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No.046 リンドバーグ、子供を誘拐される

世界で初めて大西洋横断飛行に成功し、一躍有名人となったリンドバーグだったが、その5年後、別荘滞在中の時、子供が誘拐されるという事件に巻き込まれた。犯人は身代金として5万ドルを要求してきた。


チャールズ・リンドバーグは、1927年に単葉機(主翼が一枚の飛行機)「スピリット・オブ・セントルイス号」で、アメリカ ニューヨークから、フランス パリの間を飛行し、世界で初めて飛行機で大西洋を横断したパイロットである。

この偉業は「翼よ、あれがパリの灯だ」というタイトルで映画化もされ、リンドバーグは一躍世界的な有名人となった。

しかしその5年後、リンドバーグを悲劇が襲う。


▼誘拐される

1932年(昭和7年)3月1日の夜、この日リンドバーグ一家はホープウェルの別荘にいた。予定ではこの日はもう、イングルウッドの自宅に帰っているはずだったが、一歳七ヶ月の息子が風邪を引いてしまい、状態が良くなるまで別荘に留(とど)まることにしたのだ。

リンドバーグ
別荘に泊まっているといっても完全な休暇ではない。リンドバーグは朝から仕事に出かけ、この日は20時ごろ別荘に帰ってきた。帰って来てすぐ、一緒に連れて来た子守り役のベティ・ガウに子供の様子を尋ねると「寝室でよく眠っていますよ。」と言う。

ほっと安心して、リンドバーグは妻と一緒に夕食を食べ始めた。2人で話しながら食べていると、「メリメリ・・。」と何かが壊れるような音が上の方から聞こえてきた。

「何の音?」夫人がリンドバーグの顔を見つめながら聞いた。リンドバーグも耳をすましてみたが何も聞こえない。外は風が強く、木々がざわめいている音が聞こえてくるだけだ。

「風だろう。何かが倒れたのかも知れない。」
「そうね、これだけ風が強ければね。」

さして気に止めることもなく夫妻は食事を続けた。


22時ごろ、子守り役のベティが2階の赤ん坊の部屋へ見まわりに入った。風邪気味なので、たびたび見ておかないと心配だ。部屋の電気は消してある。だがなぜか窓が少し開いており、カーテンがバタバタとはためいている。

「風で窓が勝手に開いたのかしら?」

ベティは不審に思いながらも窓を閉め、赤ん坊の眠っているベッドに目をやった。
「えっ!?」と思わずベティが声を上げる。
いるはずの赤ん坊の姿はそこにはなかった。ベッドはカラになっている。

ベティはすぐにリンドバーグ夫人の部屋に走っていき、「マダム、赤ちゃんはこちらですか!?」と尋ねてみると
「えっ?いいえ、いないわよ。」という返事だ。

2人でリンドバーグの部屋に行ってこのことを知らせ、リンドバーグもすぐに階段を駆け上がって赤ん坊の部屋にかけつけた。ベッドはカラになっているが、マクラにはまだ頭のへこみが残っている。

部屋をよく見渡してみると床のじゅうたんの上には泥のついた足跡が残っており、窓の外には組み立て式のハシゴが立てかけたままになっていた。

そして窓のサンには手紙がはさんであった。

手紙には汚い字でこう書かれていた。

「5万ドルを用意しろ。受け取り場所は後で知らせる。マスコミや警察には知らせるな。赤ん坊は無事だ。今後、手紙の目印はサインと三つの穴とする。」

手紙の最後には三つの穴を、更に二つの輪で囲(かこ)ったような模様が書かれてあった。これが犯人のサインということだ。今後の連絡にもこのサインを使うつもりなのだろう。

「誘拐された!」
リンドバーグ夫妻は、信じたくない現実を全て理解した。

警察には知らせるなと書いてあったが、自分たちではどうしようも出来ない。リンドバーグ夫妻は悩んだ末に警察に連絡することにした。


すぐに現場の捜査が始まった。
家の壁に立てかけてあったハシゴは6段目が折れて壊れており、さらにその真下の地面は少しへこんでいた。

犯人が赤ん坊を抱いてハシゴを降りているうちにハシゴが折れて、犯人は赤ん坊を抱いたまま地面の上に落ちたのはほぼ間違いないようだ。

調査によると、ハシゴは素人の手作りであると判断された。

一方手紙の方も分析が開始された。かなり汚い字で書かれており、スペルも間違っていた。「anything」が「anyding」 になっていたり、「good」が「gut」になっている。筆跡鑑定家は、知的レベルの低いドイツ人が書いたようだと判断した。

事件はすぐにマスコミに伝えられ、大々的に報道された。「警察にもマスコミにも知らせるな。」と書かれてあったが、犯人の意図に反してたちまちのうちに国中で大騒ぎとなってしまった。

犯人からの次の連絡はなかなかこない。夫人は不安のあまりとり乱し、警察に帰ってくれるように頼んだり、ラジオに出演して子供を返してくれるようにと、犯人への呼びかけも行った。

しばらくしてようやく手紙がきた。例の三つの穴のサインのしてある手紙だ。「子供の世話は十分しているから安心しろ。」と書かれており、前の手紙と同じく「good」が「gut」になっていた。誰かのイタズラではなく、本物の犯人からの手紙とみて間違いない。


▼誰か間に入ってくれる人物はいないか

「犯人側」と「リンドバーグ・警察側」との交渉では事件解決は難しいと考え始めたリンドバーグは、「社会的地位のある、警察ではない第三者」が我々の間に入ってくれないかと、マスコミを通じて世間に呼びかけた。

これに対してニューヨークに住む72歳の教育家・コンドン教授が名乗りを上げた。「私が間に入って犯人側と交渉してみよう。」
さっそくコンドン教授は、地元ブロンクスの新聞に

「誘拐犯とリンドバーグ夫妻の間に入って、今後は私が交渉に当たる。」「身代金の要求を飲むので連絡が欲しい。」と広告を掲載した。

新聞を見たのか、間もなく犯人から次の手紙が来た。三つの穴のサインもしてある。

「お前が(コンドン教授が)リンドバーグから金を預かったら、『金が用意出来た(Mony is Redy)』と、ニューヨーク・アメリカン新聞に広告を出せ。その後に次の指示を出す。」

手紙にはこう書かれてあった。


▼コンドン教授、犯人と接触

数日後、ついに犯人から教授に電話がかかってきた。犯人は男、それも太いしゃがれたような声で「明日の晩、23番通りの墓地で会おう。そこへ金を持って来い。」と言った。
この時教授は、犯人のそばで、別の男がイタリア語で何か話していたのを聞いている。

だがまだ金が用意出来たという広告は出していない。にも関わらず電話してきたというのは焦っている証拠だろうか。

そしてここから先は警察の介入はない。コンドン教授の単独行動となる。


次の日の晩、指定された時間にその墓地へ行くと、墓地の入り口の門の前に覆面をした男が立っていた。

「金は持って来たか。」覆面の男が尋ねる。
「いや、あなたからの連絡が早過ぎた。まだ用意出来ていない。それよりも赤ん坊は無事なのか?」

「大丈夫だ。元気で生活している。」

「何か赤ん坊が元気だという証拠をくれ。取引きはその後にしたい。」
「分かった。では赤ん坊のパジャマを送ろう。」

この時にはこれ以上の進展はなかった。無事を主張する犯人の言い分を信じてこの場は帰るしかない。

3月16日、誘拐されてからすでに15日が過ぎていた。この日、リンドバーグ家に犯人からのものと思われる小包が届いた。中には赤ん坊のパジャマが入っていた。確かに自分たちの子供が着ていたものだとリンドバーグ夫妻も認めた。

それから間もなくして新聞に、犯人が待ちに待った、コンドン教授からの広告が掲載された。

「金が用意出来た。私コンドンと、リンドバーグ氏の2人で現場に向かう。警察の尾行はないから安心しろ。」

これに対して犯人からすぐに手紙は来た。手紙には場所や時間の指示が書かれてあった。

ニューヨーク警察は我々も一緒に行くと主張したが、リンドバーグはこれを断り、自分たちだけで交渉に当たられてくれ、その後にまた連絡すると言い、犯人との交渉に向かうことにした。


▼5万ドルを渡す

4月2日、コンドン教授とリンドバーグは5万ドルを木箱に入れて車に積み、東トレモント・アベニューへ向かった。

犯人から指示された花屋の前に到着した。花屋の前にはテーブルが置いてあり、そのテーブルの下に次の指示を書いた手紙が置いてあるらしい。

教授が車から降りてテーブルの下を探すと、確かに手紙が置いてあった。
「この少し先にセント・レイモンド共同墓地がある。そこで待っている。」
手紙にはこう書かれていた。

教授とリンドバーグが墓地につくと、
「おい、ここだよ!」

と、闇の中から声が聞こえてきて、覆面をした男が現れた。前回会った犯人に違いない。

「金は持って来たのか?」覆面の男が尋ねる。
「待て、その前に赤ん坊はどこだ?」

「まあ、そう急ぐな。赤ん坊の居場所はここに書いてある。」そう言って覆面の男は教授に手紙を手渡した。

その見返りに5万ドルの入った木箱を受け取ると、覆面の男はすぐに闇の中へと消えていった。

すぐに手紙を開いてみた。

「マサチューセッツ州のマーサ・ビニヤード島の沖に、ネリー号というヨットが停泊している。赤ん坊はそのヨットに乗せてある。」

すぐに教授とリンドバーグは警察に連絡し、手紙に書かれてあったあたりを警備艇と飛行機で徹底的に探した。しかし見つからない。ネリー号というヨットなどはどこにもなかったのである。


▼赤ん坊発見

犯人との交渉が終わって1ヶ月以上が過ぎた5月12日の午後、木材を積んだトラックが小雨の中、マウント・ローズとホープウェルをつなぐ山の中を走っていた。運転手の一人が小便がしたくなったので車を停め、立ちションをしようと茂みの中へ入った。

何気に立ち寄った場所だったが、地面に妙なものがあることに気づいた。枯れ葉に埋(うず)もれて何かが地面から出ている。
よく見ると小さな人間の片足だった。

運転手は悲鳴を上げてトラックに駆け戻り、相棒に「死体だ!子供の死体だ!」と叫んだ。

すぐに警察に連絡し、調査が開始された。死体は腐乱しており、雨風にさらされ虫に食い荒されて無残な姿となっていた。調査によると、誘拐されていたリンドバーグの子供の可能性もあるとして、リンドバーグ夫妻に来てもらった。

ほとんど見分けがつかない状態となっていたが、子供の身につけていたフランネルの下着が目印となり、リンドバーグ夫妻は涙ながらに「私たちの子供です。」と証言した。死体の発見場所は、誘拐された別荘から 1.6kmくらいというごく近い場所だった。

死因は頭蓋骨骨折と鑑定された。犯人がハシゴを降りている時、ハシゴが折れて転落し、その時に赤ん坊を落として赤ん坊は強く頭を打ったらしい。誘拐された時点ですでに死んでいたのだ。


▼リンドバーグ紙幣

これまでは人質が取られているということで、犯人を刺激しないように大掛かりな捜査は控えていた警察だったが、子供が死体で発見されるという結末となり、これを契機に捜査を強化した。

誘拐に使われたハシゴは、連邦森林試験所の所長であるケーラー氏が調査を依頼された。このハシゴに使われている材木の出所を探すのだ。

アメリカには当時4万軒近い製材所があったが、この材木を扱っている製材所はそのうちの2000軒、そしてハシゴの木片を調査した結果、八枚刃の電気カンナで加工されたことも分かり、その種の電気カンナを使っている製材所は700軒ある。

こうして少しずつ絞っていって、ついに材木を販売した会社が判明した。ブロンクスにあるナショナル・ランバー&ミルワーク社である。犯人はブロンクスに住んでいる可能性が高い。


また、身代金として犯人に渡した5万ドルは、リンドバーグがすべて紙幣番号を書きとめておいた。5ドル、10ドル、20ドル紙幣で合計5150枚ある。

警察は「リンドバーグ二世の身代金紙幣」としてその番号の表を作り、アメリカ中のガソリンスタンドや銀行、郵便局に配って協力を呼びかけた。

ほどなくして「リンドバーグ紙幣」はニューヨークの商店やガソリンスタンド、銀行などでちらほらと発見され始めた。主にブロンクス区とマンハッタン区で見つかり、ドイツ人が多いヨークビルのあたりに特に集中していた。


▼逮捕

1934年9月15日、マンハッタンの、あるガソリンスタンドに緑色のセダンに乗った一人の男が給油をしに訪れた。

「満タンでよろしいですか?」
給油係のライルが聞くと「いや、エチル油を5ガロンだけ。」と答えて上着のポケットから10ドル紙幣を取り出して給油係に渡した。

リンドバーグ紙幣のことはこの給油係も知っていた。また、マスコミの報道によって、犯人はドイツ人の可能性もあるということも聞いていた。

このお客のドイツ語なまりのような独特のしゃべり方が印象に残り、給油係は受け取った10ドル紙幣に、一応車のナンバープレートの番号を書きとめておいた。


「ちょっと銀行で調べてきてくれないか?」給油係のライルは部下にこの10ドル紙幣を渡して頼んだ。部下は近くの銀行に訪れて、一通り説明をして銀行に10ドル紙幣を預けて帰った。

銀行側が調べると結果はすぐに判明し、支配人は警察に連絡した。
「A773976634Aのナンバーの10ドル紙幣を発見しました。記録表で調べてみた結果、間違いなくリンドバーグ紙幣です。

男はガソリンスタンドでこの紙幣を使ったらしく、車のナンバーは 4U - 13 - 14です。」

これまでのリンドバーグ紙幣の発見とは違い、今回は使った男の車が明らかになっている。捜査本部も急に慌ただしくなった。

車のナンバーは交通課の自動車鑑札台帳で調べた結果、持ち主が判明した。

ニューヨーク市ブロンクス区東222-1279に住んでいるブルーノ・リシャルト・ハウプトマン(35)という男である。現在はアメリカ在住であるが、出身がドイツであることも判明した。妻と幼い子供の3人暮らしで、職業は大工である。

警察はすぐにハウプトマンの監視体勢に入った。
1934年9月18日、8時55分ごろ、ハウプトマンが車に乗って家を出発したところを、あらかじめハウプトマンの自宅を見張っていたFBIやニュージャージー州警察、ニューヨーク警察の警官が3台の車に分乗して後をつけ、間もなくして車で前後からはさみうちにし、あっさりと逮捕した。

さっそくハウプトマンの自宅の家宅捜査が行われた。ガレージに置かれていた箱から1万5千ドルの紙幣が発見された。リンドバーグ紙幣だった。また、物置の戸棚の内側には、犯人との交渉を行ったコンドン教授の電話番号が書かれてあった。

更に文章を書かせてみると、犯人からの手紙と同じ個所を間違えて書いた。また、ドイツに住んでいた頃、前科が何件かあり、そのうちの一件はハシゴを使って侵入した強盗であることも判明した。

ドイツで懲役5年を受けた後ハウプトマンはアメリカに不法入国し、そこで結婚して工務店を始めた。店は結構繁盛しており、生活は順調だったが、なぜかこの2年間は仕事を辞めていた。


▼ハウプトマンの言い分

逮捕されたハウプトマンは容疑を一切認めようとしなかった。
「ガレージにあった金は友人の『イサドア・フィッシュ』から預かったものだ。俺の金じゃあない。」

と、頑として言い張った。

「フィッシュと俺は同じドイツ出身で、1932年にアメリカで一緒に仕事を始めた。だが、今から3年くらい前にフィッシュは仕事を辞めてドイツに帰っちまった。

俺はあいつに7500ドル貸していたんだが、あいつは借りた金を返さないままドイツに帰っちまって、その翌年、死んじまった。」

ある日ハウプトマンは、自分の工務店の倉庫に入った時、わりと大きなブリキの箱を発見した。自分が置いたものではない。多分フィッシュが残していったものだ。フタを開けると金がいっぱい入っていた。

「あいつは金を貸したまま死んだ。この中からそれを返してもらおう。」そう思ってハウプトマンはその箱の中から金を取り出し、それを使っただけだというのである。


▼裁判

誘拐と殺人で起訴されたハウプトマンは1935年1月2日、ニュージャージー州フレミングトンで裁判にかけられた。

有力な証拠となったのはハシゴである。ハウプトマンの自宅の屋根裏の木材が一部切り取られているのが発見され、その切り取られていた部分はハシゴの一部に使われていたことが判明した。その部分を屋根裏の切り取られた個所に当てはめてみると大きさもクギ穴の位置もぴったり一致した。

「工務店をやってる大工の俺が、あんなボロいハシゴを作るわけがない!」とハウプトマンは主張したが、陪審には無視された。コンドン教授もハウプトマンの声は墓地での取り引きの時に聞いた声にそっくりだと証言した。

1ヶ月半に渡った裁判で1935年2月13日、ハウプトマンには殺人罪の判決が下され、すぐに起訴したが棄却されて死刑が確定した。

1936年4月3日、ハウプトマンは電気椅子にかけられて処刑された。

ハウプトマンの妻は無実を訴え続けたがそれもむなしく終わり、身代金の残りの3万ドルあまりはついに発見されなかった。


▼真犯人は他にいるという説

この事件はリンドバーグ紙幣を隠し持っていたハウプトマンが逮捕され、死刑となって結論となっている。

しかしその一方で、実はハウプトマンは無実ではなかったのかという説も存在しており、この事件が紹介される時、解決が不明瞭なミステリアスな事件として紹介されることもある。

ハウプトマンを犯人と決定づけた証拠のほとんどが曖昧(あいまい)なものばかりだからである。

まず、ハウプトマンは別に金には困っておらず、身代金目的の誘拐をする必要がない。工務店を始めてから商売は順調で、2年後には食堂を一軒買い取っている。

コンドン教授が電話で聞いた、側にいたイタリア語で話す男とは何だったのだろうか。ハウプトマンの単独犯行ということで裁判は終了しているが、共犯者はいなかったのだろうか。

共犯については、捜査の最初の段階でリンドバーグ家のメイド2人が疑われている。内部からの手引きがあった可能性も高いからだ。あの時別荘にいたのは子守り役のベティだけではなく、他にメイドが2人いたのだが、このうちの一人のメイドは後に服毒自殺をしている。

また、戸棚の内側に書かれていたコンドン教授の電話番号は、新聞記者がイタズラで書いたものだということが後に判明した。


また、1980年代に入ってこの事件を改めて検証し始めた研究家が、犯人からの手紙とハウプトマンが書いた文章を、2人の筆跡鑑定家に見てもらったところ、2人とも同一人物が書いたとは思えない、という結論を出している。

墓地で聞いた犯人の声とハウプトマンの声はそっくりだと証言したコンドン教授にしても、教授が犯人との接触で聞いた言葉はわずかなもので、それから2年以上も経ってハウプトマンの声を聞いているのだ。記憶が確かなものかどうかは疑問が残る。

屋根裏の材木が切り取られてハシゴの一部に使われていた件にしても、あの時ハウプトマンの妻は、マスコミの追求に耐えられずに家を出て行方をくらませていた。警察が屋根裏の一部が切り取られているのを発見したのは、家の住人が不在の時である。
歪(ゆが)んだ推測をすれば、警察がそのような細工をして証拠をでっちあげることも出来たのだ。

死体にしてもかなり腐乱して服もボロボロになっており、リンドバーグ夫妻はほとんど下着だけの判断で誘拐された我が子だと判断しており、親とはいえど、この証言も不確かなものだ。


そして時は流れ、ハウプトマンが処刑されてから41年が経った1977年3月28日、当時収監されていたハウプトマンが母親に対して無実を訴える手紙を書いていたことが公表され、反響を呼んだ。

この手紙はハウプトマンが服役中だったニュージャージー州トレントン刑務所のキンバリング所長に託したもので、5000語からなる長文である。事件から40年以上も経ってから公表されたのは、当時のキンバリング所長が、この手紙を公(おおやけ)にすると検察側にとって不利になると考え、自分の手元に隠しておいたためである。

「自分はリンドバーグ家とは何の関係もない。だいたい何の罪で裁かれているのかも分からない。弁護士は自分の話に全く耳を傾けず、会う時はいつも酔っぱらっている。自分の無実を訴える証拠は弁護士が全部もみ消してしまい、弁護士と検察が証拠をでっちあげて自分を犯人に仕立て上げているのだ。」

といったことがこの手紙には書かれている。

ハウプトマンにとって致命的だったのは、彼がリンドバーグ紙幣を大量に持っていたことを検察側に納得出来るように説明出来なかった点である。

ある研究家によれば、5万ドルのリンドバーグ紙幣は真犯人が暗黒街で安く売りに出して、それをフィッシュが大量に買って倉庫に隠しておいたのではないかと推測している。そしてそれを倉庫で見つけたハウプトマンが拝借した。

つまり、リンドバーグ紙幣の流れは
真犯人 → 暗黒街で売買 → フィッシュ → ハウプトマン
となり、最終的に持っていたハウプトマンが犯人とされた。

もちろんこれは仮説であり、事件そのものはすでにハウプトマンの死刑という形で解決している。仮にハウプトマンが無実であり、真犯人が他にいたとしても、その真相が分かることは今後もない。



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