メーテル・リンク |
作 訳 刊 他 |
あるクリスマスの晩、貧しく暮すチルチルとミチルの前に、魔法使いのおばあさんが現れ、娘の病気を治ために、青い鳥を探しに行って欲しいと頼まれる。 2人は、本当のものが見えるようになるダイヤモンドをもらい、犬や猫、光や砂糖、パンの精などをお供に旅に出ることになる。 |
結末は御存知の通りですが、たとえしあわせがそばにあるものだとしても、それを探し出す努力は必要なものだと思います。 さらに、わたくし的のしあわせ論としては、他人と比べて、自分はしあわせだと思うのも、間違ったしあわせだと思います。 本当のしあわせとは、今ここにあって、満ち 足りているということなのではないでしょうか? |
これでよくわかったでしょう。人間というものは世の中で、たったひとりで、すべてのものと戦っているのだということが | 森の中で、チルチルとミチルが、木や動物たちの精から襲われた後に、光の精が言った言葉です。 木や動物たちは、人間のために、どれだけ多くの仲間が殺されたかを訴え、恨んでいます。 人間は確かに、多くの命を奪って生きています。 肉食動物も他の動物を殺しますが、自分が食べるだけしか殺しません。ところが、今の日本はどうでしょう? どれだけ多くの動物たちが殺され、人の口に入る事なく無駄に捨てていることか・・・ この捨てられた動物たちは、いったい何のために生き、何のために殺されたのでしょうか? |
人間は、しなければならないことがあるときには、何かを犠牲にするということを知らなければなりません | それぐらいの覚悟がないと、何も得られないということでしょうね。 |
世の中には、みんなが考えているより、ずっとたくさんの〈しあわせ〉があるのに、たいていの人は、それを見つけられないんです | (しあわせ)が見つけられない理由は・・・見つからないたくさんの(しあわせ)よりも、もっとたくさんの(ふしあわせ)があるからかもしれませんね。 それとも、そう思い込んでいるから、見つけられないのかもしれません。 |
人が一番幸福なのは、笑ってるときじゃないよ | 本当のしあわせとは、人それぞれでしょうが、笑っていれば「しあわせ」という、そんな単純なものではないのでしょうね。 |
個人的に心に残った場面は、「幸福の花園」で出会う、いろいろな幸福たちです。
|
これらの幸福は、パッと見た目、確かに〈幸福〉であるように見えます。でも、これが本当のしあわせでしょうか? 好きなだけ食べ、好きなだけ寝て、好きなだけ遊び、好きなだけ笑う。 確かに、楽しいでしょう。でもそれでは、快楽に溺れ、自堕落に生きているだけで、何も生み出しはしないし、物語の中と同じく、一皮向けば何もない、からっぽの「しあわせ」といえるでしょう。 本当のしあわせとは、こういう表面的なものではないのでしょうから。 |
そして次に会ったのは、〈あなたの家の幸福〉〈健康である幸福〉〈清らかな空気の幸福〉〈両親を愛する幸福〉〈青空の幸福〉〈森の幸福〉〈昼間の幸福〉〈春の幸福〉〈夕日の幸福〉〈星の光出す幸福〉などでした。 | これらの幸福は、普段は気にすることはありませんが、改めて考えると、確かに私たちの心を和ませてくれるものばかりだと気づきます。 もしこれらがなくなると、人はどんなに寂しくて、しがない世の中に住まなければいけなくなることでしょう。 普段は ほとんど気にしない、水や空気や太陽の光や木や草や・・・ でも、それらがなくなると、人間は生きていけません。 普段 気にせず、いつもそこにあって当然というものこそが、本当に大切なものなのでしょうね。 |