マタ・ハリ処刑を伝えるニュース

1917年10月16日、フランスの新聞「フィガロ」に、以下のような記事が掲載された。

第一次女世界大戦中において、ドイツとフランスの二重スパイとして活動していた女性マタ・ハリの処刑に関する記事である。


マタ・ハリは1917年7月24日、パリ第三軍法会議で死刑の判決を受けた。

罪状(ざいじょう)は、スパイ活動をしていたこと、および敵国(ドイツ)へ情報を伝えていたことである。

彼女はフランス国外で、敵軍(ドイツ)の幹部や情報局と直接連絡をとっていた。

1916年の5月以降、彼女はスパイ活動に対して、ドイツ側から多額の報酬を受け取っている。

物的証拠を示され、彼女は全ての罪状を認めた。全員一致で死刑判決が出され、昨日の早朝、死刑は執行された。


この新聞記事にある女性マタ・ハリはオランダ人で、本業はダンサーであった。それも国境を越えてヨーロッパ各地で公演を行うほどの有名ダンサーであり、この世界では大成功していた人物である。

それゆえ彼女のファンも多く、各国の政府関係者や軍の幹部とも付き合いがあり、その人脈を駆使してスパイ活動を行っていた。しかもフランスとドイツの二重スパイとして動いていた。

マタ・ハリが活動していたのは第一次世界対戦真っ只中の時代。最もスパイが活動していた時代だった。

だいたい二重スパイの最後はどちらかによって処刑されるというのが一般的と言われるが、彼女の場合もまた、最後はフランス側によって捕らえられ、処刑された。

マタ・ハリの生い立ち、ドイツ側のスパイとなるまで

「マタ・ハリ」とはダンサーとしての名前であり、本名はマルガレーテ・ゲルトルード・ツェレという。(Margaretha Geertruida Zelle = マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレという表記もある。)

1876年、マタ・ハリは、オランダの裕福な帽子店の娘として生まれた。子供の頃は何不自由ない生活を送っていたが、彼女が13歳になった時から人生が変わり始めた。

石油に投資していた父が投資事業に失敗し、破産してしまったのだ。両親は離婚し、間もなく母は死亡、一家はバラバラになってしまった。

一人で生きていかなくてはならなくなったマタ・ハリは、苦しい生活の中、19歳の時に、新聞で「結婚相手募集」という記事を見つけ、これに応募した。

当時男性が結婚相手を募集する広告を新聞に出すのは珍しいことではなく、この時広告を出していたのは、オランダの軍人であるマックレオド大尉だった。

マタ・ハリとマックレオド大尉は出会ってすぐに結婚し、間もなく子供も生まれた。だが、元々愛し合っての結婚ではなかった上に、夫もすぐに浮気を始め、2人の関係は冷え切ったものになっていった。

結婚2年目にマタ・ハリ一家は、オランダ領のジャワに移住したが、そこで子供を事故で失う。そして1902年、離婚。

再び独身になったマタ・ハリは仕事を求めてパリに出てくる。この時彼女は26歳になっていた。だがなかなか希望の仕事にはつけず、生活もどんどん苦しくなっていった。

そんなある日、マタ・ハリは友人の家のパーティに招かれた。そこで彼女は余興として、子供の頃に覚えたジャワ舞踊(ぶよう)を招待客に披露した。

これがたまたまこの場に来ていた興行師に認められ、ダンサーにならないかと話を持ちかけられた。仕事に困っていたマタ・ハリはすぐにこの話を受け、とんとん拍子に事は進み、1905年、マタ・ハリは29歳の時にダンサーとしてデビューすることとなった。

ここから人生の運気が一気に逆転した。最初こそ、小さなサロンの中でわずかなお客の前で踊るぐらいのことだったが、やがてパリのオランダ劇場、イタリア・ミラノのスカラ座など、ヨーロッパ各地を巡り、国境を越えて一気に有名ダンサーとなった。

マタ・ハリの舞台は強烈だった。

宝石を散りばめたブラジャーと腰布、そして薄いベールをまとって登場し、エキゾチックな音楽に乗って踊りながら1枚ずつ服を脱いでいく。

いわばストリップのようなダンスで、エロティックな要素が満々のダンスだった。


これが観客に爆発的に受け、ダンサーとして大成功を収めることが出来たのだ。

<マタ・ハリ>


人脈もどんどん広がっていった。政府関係者や、軍関係者たちと多く交流を持つようになり、ずいぶんと顔がきく存在となっていった。

それと同時に政府や軍の男たちを相手に娼婦(しょうふ = 売春婦)もするようになっていった。

インドネシア語で太陽を意味する「マタ・ハリ」を名乗り始めたのもこの頃からである。

だが、またも人生が変わる時が訪れた。第一次世界対戦の勃発である。

1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺され、これを契機に第一次世界対戦が始まり、ヨーロッパ各地が戦火に包まれた。

マタ・ハリも仕事が減り、収入も減っていった。そして対戦真っ只中の1915年の秋、なぜか「ドイツの領事」が、マタ・ハリに連絡をとってきた。

話を聞けば、ドイツ側のスパイになってくれという。スパイになって、フランス側の情報を探(さぐ)ってくれというのだ。

もちろんこれは、マタ・ハリがヨーロッパ各国で、軍関係者や政界にも知り合いが多いということを知った上での依頼だった。報酬は弾むとの言葉を受け、マタ・ハリはこの話を受けることにした。

マタ・ハリには「H21」というコードネームがつけられた。

さっそく前金をもらうとマタ・ハリは、フランスのパリへ向かって出発した。もっともここでは大した活動はしなかったが、この時点で「ドイツ側のスパイであるマタ・ハリ」が誕生することとなった。

その後ドイツに渡り、フランクフルトのドイツの諜報(ちょうほう)期間で教育を受け、今後はドイツ側のスパイとして活動することとなる。


ハニートラップ

マタ・ハリの最も得意とした諜報活動は、「ハニートラップ」であった。

ハニートラップとは、女スパイの最も得意とする手段で、いわゆる色仕掛けである。まずターゲットに近づいて親しくなり、男と女の関係まで持っていく。

セックスの最中に情報を聞いたり、性的テクニックで自分の虜(とりこ)にして聞き出したり、あるいは不倫をネタに脅したり、アブノーマルなセックスをしてその映像を隠し撮りしておいて、それで脅すなどの方法がある。

場合によってはセックスの最中に相手を殺す女スパイもいるという。

古代の社会から延々と続いているスパイ行為であり、ハニートラップによって重要な機密が漏れたことは数限りなくあるという。

今後どれほど文明が進歩しても、永久に有効な手段と言える。

これにかからないように、任務が終わるまでは女を近づけないようにする軍人や諜報部員もおり、また、極秘作戦を実行する軍人も、その任務が終わるまではバーなどの、女が近づいて来る場所には出入りしないようにと言われる場合もある。

マタ・ハリと寝た男は何十人とも何百人とも言われている。スパイといえば、盗聴や侵入、尾行などのイメージがあるが、マタ・ハリの活動はほとんどこれのみで情報収集を行っていた。


スパイの疑惑がかかる

大戦中はどこの国も、スパイには過敏になっており、敵国のスパイ探しにやっきになっていた。

部隊の移動ルートや物資の輸送ルートなどが敵国に漏れて、そこを攻撃されると大打撃を受けてしまう。戦争における情報というものは戦局を大きく左右するのだ。

ヨーロッパ各国でも、一般市民から「あいつはスパイじゃないのか?」と、警察に密告が多く寄せられており、実際あちこちで次々とスパイが逮捕されているような時代だった。

そうした中、マタ・ハリにも疑惑の目が向けられることとなった。最初に疑惑の目を向けたのはイギリス情報部である。

イギリス情報部がドイツ情報部のことを調べている時、「ドイツ情報部の部長には愛人がいる。」という情報をつかんだ。

その愛人というのがマタ・ハリだった。

実際にはマタ・ハリの愛人の相手というのは、この部長が、情報部に配置替えになる前、まだ警察組織にいた時の部下の一人だったのだが、イギリス情報部はこの部長とその部下である警官を混同し、部長の愛人がマタ・ハリだと勘違いをしたのだ。

「ドイツ情報部の部長の愛人で、なおかつヨーロッパ各国をまわる売れっ子ダンサーであり、あちこちの国の政府関係者や軍人に知り合いがいる。」

これはドイツ側のスパイとして疑われるには十分な要素だった。


また、マタ・ハリには別の愛人もいたのだが、その中の一人に軍の中尉の地位にある男がいた。彼の紹介でマタ・ハリは、ドイツの皇太子ヴィルヘルムとも親しい関係になっており、このこともドイツ側のスパイではないかと疑われる要因の一つとなった。

対戦中、イギリスとフランスは同盟国で、イギリス情報部とフランス情報部は、お互いに得た情報を流し合っており

「ドイツ情報部の部長の愛人であるマタ・ハリという女は、ドイツ側のスパイである可能性がある。」

と、イギリスからフランスに伝えられた。

フランス側からもスパイの誘い

1916年、マタ・ハリは40歳になっていた。この当時も、相変わらず愛人がおり、この時の相手はフランスのパリで知り合ったロシア人将校ウラジミール・ド・マスロフだった。

彼はマタ・ハリよりも19歳も年下だったが、マタ・ハリも歳をとるにしたがって、年下の男が好みになっていったらしい。

だが大戦中ウラジミールはドイツの毒ガス攻撃で右目を負傷してしまい、前線の温泉地で療養することになってしまった。

彼のところへ見舞いに行きたい。だが、彼のいる場所は戦闘地域であり、そこへ行くためには「交戦地有効のスタンプを押してある通行証」が必要になってくる。

そして金もいる。

マタ・ハリは、まず通行証を手に入れるために、自分の軍関係の知り合いの中でも、かなりの大物である、フランス陸軍のジョルジュ・ラドゥーを訪ねていった。

ジョルジュ・ラドゥーは、陸軍大尉であり、なおかつフランス情報部の取りまとめ役を務めている。いわばフランス情報部のトップに位置する男だった。

ラドゥーは、マタ・ハリにドイツ側のスパイではないかと容疑のかかっていることは知っていた。知っていた上でマタ・ハリと合うことにした。

ラドゥーはマタ・ハリに通行証を発行する引き換え条件を出してきた。

「国際的な女性という地位を利用して、フランスのために働いてもらえないかな?

ドイツ側の情報を収集して、こちら側に教えて欲しい。」

ドイツ側のスパイではないかと疑惑のある女に、今度はフランス側のスパイになれと言う。

「そんなこと、考えたこともありませんでしたが・・。」

マタ・ハリも戸惑って、こう返事をしただけだった。

「とんでもない大金が手に入りますよ。まあ、じっくり考えてみて下さい。」

数日後、ラドゥーが手をまわしてくれたおかげで無事、通行証は発行された。マタ・ハリはすぐに彼の元へと出発した。

通行証の件で世話になり、今後の実績次第では大金をくれるという。

マタ・ハリはこの話を受けることにした。これからはフランス側のスパイとしても活動していくことになる。この話を受ければ完全な二重スパイになってしまうが、マタ・ハリは決断した。

フランス側の上司はこのジョルジュ・ラドゥー。彼が今後はマタ・ハリに指示を出す。

1916年12月。マタ・ハリはさっそくラドゥーから指令を受けた。

「スペインのマドリードにあるドイツ大使館に行き、ドイツ側の人間であるかのように見せかけて、大使館の人間と接触を持ち、ドイツ側の情報を収集して来てくれ。」

というものだった。

「ドイツ側の人間であるかのように見せかけ」なくても、マタ・ハリは本来ドイツのスパイである。ドイツ側に戻れば、すんなりと話は通じる。

ドイツ大使館へ行くと、そこであっさりと陸軍武官のフォン・カレと会うことに成功した。もちろん、カレも、マタ・ハリが国際的な踊り子であり、ドイツ側のスパイであることは承知していたので、会っても良いという気になったのだ。

カレはマタ・ハリを書斎に招き入れ

「私は知らない女性と会う習慣はないのだが、あなたなら大丈夫でしょう。」

と、2人きりでいろいろと話を聞かせてくれた。

「今、潜水艦の手配をするのに忙しいんです。モロッコのフランス占領地帯に、ドイツとトルコの兵士を何人か送り込まなければなりません。」

会話の流れの中でフォン・カレはこういった言葉を口にした。

マタ・ハリはカレと別れた後、すぐにフランスのラドゥーにこの情報を伝えた。

折り返しラドゥーから

「ドイツがモロッコ周辺の潜水艦を増やそうとしているとの情報が入っているので、真相を確かめてくれ。」

との指示が来た。

24日、マタ・ハリは再びフォン・カレから、この件の情報を得ようとカレの自宅を訪ね、そのことをそれとなく聞いてみたが、

「あなたに、あまり潜水艦のことを話していると、このことがバレた時、私は(ドイツの)ベルリンで、面倒なことになるかも知れません。」

と言われ、肝心なところははぐらかされてしまった。

疑惑が確信に。H21とは誰

フランスのラドゥーに言われ、フランス側のスパイとして、ドイツ大使館のカレから情報を引き出していたが、マタ・ハリは元々はドイツのスパイである。

ドイツ大使館のフォン・カレに会う時はドイツ側のスパイになっており、カレにはフランスの情報を色々と伝えていた。

ドイツ側のスパイという任務もきちんと行っていたのである。
マタ・ハリは完全なる二重スパイになっていた。


ドイツ大使館のカレは、マタ・ハリから聞いた情報を(ドイツの)ベルリンに、暗号電文にして送信していた。

12月25日、カレはベルリンにこのような電文を送った。

「H21のために1万5000マルクをすぐに送れ。」

H21とはマタ・ハリのコードナンバーである。

そして年が明けた後、今度は別の件でベルリンからカレ宛てにこういった電文が届いた。

「H21に、すぐにフランスに入り、1万5000フランを前金として任務を続行するように指示しろ。」

ドイツが送信している無線は、この当時フランス側に傍受されていた。しかも暗号で送っているにも関わらず、フランス情報部はその暗号も解読していた。

この2件の電文に出てくる「H21」が特定の人物を指すことは文章からして明らかである。しかも暗号電文でやり取りされていることから、その人物はドイツ側のスパイである可能性が高い。

H21とは誰だ?ということになり、フランスは徹底した調査を行った。H21が出てきたのは無線はこの2件だけではなく、他にも何件もあった。

フランス情報部は、マドリードからパリへの入国リストを調べた結果、H21がマタ・ハリであることを突き止めた。

「マタ・ハリはイギリス情報部が疑った通り、本当にドイツのスパイだった。フランスの情報を流してドイツから金を受け取っていた。」

フランス情報部は断定した。

逮捕・裁判

更にフランス情報部は、「マタ・ハリは別の任務につくためにまたパリにやって来る」という情報もつかんでいた。そして2月、マタ・ハリは、本当にラドゥーに会うために再びフランスにやって来た。

警察はこの期を逃さず、マタ・ハリが泊まっていたホテルを突き止め、2月13日の朝、マタ・ハリを逮捕した。

「敵と接触し、敵に有利となる情報を流した」と、罪状を告げると、観念したのか、マタ・ハリは服を着替えて帽子をかぶると

「行きましょう・・。」

と、力なくつぶやいた。

フランスとドイツの二重スパイをしていることは、もちろん両国には秘密にしていたことだったが、最後はフランスにそのことを見抜かれ、フランス側によって逮捕されてしまった。

8つものスパイ容疑で罪に問われ、軍事法廷で裁判にかけられたが、そこで激しく非難された。特にピエール・プーシャルドン大尉からは

「金のために何百人もの男とセックスし、ベッドの上で男から国家機密を聞き出し、それを敵国に高く売りつけるような女など、人間として扱うに値しない。」

と厳しく批判された。

マタ・ハリが

「ドイツ側の情報もフランスに伝えたじゃないですか!」

と反論すると

「それはドイツ側のスパイだということをカムフラージュするための手段だったのだろう!」

と一喝された。

マタ・ハリの罪が具体的に述べられ、「連合軍兵士5万人の死に相当する。」とまで言われ、判決が言い渡された。

「当軍事法廷は全員一致で、マルガレーテ・ゲルトルード・ツェレ(マタ・ハリの本名)を有罪と認め、銃殺刑を宣告する。」

裁判はわずか40分で終了した。

<サンザール刑務所で撮影されたマタ・ハリの最後の写真。>

死刑執行

1917年10月15日早朝、パリ郊外ヴァンセンヌの古城でマタ・ハリの死刑は執行された。囚人護送車でここまで連れて来られたマタ・ハリは、車から降り立つと、目の前にある、木の前まで歩くように指示された。

その木をフランス軍の兵士が取り囲んでいる。紺色のマントをつけ、帽子をかぶったマタ・ハリが2人の修道女に付き添われ、ゆっくりと歩き出すと、太鼓とラッパの音が鳴り響いた。

木の前に到着すると、一人の軍人が近寄ってきてこう告げた。

「第三軍法会議の判決によりマルガレーテ・ゲルトルード・ツェレをスパイ容疑で死刑に処す。」

12人の銃殺隊が木の前に整列した。

手順としては、この後、杭に縛りつけ、目隠しをしてから銃殺ということになるのだが、兵士たちがマタ・ハリを縛ろうと近づくと

「触らないで!目隠しも縄も必要ないわ!」

とマタ・ハリは叫んだ。

天を仰ぎ、これまでのことを思い出して涙をこぼしていた時、指揮官がサーベルを抜き、銃殺隊に合図を送った。

次の瞬間、12人の銃殺隊は一斉にマタ・ハリに向かって弾丸を放った。

処刑は終了し、ここにマタ・ハリは生涯を終えた。遺体はヴァンセンヌの新しい墓地に仮埋葬された。

この後、本来なら親族が遺体を引き取って丁重に埋葬するところだが、反逆者との関わりを恐れて誰も遺体を引き取ろうとはしなかった。最終的に遺体はパリの教育病院の解剖教室に寄付された。

<ヴァンセンヌの古城での処刑の様子。>

後の世になって分かれる評価。はたして真の能力は。

マタ・ハリの行っていた犯罪は、戦時中における軍の機密を盗み取るという行為だった。その犯罪の性格上、具体的にどういった機密を盗み取り、それによってどれだけの被害が出たのか死者出たのかといった事は、後に書かれた本などには、ほとんど記載されていない。

裁判では具体的に罪が読み上げられたというが、8つの罪の裁判が40分という短時間で終わり、あっという間に死刑判決となった。

こうした、罪の不透明さが、後の世になってマタ・ハリに対する様々な憶測を生むこととなった。

マタ・ハリは、本当に戦局を左右するほどの情報を得ていた一流のスパイだったのか、実は大した能力はなかったのか、現在マタ・ハリについては、下のような大きく3つの意見に分かれている。

▼(1)実はスパイなどではなかった。完全なる無実。

マタ・ハリは、スパイ活動などは全く行っておらず、単なる踊り子であった。疑われるような要素があったためにスパイに仕立て上げられてフランス側の裁判によって処刑された。

この説が生まれたのはその当時のフランスの戦局に要因がある。大戦中、フランスは戦局がかなり不利な状況であった。国民達にも不満や怒りが募り、兵士が各地で反乱を起こしているというような状況であった。そこへマタ・ハリという女スパイの逮捕というニュースが飛び込んできた。

フランス側はこのニュースを利用し、「我が軍が現在不利な状況にいるのも、この女がドイツ側に情報を流したためだ」と言う展開に持っていったのだ。そうした話題を作ることによって、国民の怒りをマタ・ハリに向けさせ、政府の非難を和らげようとしたという意図がある

この作戦は大成功であった。実際当時のメディアは、しばらくの間マタ・ハリの話題一色になり、国民はそちらのほうに注目がいき、かなり政府の反感が和らいだという。

だが、無実であったにしては「獄中から無実を訴え続けた」とか「裁判では容疑を全面否認した」といった記述は見当たらず、無実であるという説は疑問が残る。

▼(2)スパイ活動は行っていたが、能力は三流。大した情報は得られなかった。

もともと素人だったマタ・ハリは、わずかな教育機関で優れたスパイなどになることなどできず、スパイ活動は行っていたが、それによって得た情報は大したことのない情報ばかりだった。

最初に雇っておきながら、後になって情報を盗まれたドイツ側も、マタ・ハリに盗まれた情報は取るに足らない情報ばかりだったと発言している。

ただ、このドイツ側の発言にも疑問がある。戦時中といえば、どの国も事実とは随分と違う情報を頻繁に発表していた時代である。

圧倒的不利な状況でも圧倒的有利だと発表し、どこかの戦線で勝利を収めれば、話を何倍にも大きくして報道するのが普通であった。そうやって国民の士気を煽(あお)っていた。

現代事件簿の「No.071 「日本は戦争に勝った」と信じ切ったブラジル「勝ち組」騒動 」のコピーになるが、第二次世界大戦が終結した時、ブラジルの日本人組織が、ブラジル在住の日本人に向けて発表した情報の中に以下のようなものがある。


「米国の8倍の破壊力を持つ日本の原子爆弾で、犬吠崎沖に集結した米英艦隊400隻が全滅」

「日本の高周波爆弾により、沖縄の敵15万人が15分で撃滅」

「日本軍の放った球状の火を出す兵器により、米国民3,650万人が死亡」

「ソ連、中国が無条件降伏。マッカーサーは、捕虜となり、英米太平洋艦隊は武装解除」


どれも現実離れした情報であるが、当時ブラジルに住んでいた日本人たちはこれを信じた。

これは極端な例にしても、こういった時代において、女スパイの色じかけによって軍の機密が盗まれ、それによってこれだけの被害を受けたと認めること自体が国の恥。

仮に多大な被害を被(こうむ)っておいても、「大した情報は盗まれていない、あんな女などに、我が軍がやられるわけがない」といった方向に話を持っていくのも自然の流れと言える。

果たしてマタ・ハリが盗んだ数々の情報は、本当に大したことのない情報ばかりだったのか、それともかなりの大物情報を得ていたのか、その辺りが全くの不明である。

マタ・ハリを紹介している多くの文献はこの三流スパイの結論に落ち着いており、現実的に考えて最も可能性が高い意見ではある。

▼(3)超一流。世界一の女スパイだった。

冒頭の新聞報道の記事によれば

「彼女はフランス国外で、敵軍の幹部や情報局と直接連絡をとっていた。」
「スパイ活動に対して、ドイツ側から多額の報酬を受け取っている。」

と報道されており、また、裁判でも

「連合軍兵士5万人の死に相当する。」

との言葉もあった。

例えば、部隊の移動ルートや、補給物資の輸送ルートなどの情報をマタ・ハリが盗み、それを敵国に知らせたがためにそこを攻撃され、多数の死者が出たのなら、マタ・ハリは各地の戦線を左右するほどの情報を得ていたことになる。

そしてマタ・ハリの情報によって5万人もの死者が出ていたのなら、かなりのレベルの情報を収集していたということになる。

マタ・ハリは情報を提供することによって莫大な報酬を得ていたという。どうでもいい情報に対し、国や軍が莫大な報酬を払うとも思えず、マタ・ハリがどれだけの金額を受け取っていたのか、その総額でも明らかになれば、盗んだ情報の重要性を計るある程度の尺度になるのだが、そういった点も明らかにされていない。

また、逮捕された時や処刑の寸前でも態度が妙に潔(いさぎよ)く、自分自身で、いつかこういう日が来ることを覚悟していたかのようでもある。

実際、この評価の中でマタ・ハリは死んでいった。

これ以降、マタ・ハリは女スパイの代名詞として使われるほど、この世界では有名になった。

マタ・ハリがスパイであったことはほぼ間違いなく、どれだけのレベルの情報を盗み、どれだけの金を得ていたのか、果たしてその能力は伝えられている話以上なのか以下なのか、具体的なことは分かってはいない。

軍関連写真

これ以下は本文とはあまり関係がないが、近代における軍関係の写真。

▼アメリカ海軍特殊部隊 SEALs(シールズ)





海軍の特殊部隊でありながら、海洋上はもちろん、海中での潜水艇、空からのパラシュート降下や、戦闘車両による作戦など、陸海空を問わず様々な任務に対応する、海軍の万能エリート集団。

SEALs(シールズ)の名前は、Sea(海)・Air(空)・Land(陸)の頭文字から取られたものである。

偵察・破壊工作・人質救出・誘拐・暗殺などのブラックオペレーションを含めて、最前線の任務をこなす。

そのSEALs(シールズ)の中から、更に優秀な者を選抜して構成された「DEVGRU(デブグルー)」という部隊がある。

Navy Special Warfare Development Group の略で、日本語では「海軍特殊戦開発グループ」と訳される。

このDEVGRU(デブグルー)は、主に対テロ専門のチームで、2011年5月に、アメリカ同時多発テロ事件の首謀者ウサマ・ビン・ラディンをパキスタンで殺害したのもこの部隊である。

この作戦の時には、パキスタン政府に事前に知らせることもなく、ヘリコプターと航空機に分乗した隊員がパキスタンに侵入し、ビン・ラディンの邸宅の上空からロープをつたって降下。

最初から殺害のみを目的とした作戦で、銃撃戦になったが、デブグルー側で被弾した隊員はいなかった。
任務は40分で完了した。


▼アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレー



アメリカの特殊部隊の中でも最も知名度が高い、陸軍のエリート集団で、写真は酸素マスクをつけ、高度降下訓練に挑むグリーンベレーの隊員たち。

兵士対兵士の実際の格闘はもとより、武器に関しても銃から戦車に至るまでの扱いが教育され、医療の知識や通信機器の扱い、一つ以上の外国語の習得、破壊工作の技術など、身体能力だけではなく、頭脳も徹底的に教育され、また、それらの訓練に耐えうる隊員で構成される文武両道の部隊。

「隊員一人が、歩兵200人の戦力に相当する」とまで言われるほど、能力の高さが評価されている。


▼イギリスの戦車「チャレンジャー2」。



全長11.56m、幅3.52m、高さは2.49m。戦闘用フル装備で62.5トン。


▼アメリカ軍の戦車M1A2SEPの砲手席。



世界で最も戦車室の電子化が進んでいると言われているのがアメリカ軍のM1。


▼ドイツ連邦国境警備隊第9部隊 GSG9



西ドイツの警察系特殊部隊。かつてドイツは、ナチスを始めとして、国民から恐れられる特殊部隊が存在しており、この部隊を編成する時にも、そういった国民的感情を考慮して、あえて軍の系統ではなく、警察の延長線上ということで編成された。

警察よりもはるかに重装備で、国境を守る任務である国境警備隊の配下にある部隊。


▼アメリカ海軍の戦艦「アイオワ」の砲撃。



海上の様子で衝撃が分かる。


▼アメリカ海軍のアイオワ級2番艦「ニュージャージー」の、主砲での砲撃。



直径40.6cmの砲身から発射される砲弾の重さは1トン以上にもなる。射程距離は約38km。
有名な、日本の戦艦大和は46cm砲を備えており、射程距離は4.2kmあった。

だが、現実には4km先の敵戦艦に命中させることは極めて困難であり、2~3kmの距離での戦闘が一般的だった。

「ド級戦艦(弩級戦艦)」という言葉があるが、これは1900年代の始め頃に登場した、イギリスのドレッドノート級の戦艦のことを指す。

この戦艦は当時としては戦艦の常識を覆(くつがえ)す30.5cm砲を5基も装備しており、これまでの搭載砲の規模を大幅にアップさせたことから生まれた言葉である。


▼フランス陸軍のカエサル(トラック搭載砲兵システム)



戦車はとてつもなく高くつくため、トラックを改造して、こういった兵器も製造されている。安価で機動性も良く、戦車よりも速い。

これはメルセデス・ベンツのウニモグ6輪駆動トラックをベースとして改造された戦闘車両で、射程距離は40kmにも及ぶ。

射程範囲は左右15度と、かなり狭く、それ以上左右に射程範囲を広げると、撃った反動でトラックがひっくり返ってしまうらしい。


Top Page  怪事件・怪人物の表紙へ  No.171  No.169

このページの先頭へ