迷い龍
認めたくないことでは、あった。
現実から目を背けようと思う。
が。
それがどうしようもない事実であり、逃れられないあると、理解せざるを得ないことであり――
そうと自覚してしまったからには、やることは1つ。
(できれば、最後の手段にしたかったけど…)
深い深い溜息を1つついて、彼女が取り出したのは携帯電話。
少しだけ逡巡しながら、やがて意を決して押したボタンは――アドレス帳を開くためのもの。
そして。
呼び出し音のワンコールが終わらないうちに、電話の向こうから聞こえてくる『もしもし?』という声は
聞きなれたものであった。
思わず安堵するも、電話の向こうの声はなかなか辛辣な響きを宿して、語りかけてきた。
『…で、今どこにいるんだい?澪』
「うーーーむ。それが分かったら苦労しないってなもんですよ」
『………………………………つまり、迷子になったんだね?』
「う。……いや、迷子っていうか、待ち合わせまで時間があったから、ちょっとあたりを探索してみよう
かな〜って思ったら、気が付けば…あらま、ここはどこだろう?ってなわけで」
『そういうのを迷子って言うんだよ』
「いやまあ…そうなんですが」
彼女――緋勇澪が必死に「迷子」という事実を誤魔化そうとしているというのに、電話の向こうの相
手はどこまでも冷静に、ツッコんでくる。淡々と。
ここまできたら、認めないわけにはいかなかった。
緋勇澪。
18歳にして、迷子になる。という事実を――
「……どうしよっか?」
『…………………どうしてほしいんだい?』
「できたら、あなた様と合流したいと思っていますが」
『それは僕も切に願うところだよ。で、君は今どこにいるんだい?」
「はっはっは。バカですねー、それが分かってたら迷子になんてならないでしょうに」
『………………………………聞き方を変えるよ。
今、澪の目につくもので、目印になりそうなものがあるかい?』
こころもち、さらに低くなった電話の声に言われたとおり、あたりを見回す。
目印になるようなもの……というと………
「うん。郵便ポストがあった」
『……………東京には一体どれだけの郵便ポストがあるのか知ってて言ってるのかい?』
電話の声が、さらに低くなったような気がする。
澪は慌てて、周囲を見回す。
真っ先に目に付いたのは、やたらと大きなビル。ビルの名前は――
「あ、今―――――」
ビルの名前を告げようとする彼女の声を遮るかのように響いたのは、無情な電子音。
………携帯電話の電池ぎれを告げる音。
携帯から耳を離し、画面を見る。
――光の消えた暗い画面には、何も映し出されてない。
「…………………………………」
しばし考え込む。
公衆電話で電話しようとも思ったが、いかんせん、近くに公衆電話の姿を見出すことはできなかった。
溜息をついて、郵便ポストにもたれかかり、時計を見る。
待ち合わせ時間から1時間近く経過。
溜息が、出た。
(久しぶりだったのにね、こうして2人で出かけるのって)
今までは学校は違えども、「高校生」という共通の立場に彼女と彼はいた。
だが、今年の春を契機に微妙に異なる立場となった2人の時間がすれ違うのは、仕方のないこと
だった。
……もっとも、そのすれ違いには、澪にとっては父親代わりのようなヒゲワカメの人物あ一枚からん
でたりするのだが、それは彼女はあずかり知らぬこと。
ともかく、なかなかうまく会えないからこそ、2人でいる時間を大切にしてきた。
今日も、そのつもりだった。のだが――
もう一度、溜息をつき、天を仰ぐ。
高いビルの隙間からのぞく、青い空。
「………紅葉」
「呼んだかい?」
「うぎゃああああああ!!?うぐっ」
よもやまさか、自分の独り言のような呼びかけに返事が返ってくるなんて思わず……
さらに、自分の顔を覗きこむような形で、その相手――壬生紅葉――の顔が現れるとは…
夢にも思っていなかった。
それゆえに、思わず悲鳴をあげた彼女の口を、壬生の手が塞ぐ。
ただでさえ外見的に目立ちすぎる2人なのだ。悲鳴なんかあげられたら、目立つどころの騒ぎでは
ない。
…既に、周囲の注目を浴びまくっているが。
口を塞がれて、ようやく澪は冷静になって開いての顔を、見た。
目の前にいるのは、黒髪で少し目つきが悪いが、端正な顔の男。
彼女の、恋人である壬生紅葉。その人。
「や、紅葉。こんなところで会うなんて奇遇だよね」
「……本当だね。待ち合わせ場所から随分と離れた場所のように思うよ」
答える声は、なんていうか怖かった。
壬生の顔は笑っている。笑ってはいるが…目がちっとも笑ってなかった。
その目が「なんだって君は、じっとしてないんだ!」と、――――怒っているのがわかった。
だから彼女は、素直に謝った。
「ごめん、紅葉」
すると、氷がいっきに溶けるかのように、壬生の目が柔らかなものとなる。
肩をかすかにすくめて、微笑む。
「まあ、君が無事に見つかってよかったよ」
「というか、よく見つけられたよね」
東京はこんなに広いのに。
こんなにたくさんの人がいるのに。
ついでに言えば、彼女の居場所のヒントといえば「郵便ポストがある」だけだったのに。
そんな中から、こんな短時間で、たった一人の彼女を見つけた、彼。
それは奇跡に近いのかもしれない。
だが、彼女の言葉に壬生は微笑んでいた。
なによりも優しげな笑みでもあり、自慢げな笑みでもあり、どこか苦笑じみた笑みでもあった。
「そりゃあ、澪のことだからね。なんでもわかるよ。……どこにいても、見つけてみせるよ」
「…それって、物理的な説明にはなってないよ……」
「そうかい?でもまあ、事実だからね」
真顔で言い切られてしまっては…何も反論できなかった。
彼女にできるのは、顔を赤くしつつ、「行こう!時間がもったいないから!」と、照れ隠しを多分
に含んで、壬生の手をひっぱることだけだった。
そんな彼女へ、壬生の言葉はまだ続く。
「そうだね、時間がもったいないね。………時間を無駄にした澪には、おしおきが必要かな」
「は?」
「うん、今日一日は、僕の言うこと聞いてもらおうかな」
「はい?」
おそるおそる振り返り、壬生の顔をみる。
その顔には……獲物に狙いをさだめたような肉食獣の、笑み。
「さて、まだ夜は長いんだし…色々付き合ってもらおうか」
「夜?!」
まだ日は高い時間なのだが。
しかし、壬生は気にする様子はなかった。
彼女の手を握ったまま、笑顔でずんずんっと歩みを止めない。
2人の時間は、まだはじまったばかり………?
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