現状になかば嫌気がさしてきたカポネは、とうとうハイミー・ウェイスに休戦を申し出た。もとはと言えばカポネが、ウェイスの親分であるオバニオンを殺したことで相手の恨みを買ったのだが。

カポネの子分の一人をウェイスとの話し合いの場に送った。しかしウェイスの返事は「オバニオン親分を殺した実行犯の2人・スカリーゼとアンセルミを差し出すなら抗争をやめてやる。」というものだった。

返事を聞いた子分はその場でカポネに手電話をかけ、ウェイスの意向を伝えた。
「そんなことは絶対に断る!馬鹿が!」カポネは即行で返事を返した。休戦交渉は決裂した。やはり殺し合いでカタをつけるしか選択肢はない。


▼ハイミー・ウェイスを始末する

ハイミー・ウェイスの事務所は、かつてオバニオンが花屋をやっていた建物の二階にあった。10月8日、ある男がウェイスの事務所から道路を隔(へだ)てて反対側にある建物の一室を借りた。
その部屋は二階にあり、ウェイスの事務所の入り口を監視するにはちょうどいい場所だった。

男は家賃一週間分を前払いすると立ち去り、その部屋には交代するかのように2人のイタリア人が住み始めた。もちろん、カポネの送った刺客である。2人のイタリア人は交代で常にウェイスの事務所を監視する。


そして10月11日の夕方、ウェイスの車が事務所の反対車線に停まった。ウェイスの他、4人が車から降り、道路を渡って事務所に入ろうとしている。2人のイタリア人はこの瞬間を見逃さなかった。二階からのマシンガンが火を吹き、彼らに向かって一斉に銃撃を開始した。

ウェイスを含めた3人が即死、他の2人が重傷を負った。最大の標的であるウェイスを仕留めた。カポネの休戦の提案を断ってから一週間後の出来事だった。

警察の調べでは、その部屋から35個の薬莢(やっきょう)が発見された。そしてカポネの組織のトレードマークである灰色のソフト帽もこの部屋に落ちていた。カポネが命じたのは明らかであるが、またもや逮捕者は出なかった。


カポネの休戦協定を断ったウェイスは、死という結末となった。そして1926年10月21日、シカゴを縄張りとする30人のボスたちがシャーマンホテルに集まり、今後に対する会議を開いた。裏社会だけの会議ではない。刑事の立会いのもと、記者団も集まった公(おおやけ)の会議である。

この会議の席上、カポネはそれぞれのきちんとした縄張りを決めて、互いの抗争は終結しようとの提案を出した。そしてそれはどれも承認され、カポネの意見は全面的に通った。シカゴではいつの間にか、カポネをボスの中のボスとそれぞれのギャング団が思い始めていたのだ。



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