イリュージョン

リチャード・バック
村上龍
集英社文庫



 作品説明

 町をまわっては、人を乗せて遊覧飛行するジプシー飛行機乗り リチャードの前に、自ら救世主を辞めた ドナルド・シモダ(通称ドン)が現われた。2人は一緒に仕事をし、リチャードは好奇心から救世主になる勉強を始める。

 人間の限界、生き方について、「かもめのジョナサン」よりもわかりやすく、ユーモアたっぷりに教えてくれる本です。

心に残った言葉
自由が欲しい時は他人に頼んじゃいけないんだよ、君が自由だと思えばもう君は自由なんだ  自由もしあわせも同じような気がします。
 自分が自由だと思えば、自由。しあわせだと思えば、しあわせなんですね。
自由に生きるためには
退屈と戦う必要がある
退屈を殺して灰にしてしまうか
退屈に殺されて家具になるか
激しく根気のいる戦いである
 生きていくには、退屈な日常というものも存在するわけで、要はその度合いですよね。
 自分が自由であることを忘れて、退屈に負けてしまえば、家具になり、退屈さえも楽しめれば、本当に自由になれるんでしょう。
限界、常にそれが問題である
君達自信の限界について議論せよ
そうすれば君たちは、
限界そのものを手に入れることができる
 限界を低く設定すれば、それが自分の限界になる。限界を知ることを恐れて何もしなければ、限界以下の力すら出すことができない。
二つは比例する
君達の知力と、
君達が悲劇の存在を認める度合、

毛虫が終末を思う、その形態
救世主は、蝶と名付けた。
 生きること、生きていることが素晴らしいと思えば思うほど、死というものは恐ろしくなる。でも、死んでしまえば、本当にそれまでなのでしょうか? 肉体という限界を脱ぎ捨て、新たなる世界への始まりなのかもしれません。
 ですが、死後の世界に救いを求めたり、死後の世界で生きるために、この世で何かをするってのは、間違いですよね。
 この世界で、まっとうに生きてこそ、ですよね。
世界の遊戯に寄与する
君達の使命が
終了したかどうか判断する簡単な
基準がある。

もし、君たちが生きていれば
瀕死の重傷でかすかに息がある場合でも生きていれば、
まだ使命は終わっていない。
 諦めてしまえば、それまで。何かができると信じていれば、何かができるはず。何もできないと、何もしなければ、何もできるはずがない。希望を持ち続けていれば、決してその灯が消える事はないはず。
君達全ての物に告げる。
君達が遭遇する事件はすべて
君達が招き寄せたものである。

その事件の発展の方向を決めるのは
もちろん君達であって神ではない
 自分が進む道は、自分しか決められない。いい訳をしても、進む道、進んできた道が変わる事はない。
 いい訳は自分を騙すこと。自分の行為の結果は、自分で引き受けなければならない。他人に強制されたとしても、それも自分の選んだ道に変わりはない。
いつも君は白い紙を持っている。
それはほとんどの場合、計算のための用紙として使用される。
しかし、もし君が望むなら
そこに現実を書き込むことが可能だ。
意味のないこと。嘘。
何でも書き込むことができる。
そして、もちろん、
破り捨てるのも自由だ
 僕の『白い紙』は、かなり無駄に使われている気がします。
 もっとマシなこと書かなきゃもったいないですね。

考えさせられた場面

 ドンがまだ救世主だったころの寓話にこんなものがあります。

 川底で水草に必死にしがみついていた生き物は、もうこんな生活は嫌だと、手を放しました。すると生き物は川の流れに乗って、他の生き物から見ると、飛んでいる――奇蹟を起こしている様に見えました。他の生き物たちは、その生き物を「救世主」と呼びましたが、その生き物は「自分は救世主なんかじゃない、そのしがみついている手を放しさえすればいいんだ」と言いました。しかし、誰も手を放そうとするものはいませんでした。

 これも、人間の限界、生き方について教えてくれています。
 本当に自由になる、という事は、簡単な事。
 寓話に書いてあるように、必死にしがみついている手を放しさえすればいいのですから。
 今の世の中、どれだけの人が、どれだけの物に、必死でしがみついている事でしょう。

 救世主の下に集まってくる人々は、救世主に救いを求めるばかりで自分では何もしない。そんな人々の悩みを聞くのにうんざりした救世主が言ったセリフ。

 「もし、神が君達の目の前にお立ちになって、『これから先ずっと、この世界で幸福に生きることを命ずる』とおっしゃられたら、その時君達はどうしますか?」

 自分では何もせずに、他の人が自分をしあわせにしてくれるだろう、などと考えるのは、大間違い。たとえそれが救世主であったとしても。

 もしこれとは逆に、神さまがみんなの前に現れ、『お前たちは失敗作だから、この世から消えてなくなれ』などと言ったら、人間たちはどうするつもりなのでしょうか?

 リチャードの小学校の時の思い出を、ドンに話す場面。
 小学校の時、先生に空の雲がなにに見えるかと問われ、みんな、象です、キリンです、ビスケットです、雨靴です・・・など、色々な答えが出てきたが、ただ1人、「雲ですやっぱり」と答えた子がいた。その子は、成績がいつもトップで、運動が苦手。そして中学3年の時に、校舎改築中のブルドーザーに飛びこんで死んでしまった。リチャードはドンに、そいつは自殺したのか聞いたが、ドンは答えず、「そのかわいそうな少年は、きっと雲があらゆるものに見えてしまって、一つだけ例えば象、なんて言えなかったんだよ、この世の全てのものに見えちゃうかわいそうな性格だったのさ」と言った。
 死んだ男の子が、何を考えていたのかは分かりません。
 本当は、雲は雲にしか見えず、勉強ばかりして、ノイローゼになって自殺してしまったのかもしれません。でも、本当のところは、誰にもわからない。
 そこが人間の悲しいところでもあり、自由なところでもあると言えます。
 本当ならば、人の心に裏表もなく、全てが分かり合えればいいのでしょうが、なかなかそうはいかないもの。
 ですが、せめて人の心の『痛み』が分かるくらいの感覚は身につけたいものですね。
 君は、株式仲買人と同じ世界に生きているのか? (中略) リチャード、君はチェスの選手権出場者と同じ世界に生きているのか?  世界は1つといいますが、ドンは、四十億の人々には、四十億種類の別々の世界に生きていると言います。
 確かに、1人1人考える事も違うし、同じものを見ても、全く同じようにとらえているとは限りませんからね。
 ラジオに出演したドンが、司会者に「ジプシー飛行機乗りというのは、不正な点はないのか」と聞かれ、「好きでやってるんだから、誰にも邪魔できないさ」と答えた。するとラジオを聞いていた人が「誰もが好きなことをやったら、どうなると思うか?」と非難し、ドンは当然のように、
 「この星が銀河で一番幸福な惑星になるだろう」と答える。
 質問をした人は、ドンを利己的な危険人物だと非難します。ドンのような人が、戦争を起こし、世界を住みにくい場所にしていると考えています。
 ですが、本当に、人が好きなことを、したいことをしていたら、この世はお終いになってしまうのでしょうか? 暴力と快楽が支配するような世の中になってしまうのでしょうか?
 もし、みんながしたいこと、好きなことをして、世界中の誰もがしあわせになれるとしたら、そんなに素晴らしい事はないと思います。
 そして、それを実現できるかどうかは、自分たち1人1人の考え、生き方にかかっていると、この本は教えてくれます。そんなことは、理想でしかないと諦めてしまえば、それは本当に理想で終わってしまうということを。
 同じ場面の会話の中で、「戦争で息子が死んだのは、あなた(ドン)のような人のせいだ」と言われたのに対し、ドンは「戦争で死んだ奴はそうしたかったのさ。戦争に行かない方法はあるからね」と答える。

 本当に戦争に行きたくなければ、戦争に行って誰かを殺したり、傷つけたりするのが本当に嫌なら、自分の腕や足を切り落としてでも、行かなければいい。

 もし右手があなたをつまづかせるなら、切って捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです

 という聖書の言葉と同じ。それが出来なかったという事は、人の体、命よりも、自分の体の方が大切だということで、それこそが「利己的」と言うのではないでしょうか?
 本当はなんだかんだ言いながらも、みんな好きな事をやってるんですよね。たとえ嫌なことだとしても、その人が選んでやってるのなら、程度の差こそあれ、その人が望んでやってること。本当に嫌なら、止めればいい。それを、なんだかんだいい訳して、仕方ないような顔してやってるってのは、結局「望んで」=「好きで」やってるのと同じ事です。

 政治家は信用できない『でも』運動を起こすのは面倒臭い。医療ミスは怖い『でも』自分では治せない。仕事はイヤ『でも』お金のために働いている。世の中ひどい事ばかり『でも』何をしていいのかわからないから何もしない。

 『でも』『しょうがない』などと思ってしまったら、その時点で、責任は全て自分が負う事になるんですよね。

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