附野薬師 東山寺
海士ヶ瀬を眼下に見る丘に建つ。海士ヶ瀬で難破された弘法大師が航海安全を祈願して建立したと伝えられ、本尊の薬師如来も大師の作だという。
航海の安全の他、眼病治癒、安産などの霊仏として広く信仰を集める。
平成4年に附野海岸に漂着した木彫りの十一面観音像も納められている。
また、この庭はかつて、明治維新の先覚者、長州の生んだ吉田松陰先生が、時の藩政一環の海防の強化対策樹立に方り、「回浦記路」にも明瞭に記されている通りこの地に来り、当俵石をご覧になり「時尽きぬ宝の種や俵石」とお読みになっておられることでもその名が知られている。
当山に安置している本尊薬師如来は弘法大師一刀三礼の御作仏にして(今を距る千百九十余年)延暦二十三年御入唐の際、弘法大師三十三才の時、船中において御彫刻あらせられた尊像で(御丈一尺四寸二分の座像)、大同元年御帰朝の節供奉され、その後御化益のため北国へ御巡錫の折柄当地の沖、海土ヶ瀬御通航の時、暴風にわかに起こり、逆浪して御船も既に危うきところに、不思議に薬師如来の示現を蒙り給い程なく当地の浜辺に着船しましたり(よって郷名を附野と申す。)御自作の尊像を供奉し給いて、当地に上がらせ給う。当郷久太郎宅(今の俵屋事・来見田氏邸なり)に訪い寄り給い、しばらく錫を止め庭前の石上に尊像を御鎮座ありて、主久太郎を霊前に招き給い、大師おおせられけるは、この所尊像有縁の地なるとて霊地を求め給うに、この山正しく尊慮にかなう霊場なれば、この所に止め置くべしとて忝けなくも久太郎へ御附属ありて大師は直ちに月山(通称西の高野山なる豊田町の華山これなり)の霊場(真言宗、豊浦山(月山)神上寺をいう)へ越えさせ給う。その後此所へ一字を建立(回春山東福寺)として久太郎尊敬浅からず多年御守護をなし、累代に及ぶ(現来見田当主は三十二代目の抹 なり)
それより数百年の星霜を経て、同性の中祖久太郎一子久市へ、霊夢に告げていわく(承応二年四月 日の夜)汝等へ眼病治癒の灸を授くべし、とて十一穴を指しましまし永世諸人へ施すべし、とありありと御示現を蒙り、累代相い伝えて、諸人の病苦を救わしむること、万人の知る所である。
大悲、もとより十二の誓願ましまし、諸病悉除慈恩一切の衆生誰かその利益を蒙らざらん仰ぐべし信ずべし、諸人血縁の為滋に御薬師の由来を記すと。
天命四年辰八月、回春山東福寺快音謹白として来見田家に伝わる古文書の要訳である。尚、当山をして昭和十七年寺号を東山寺と改め、現在に至っている。
毎年五月八日が縁日であるが、七年に一回の御作仏の開扉が行われ、厄払いの流葬、流れ潅頂の儀式(施儀鬼の搭姿回向)が行われるのもこの時である。昭和三十五年がそのあたり年である。又、御守護をなす当、来見田氏庭園を観寿園と称し、この庭に有名な俵石(玄武岩層の露頭なり)あり、この石の名から俵屋なる屋号がうまれたものである。