このページは<百冊斬り道場>に参加しています。
読了日横のNO.は、百冊斬りの読了冊数です。 わたしのテーマは「ホラー小説100冊」。期限は2001.3.31となっています。 |
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グリーンマイルは、私が「キングファン」から「キングフリーク」へと変るきっかけとなった作品です。当然現時点では最も好きな作品でもあります。
この作品にはキリスト教的解釈があります。キリストと同じJ.Cのイニシアルを持つ男ジョン・コーフィーは、癒しの奇跡を起こしながらも、無実の罪で死刑を受け、そしてその死刑にはからずも荷担することになるパウロと同じ名のポール・エッジコムは、その後尋常でない程生き続け、回想録を書くことになります(この解釈についてはshiroさんのaddicted to stephen kingに詳しい解説がありますのでそちらを参照下さい)。映画公開で様々な評論を見ましたが、どうやらこの作品が、このキリスト教の物語をベースにしていることは、まず間違いなさそうです。 私はキリスト教の知識がありませんので、別の方面からこの作品をみることになりますが、それでもこの作品の素晴らしさは変りません。等身大の人間の姿、現実という大きな大きな壁。世の中には恐ろしい事が山ほど転がっているということ。誰もが自分だけはそんな目に会う事はないと思い生きている、しかし必ずそんな事に出会うのだということ。現実社会をモチーフにした恐怖は、時に救いのない気持ちにさせられますが、キング作品のキャラクター達は、強くもなく弱くもなく、ただ一生懸命に自らの人生を歩もうと努力する姿が、まるで読者自身であるかのようにリアリティを持って描かれる為、読後も不思議と絶望的な気持ちにはなりません。私はいつも、キングは終始一貫してこの恐怖について描いていると感じます。そしてグリーンマイルはその意味で最も素晴らしい作品だと思うのです。 なにが正しくて、なにが間違っているのか、そしてなにをもって善とし、なにをもって悪とするのか。コーフィは聖なる能力を持ちながら、死を願い、ポール達は彼をそのまま死なせてやる事と生かす道を探すべく努力する事の間で揺れ動く。現実は様々なパラドックスを抱えている、という事実が胸にのしかかります。 最後のポールの台詞「あぁ、神よ。時にグリーンマイルは長すぎる」は、その全てを受け入れていかなければならない人間の心のうちを吐露するような〆にふさわしい台詞。映画もこの名台詞で〆られていましたが、ここで私は100回泣けます(笑)。 |
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女の魅力ってなんでしょう。私自身も女ですが。
クレオパトラを思い出しました。その魅力で世界を動かすほどの大きな力を得た女性ですね。女にとっての魅力ってなんでしょう。私自身は女の魅力というものに対する執着とは無縁、といったタイプだと日頃思ってますが、果たしてそうなんでしょうか。もしかしたら「男っぽい私」は、その執着心の裏返し的表現なのかもしれません。 自分の償いの為、「トミー」にキャリーを誘わせる「スー」、自分の歪んだ感情を満足させる為、「ビリー」に恐怖のクライマックスに向けて準備させる「クリス」、彼女らは一様に男を意のままにすることで自身の魅力を確認しようとしているように感じます。スーがあのシャワー室での出来事に対する謝罪として「トミーがキャリーを誘う」という、キャリーに自分は魅力的だと思わせるおぜん立て的行為を持ってきたあたりにも、女性の魅力信奉が見え隠れしませんか。 キャリー自身も鏡の前に立って、自らの身体的魅力を確認しようとします。しかし、他の女の子が男性の存在によって、自分の魅力を確認している時、キャリーにはその存在がなかった。級友や近所の子供にまで蔑まれ、拠り所のなかった彼女に力が宿ったとき、彼女はその力を自由に操れるよう努力します。 しかし、スーに促されたトミーの誘いで、彼女は女の魅力の拠り所を見つけるのです。キャリーが作品中最も幸せそうに、そして美しくみえるシーンですね。間違いなく、キャリーの人生で一番に幸せだった瞬間でしょう。「女として魅力的である私」。 それが虚構だったとわかった時、みんながキャリーをみて笑った時、彼女の拠り所は崩壊します。そして力こそが彼女の全てになった時、破滅は訪れる・・・。 キャリーを読んでそんな風に考えました。もっといい解釈があると思ってますが、まあこんなのもあってもいいんじゃないかと思って。 この作品は、キングの処女作ですが、手記や、インタビュー、証言などのコメントを挟み、リアリティを演出する、という、ゴシック小説でよく見られる手法をとっていますが、ちょっと唐突な感じがして個人的にはあまりリアリティを感じません。全体的には、その後のキングの表現方法の母体となるような描写があちこちに見られますが、やはり後の長編に比べて完成度の点ではいまひとつな感じがします。しかし、この作品をベストに挙げる人も多く、作品自体の持つパワーの点ではさすがキング、という印象を受けました。 |
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キング初期の作品の傑作ともいうべき作品。
これ以前にも以後にも、キング作品の殆どに一環して描かれているのが、やるせない思いや、ジレンマ、嫉妬、不安、恐れを抱く等身大の人物像が悩み苦しみながら結末へ向かう姿です。時に足を踏み外し、自暴自棄になりながら、彼の描く人間は、決して人間らしさを失わない。だから私は、結末がどんなに凄惨であろうとも受け入れることができます。人生は単純なハッピーエンドばかりじゃない、その事実にとてつもないリアリティを感じるんです。 ジャック・トランスは徹底的に打ちのめされた人間として描かれます。学校から追い出され、妻からの信用を失い、原稿を突き返され、行き場をなくした男。新しい場所での執筆と新しい責任。これでなにもかも上手く行く、という淡い期待。限界直前まで張り詰めた彼の精神は居場所を求め、悪しきホテルにたどり着くのです。 自己嫌悪に陥るジャックは、誰かに必要とされることでその不安に打ち勝とうとします。そんな彼の心の隙を利用して、ホテルは息子のダニーを狙う。徐々に崩壊していくジャックの精神。ホテルに操られて、愛する家族にさえ不信を抱き、やっとみつけた精神の拠り所を必死で守ろうともがきます。 息子ダニーもそんな父をなんとか救いだそうと、幼いながら必死で恐怖に立ち向かいます。父が家族を殺そうとせまってくる、幼い心にどれだけの恐怖と悲しみを与えたでしょうか。しかも彼はそれが誰のせいでもないことを知っているのです。 ラストのジャックとダニーの戦いで、そんな親子のぶつかりあいが頂点に達します。そして二人はホテルに打ち勝つのです。他ならぬ、お互いへの愛情を持って。 私は4.5回読みましたが、毎回泣いてます(笑)。殆どの作品に言えることですが、キング作品はホラーベースの人間ドラマ。その範疇では純文学と比較しても遜色無い完成度だと思っています。ラスト、ジャックが正気にかえるシーンは、ちょっとくさい気もしますが、それまでの内容のクライマックスとしてはふさわしいと思っています。 余談ですが、シックス・センスを観たときに、このダニーを思い出しました。シックス・センスの少年も”輝き”を持っていた為に自らの意志とは関係なく、大きなものを背負わされて孤独な戦いに放り出されます。ふたりが友達だったらねえ(笑)。 |