ケッチャム作品と実話 |
ケッチャム作品の中には、実際の事件と関わりが深いものがいくつかあります。。ここではジャック・ケッチャムの作品と関連が深いと思われる事件を取り上げてみました。但し、海外サイトからの引用を元にしたgo_madの中学生並みの直訳文ですので、間違っている箇所があるかもしれません。正確な内容を知りたい方は、本文あとのURLにてご確認ください。 |
(2003/1)あまりに直訳すぎて恥ずかしいと前々から思っていたのですが、遂に重い腰を上げ、日本語らしく改変を加えてみました。それにより、本来の意味からより一層かけはなれてしまうかもしれません。正しい?内容は文末のURLにてご確認くださいませ。 |
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「スコットランドの人食い一族」と「オフ・シーズン」 |
Sawney Beane ソニー・ビーン |
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1999/11/18のケッチャムBBSのログにおいて、ケッチャム自身により、
"OFF SEASON is based on the depredations of Sawney Beane & Co. off the coast of Scotland hundreds of years ago" との書込みが確認出来たとの情報から、この事件が「オフシーズン」の元ネタであることは間違いない。「オフ・シーズン」の食人一族は、現代のソニー・ビーン一族なのだ。 ソニー・ビーンは、スコットランド人で、エジンバラから東へ150キロほどの田舎に生まれた。父親は生け垣つくりや、どぶさらいをやって働いていた。ソニーもその職につくことに疑念はなかったが、普通の職が性に合わないことに気付く。彼は怠惰で、ずる賢く、乱暴で反社会的な性格であった。自分ひとりで生活するのに十分な年になると、彼はすぐに家を出て、自分のやり方で生きていくことを決めた。彼は自分と同じくらい無責任で性悪な若い女を連れていき、「ホーム」を作るために、ギャロウェイの海岸へ行った。 「ホーム」は、潮がひくと、黄砂の細長い前庭が現れる海に面した崖の洞窟だった。そこは屈折し、曲がりくねった多くの横道のある、野生の奥地といった感じの岩の中の、一マイルを超える巨大な洞窟だった。入口から少し奥は、完全な闇。二日に一度の高潮の日には、洞窟の入口から数百ヤードに及び水に埋もれ、侵入者を拒んだ。この暗く湿った穴に、彼らは「ホーム」を作ることに決めた。全く人目に付かず隠れ家として申し分なかった。 実際、洞窟は、家というよりはむしろねぐらといった感じだった。そしてこのねぐらから、ソニー・ビーンは四半世紀にわたる恐怖の時代を送り出したのだった。ソニーの計画は、強盗をして生活をすることだった。近くの村をつなぐ、人気のない狭い道で旅人を待ち伏せする。難しいことではなかった。決して足のつくことのないように、ソニーは必ず犠牲者を殺した。 ビーンは村や店、市場で食糧を買うための金銭が欲しかった。宝石、時計、衣類の他、金になりそうなものも盗んだが、足がつきそうな品々を売るコツを知らなかった。これらの品々は換金できない財産として、洞窟の中に積まれ、埋もれていた。そのうち在庫はどんどん増えていった。強盗と殺人から得た現金では、十分に生活できなかった。スコットランドの田舎の人々は、多額の現金を持ち運ぶ習慣がなかったのだ。どうやって十分な食糧を調達するかが問題だった。かといって、殺した犠牲者達から奪った品々を売ることは、絞首台送りの危険性をはらんでいた。・・・そこで彼は簡単なことに思い当たった。何故、殺した人々の身体を無駄にする?何故それらを食べないのだ? ビーンと妻は早速取り掛かった。待ち伏せのあと、海岸の道から洞窟へ犠牲者の身体をひきずっていった。スコットランドの岩盤の奥深く、牛脂ロウソクの青白い光のもと、彼らは犠牲者のはらわたを取り除き、分割した。四肢と食用魚は乾燥し、塩漬けにした。そして人肉保存庫の洞窟の壁に備え付けたフックにかけられた。実に20年の間、それは続いた。骨は洞窟の他の部分に積まれた。 当然、この誘拐事件は地域に極度の警報をもたらした。連続して起こる殺人は大変な脅威であり、人々の失踪は、村人たちに田舎道をひとりで歩くことを避けさせた。犠牲者および、殺人者を捜索すべく、努力したが、ソニーは決して発見されなかった。洞窟はスムーズに捜索するには深すぎた。誰ひとりとして、ギャロウェイの目に見えない略奪者が、二日に一度水で氾濫する洞窟に住むことが出来るとは思わなかった。また、誰ひとりとして行方不明の人々が実際食べられているとはしばらくは想像もしなかった。 彼らの生活はそのパターンに落ち着いた。彼の妻は洞窟の中で、子供を産みはじめた。家族は決して洞窟の中に閉じこもってはいなかった。食糧問題が十分に解決されたので、他のものを買うのに、盗んだ品々を使うことができるかもしれない。時々、買い物で近くの町に行った時、慎重に、用心しながら、それを試すことができた。疑われることはなかった。盗んだ品物自体は、殺された人達と同じで、目立たないものだったため、決して不信に思われたりすることはなかった。 ビーン一家の子供たちは、洞窟の前の荒廃した波打ち際で、昼の光に疑問を抱くことなく遊び、父と母が侵入者を見張る間、身体を鍛えた。恐らく食糧とするために。 殺害、及び、食人は習慣になった。それは生き残るためであり、正常なことであり、仕事であった。このような異常な状況下で、彼らは14人の子供を産んだ。そして次々と成長した子供たちは、近親相姦により、8人の孫と14人の孫娘を生んだ。そのようにしてビーンは一族を存続し、増やしていった。一族のもの同士で食べることはなかった。 驚くべきは、非常に多くの子供たち、さらには若者達が、洞窟のあたりをウロウロしていたにも関わらず、誰もこの奇妙な現象に気付かず、調べようとしなかったことだ。時々機会はあったのだが・・・近づき過ぎて、殺され、食べられてしまった。ビーン一家の子供たちは、他の人間が食べ物として連れてこられるのを疑問に思わなかった。 若いもの達は、十分な教育を受けていなかった。原始的な話し方と、殺人、そして人食い料理についての技術を除いては。それらは飽くことのない欲求と飢えとともに、餌食を求める自給自足の集団として発展した。子供たちは大きくなると、誘拐と殺人に参加することになっており、ビーン一家は恐るべき規模に拡大していった。殺人と誘拐は科学(芸術ではないにしても)的経験と、数年来の技術により、洗練されていった。 食いぶちの増加にも関わらず、人肉が不足することはなかった。増え過ぎて、塩漬けしているにも関わらず、腐っていく部分は捨てなければならなかった。このようにして、時々洞窟から遠くはなれた海沿いの国で、奇妙に保存されているが、腐った人間の残骸が海岸に打ち寄せられた。これらの不気味な遺物は切断された四肢、および乾いた塊の肉から成ったので、出所を特定することはできなかった。また、いつ死んだかを推測することも不可能だった。しかし、当局により、行方不明者のリストとそれらに関係があることはすぐに明白になった。当局は事件の情報を収集することを開始した。殺人と四肢切断はひとつのものである・・・しかし、塩漬けにされた人間の肉ははるかに不吉ななにかをほのめかしていた。 行方不明者の足取りを辿り、殺人者を追いつめる努力は、最後に犠牲者たちに会っただけの、無実の人々の不運な逮捕、及び死刑に帰着した。ビーン一家は疑われも見つかりもせず、洞窟の中で安全に暮らしていた。 数年が経過、家族は年をとり、大きくなり、そしてさらに飢えていた。誘拐殺人計画はさらに野望を持って組織された。それは需要と供給の問題--穴居人として生きていくためのロジスティクス--だった。時には6人より多くの男女をも倍以上の一家で待ち伏せし、殺した。その肉は、女性たちの待つ洞窟の食料品庫に引きずられていった。 彼らの攻撃から誰ひとりとして逃げ帰ったものがいなかったのは一見奇妙に思える。しかし、ソニー統率化の待ち伏せは、軍隊そのものだった。道の両脇にガード部隊が控え、攻撃の中心部隊が蛮勇をもって獲物を切り崩す。この三又の方法は有効だと立証された。生き残りはいなかった。また、大掛かりな捜索が、これらの大虐殺の犯人をみつけるため行われましたが、誰も、深い洞窟を探索しようと思わず、見過ごされた。 しかし、そのような状況はいつまでも続かなかった。やはり失敗はあった--たったひとつの失敗が、ビーン一家を社会の激怒と復讐に引き渡した。失敗は、単純なものだった。驚くべきは、これが今まで起こらなかったことだ。それが事件の終わりではなかったものの、25年間で初めて、判断ミスとタイミングの悪さによって、ビーン一家は自分たちを超える数の集団を相手にしたのだった。それはビーン一家の種族の存続と絶滅にとって大変重要な出来事だった。 それはこうして起こった。ある夜、ビーン一家は近くのフェアから馬で帰ろうとしていた夫婦を攻撃した。まず女を捕らえ、男を馬から引きずり下ろそうともがいてる間、女を裸にし、はらわたを引きずり出し、洞窟へひきずっていく準備を整えた。夫はあっというまの残虐行為に我を失い、完全に無慈悲な悪魔が自分より数が多いことに望みを失って、逃げようと必死で戦った。ビーン一家の幾人かが倒れた。 しかし、最終的には彼も同じように連れて行かれ、殺されていただろう。が、そうはならなかった。同じくフェアから帰る20人を超える集団が、予期せず到着したのだ。ソニー・ビーンは自分たちを不利とみて、勇気は最も顕著な美徳でないことを悟った。短時間の猛烈な小戦のあとに、彼らは戦いを放棄し、切断した女性の死体を残し、ネズミのようにあわてて洞窟に戻った。それはビーン一家の戦術と方針において、最初で最後の重大な失敗だった。 ソニーらの待ち伏せから逃れた記録上ただひとりの男は、彼の痛ましい体験について記述するため、グラスゴーの最高行政官に連れて行かれた。長官が長年待った証拠は飛び抜けて衝撃だった。行方不明者のリストは最終ページに達するかに見えた。彼らは明らかにギャロウェイ地区の近辺にすんでおり、発見は彼らが人食い人種であることを示唆していた。証拠が必要なら、女性がはらわたを抜かれた現場が証明する。 問題がきわめて重要だったため、最高行政官は王に直接報告し、王は直にその重大さを認識した。彼が武装した400人の小さな軍隊と、多数の追跡犬とともにギャロウェイへ向かったとき、ソニー・ビーンは危機にさらされた。 王、そして将校及び随行員一同と、地域の人々により、歴史上最も大きな捜索のうちのひとつが開始された。彼らはギャロウェイ地方及び海岸全体を調査したが、なにも見つからなかった。しかし、海岸のパトロールが犬を連れて浸水した洞窟を過ぎようとした時、犬は死と腐食の弱い匂いを嗅ぎ付け、うなりながら吠え声をあげ、ばしゃばしゃと暗い洞窟へ入っていった。 まさしくここであるように見えた。追跡者は賭けにはでなかった。それは長い間殺人を糧としていた恐るべき輩とのやり取りになるとわかっていた。ゆらゆらする光を燃やすトーチと即席の剣で、彼らは洞窟の狭いよじれる通路に沿って、用心深く一定の方式順序を保ちつつ進んだ。やがて彼らは食人族ソニー・ビーンの行動拠点、「ホーム」である奥深い洞窟の終点の死の家へたどり着いたのである。 恐ろしい光景が目に焼き付いた。洞窟の湿った壁には、人間の四肢及び身体、男性、女性の断片が肉屋の冷蔵庫のように、列をつくって掛けられていた。別のところには時計、指輪、宝石などのを含む、衣類や貴重品が積んであるのを見つけ、隣接した空洞には、多くの骨が約25年にわたって集められていた。 ビーン一家の全員、48人は全てここにいた。彼らはチャンスを伺っていた。400の屈強な軍隊がその後ろにいることを知っていた。彼らは戦った、しかしビーン一家に文字どおり逃げ道はなかった。洞窟の出口は武装した人々に閉鎖された。彼らは罠にかかり、逮捕された。王と一行は、エジンバラに向い行進した--練習ではなく。ソニーのような食人族は、教養ある裁判官と陪審員にとって価値あるものではなかった。元の親である二人を覗いて、27人の男と21人の女の囚人の全ては、穴の居住者として育てられており、子供の頃から人間の肉で育ち、強盗と殺人が正常な生活様式であった。このスコットランドの不愉快な近親相姦の人食い一族への慈悲はなく、いかなる正義に値する裁判もなかった。 ビーン一家は男女ともに独断的な様式により、死刑を宣告された。なぜなら彼らの罪が、世代を超えて正常な法と証拠と司法によって排除されるべき悪名高く、不愉快だったからだ。彼らは社会のはみだしものであり、最も年の若い無邪気な子供さえ権利はなかった。 翌日、年齢の手続きと全会一致で全員の死刑が執行された。丁度彼らが犠牲者を切り刻んだように、男は切り刻まれた。生きたまま、腕と足を切断された。また女は彼らが出血で死んでいくのを見て、それから魔女のように大火で焼かれた。 しかし、ビーン一家は誰ひとりとして後悔の色を示さなかったという。 (http://pburton.maps.susx.ac.uk/ben/sawney_bean.htm) |
「インディアナ 少女虐待事件」と「隣の家の少女」 |
Gertrude Baniszewski ガートルード・バニシェフスキー:The Torture Mother(虐待の母) |
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この事件に関しては、ケッチャム自身により「隣の家の少女」を創作するきっかけになった、とはっきりと言及されている。ガートルード・バニシェフスキーの顔に、深く刻み込まれた暴力の影を目にした瞬間に着想されたとのこと。
本人の口からはっきりとそう言われずとも、この事件の内容と「隣の家の少女」の内容は酷似しているので、まだ「隣の家の少女」を読んでない方は、ネタバレの危険があることをお忘れなく。 1965年10月26日、16歳の少女SYILVIA LIKENSが死んでいるのが発見された。既に呼吸が停止しているという少女についての通報をうけ、警察が家に到着した時、シルヴィアは地下室のマットレスの上に横たわっていた。彼女は尿でずぶ濡れになったベットに半裸で横たわっており、その身体は、無数の傷痕、火傷で覆われていた。そして彼女の腹の上には「i am a prostitute and proud of it(私は売春婦、そしてそれを誇りに思う)」と刻み込まれていた。 この家の所有者はガートルード・バニシェフスキー。ガートルードはこうなったいきさつについて、こう説明した。シルヴィアは、妹のジェニーとともに夏の間この家に泊っていたが、家を勝手に抜け出し、数人の少年たちに襲われ、家についた直後に死んだ、彼女は自らこの結果を招いたのだ、と。しかし、妹のジェニーの話は違っていた。 それはバニシェフスキー家の金銭問題に始まった。ガートルードは家を守りながら7人の子供を同時に扶養していた。インディアナポリス・モーター・スピードウェイでソーダを売ることと、前夫からの養育費で生計をたてており、食事は缶詰のスープで、ストーブがなかった為に、それをホットプレートで暖めていた。 ガートルードはフロリダサーカスの旅行に出ていたLIKENS夫妻の子供のベビーシッターを、週給20ドルで引き受け、姉妹は1965年7月にバニシェフスキー家にやってきた。夫妻のベビーシッター料の支払いが最初に遅れた時、彼女はシルヴィアとジェニーに暴力を加えることに決めた。彼女らを殴りながら、バニシェフスキーは「タダであんたの淫売をなおしてやる!」と叫んだ。支払いが翌日に行われても、ガートルードは暴行をやめなかった。次の三ヶ月の彼女の残虐行為は並外れていた。手で打つことから、オールやベルト、木の板に変わった。 彼女はシルヴィアに集中して暴力を振るうことに決めた。彼女を虐待するために人員を補充した。最初の助手は、彼女の子供のうちの二人で、当時15歳のポーラと12歳のジョニー。それから何人かの近所の子供が加わった。彼らのひとりは、彼女をサンドバッグとして使い、何度も何度もコンクリートの壁に叩き付け、階段下まで叩き落とした。時にはガートルードの手伝いもした。ガートルードの意向で、彼女の肉に、150回以上にわたり煙草の火を押し付けた。しかし、最悪の事体はまだ起こっていなかった。 シルヴィアがある夜、マットレスの上で失禁した時、地下室は彼女の監獄となった。彼女は食事を奪われ、自分の尿と便を食することを強いられた。そして裸にされ、はやしたてられ、無理矢理膣にコーラの壜を差し込まれた。さらに、彼女は熱く焼けた針で、シルヴィアの腹部に単語を刻み込むことに取り掛かった。 シルヴィアは隣人の注意をひこうとし、コンクリートの床に打ち倒されて死亡した。ガートルードは裁判で終身刑の宣告を受けたが、1985年に仮釈放された。 (http://www.angelfire.com/oh/yodaspage/gertrude.html) |