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現在の日本文化は、今から二千二、三百年前の弥生文化に祖型をもち、多くの影響を受けていることは一般に周知されておりながら、この文化が果たして何処から渡来し又どうして普及したものかが全く不明で学会に大きな課題を投げていた。
これを解く鍵は只、弥生式時代の人骨を他と比較研究してみる以外には途はないのに、それら人骨の発見例が又極めて少ないため、研究も遅々として進まぬものがあった。
ところが昭和六年の頃、この地山口の神玉地区(当時神玉村)土井ヶ浜に、人骨が度々出土したので、東大駒井教授(当時副手)、京大三宅講師(当時助手)等によって研究された結果、鎌倉時代よりもっと古い古墳時代人のものと報告された。これが完全な弥生式遺跡であることが決定されて、世人の注目するところとなったのは、色々の事情により、永らく放任されていたのを、当時九州大学教授金関丈夫博士が人類学と考古学の立場から、その遺跡の発掘調査を思い立ち、昭和二十八年十月から始まった本格調査によるものである。 |
以来毎年発掘されて、三十二年八月迄に五回に及んだが、その間日本考古学協会その他の協力と、地元県、町の教育委員会及び地区民の応援によって、多大の効果を納め、特に学術的な貴重な資材とすべき人骨の完全なもの二百体以上を得たことは、学会の望みを充たせたと共に弥生式文化究明の上に非常な成功であった。これがため土井ヶ浜砂丘一帯は将来共考古学上の無限の宝庫と目されて世人の期待も又甚だ大きいものがある。
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