1人の少年が、教室に入ってきた。
彼は誰かを呼んだが、その部屋には人は1人もおらず、当然返事もない。
彼は少し遠慮がちに教室の中に入り、ある席の手前で立ち止まった。
まだカバンなどの持ち物は、その机の上に置いてある。察するに、どうやら彼の探している相手は、まだ帰宅はしていないらしい。
その机の上にある、ノートや教科書に軽く視線を落とした。そして。
白い封筒が、それらの隙間から僅かにはみ出していたのを見つけた。
宛名が、最初の一文字だけ読みとれた。
しかし、その文字を認識したとき。
少年の表情が、少しずつ変わっていった ――――――――
桜の花びらが舞い散る。
満開の桜も、ところどころ新緑の葉をちらつかせて、彩りの趣を代えようとしている。
例年よりも少し早めに来た春は、やはり少々早めにその姿を眩まそうとしていた。
「もう、3年か‥‥‥」
言ってため息をついたのは比嘉焚実、明日香学園の学生で、今年3年になる少年だ。
「‥‥‥そうね‥‥‥」
比嘉の言葉に軽く相槌を打つのは、同級生の青葉さとみ。
2人はそれぞれの課外活動を終え、たまたま一緒になり、疲れ具合も双方そこそこ、少々重い足取りで帰路についているところだった。
3年になって違うクラスとなった2人は、先程まで、それぞれの近況を軽く交わしていたのだが、普段よりも遅い歩みに自宅までの距離も遠く、話す事柄が尽きかけていた。
「あいつも、元気でやってるかな‥‥‥」
比嘉がぼそりと呟いた。
―――― 緋勇龍麻。
それが「あいつ」のことだということは、さとみにも見当がつく こういうときは、2人に共通する思い出話でもするのが、実際妥当な選択ではある。が、如何せん、この名前から連なる記憶は、そう良いものばかりでもない。
2人が彼と知り合ってから間もなくして起こった事件は、あまりに強烈なものだった。
あれから、4,5ヶ月は経つとはいえ ――――
言ったあと、やばいなと思ったが遅く、比嘉はさとみの顔色を窺った。
「‥‥‥何?」
思ったより平然とした表情のさとみに、少なからず安堵した。
「いや、あれもけっこうなできごとだったからな」
「心配してくれたの?」
相も変わらず、言うことがサラッとしている。
そんな言葉が返ってくるのは、実は半分予想できていたのだが、それでも。
「‥‥‥まあ、一応な」
ため息混じりに言いながら、視線を戻した。
「緋勇くんなら、大丈夫よ」
「ま、あいつならうまくやってるだろうけどな」
軽く笑い飛ばしながら、そのさとみの言葉がやけに自信たっぷりなのが、ちょっとばかり気になっていた。
―――― 気になる。
あの、白い封筒。
その宛名にあった、『緋』という文字。
別に、自分がそれほど気にすることではないだろう、と客観的にその感情を見つめることもできたが。
それでも、気になるものは気になるのだ。
突き詰めていけば、きっと「嫉妬」という感情だろうか。
あまり、良いものではない。
けれど。
「なあ、さとみ」
言われて、さとみは振り向いた。
「緋勇と、‥‥‥連絡取り合ってるのか?」
比嘉の言葉に、さとみは目を丸くして首を横に振った。
「ん?‥‥‥ううん?何で、そう思うの??」
「い、‥‥‥いや、何となく」
誤魔化そうと思ったが、できそうもない。
「その‥‥‥お前、何かとまめだからさ、手紙のやりとりでもしてるのかと思って…さ…」
「‥‥‥ふーん…」
その白々しい声音に、比嘉もバツが悪そうな顔になる。
「手紙、‥‥‥ね。電話とかじゃなくて?」
『手紙』という言葉にアクセントを置く。
比嘉の頭の中に、急に一種の罪悪感の様なものが頭を覗かせる。
何も、机を探ったりしたわけでもなく、ただ自然に視界に飛び込んできたもののために、ここまで慌てることもないはずなのだが、比嘉の心は焦りでいっぱいだった。
「い、いや‥‥‥」
「何?」
「いや、別にお前が緋勇宛に書いた手紙を見た訳じゃ‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
―――――――― 墓穴。
「‥‥‥‥‥‥…え‥‥‥と‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥へぇ‥‥‥」
ちょっとばかり、さとみの目が据わっている。
明日香公園前。比嘉は硬直していた。
「別に、いいわよ」
自販機で購入したジュースを片手に、やはり平然とした顔でさとみは言った。もちろん、手にしているジュースは比嘉のおごり。
ベンチに腰を下ろし、カバンを置いて、缶のプルタブを引いた。
「見たの、封筒だけでしょ?」
「そ、そうだっ。だから、お前に怒られる筋合い、ないんだぞ」
それに、机の上に置きっぱなしにしたお前も悪い、と言いかけて、やめた。
言っても、詮無きことだと分かっていたからだ。
やっと冷静さを取り戻したが、少々遅かった。
一緒に買った缶のお茶を啜りながら、してやられたといった顔でふてくされる。
「中も見ても、別によかったけれどね。どうせ空っぽだもの」
ぶっ。
聞いて、思わず吹き出した。
「そ、それって‥‥‥」
「ま、それを知らないってことは、本当に中を見てないってことよね」
「‥‥‥‥‥‥」
さとみには、やはり勝てない。
カマをかけられたのだと、その時初めて気が付いた。
彼女の戦利品は、缶ジュース1本、120円也。
「大体、緋勇くんの連絡先なんて、私知らないもの」
それとも比嘉くんは知ってるの、と問われて、首を横に振った。
そうでしょう、と勝利の笑みをこぼしながら、空を見上げた。
「命の恩人でもあるしね。それなりにいろいろ考えて、手紙を送ろうと思ったのよ」
そして気が付いた。彼の素性を、本当は何も知らなかったということに。
「一応、書いたのは書いたのよ。けど、住所が分からないから送れなくて。手紙は破って捨てちゃった」
「じゃあ、何で、封筒は‥‥‥?」
「今日、模試代の徴収があったの。それで使って、そのままにしちゃって」
―――― 急いでいたから、名前も消さずにそのままね。
そう言って、クスクス笑った。
自分のそそっかしい性格へか、それとも ――――
「けっこう、気にしてたんだ?」
のぞき込むようにして、さとみが問う。
「‥‥‥ん‥‥‥んや。別に」
平気を装ってみる。
が、根が正直者の彼に、隠し通せるわけがない。
「ヤキモチ、焼いてたりして」
「してねぇよっ」
尚も、小悪魔のいじめ口調に、つい比嘉もムキになる。
「ふふふっ」
さとみは尚も笑む。
「そういう、比嘉くんの正直なところ、好きよ」
飲み干したジュースの缶を放り投げる。
カラー‥‥‥ンと、小気味良い音が響いた。
空き缶がゴミ箱に丁度収まったのを確認して、再びカバンを手にし、歩を進めた。
比嘉も、その後について歩く。
敵わないな、と内心ため息をつきながら。
柔らかい一陣の風が、桜の花びらを散らしてゆく。
皐月まではまだ遠い。
それでも空の蒼は一足早く、若葉の翠を映していた。
―――― 了 ――――
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