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中山忠光は明治天皇の母方のおじに当り、文久3年天忠組の主将として勤王の兵を大和五条に挙げたが戦利あらず、長州に逃れ転々として居を移し、天治元年7月上畑の常光庵に入ったが、時あたかも下関海峡に四カ国連合艦隊の砲撃があり、熱血漢の忠光は再びここを飛び出した。その後黒井村庄屋宅、川棚三恵寺、室津観音院などを転々として潜居、同年8月下旬田耕白滝山麓の大田宅に約20日間滞在したといわれる。この時期に至り長州藩では卿を匿うことは幕府を敵視することになるとして、幕府どおり成行に任すことを決した。10月中旬頃卿を四恩寺に移そうとしたが果たさず、同部落の大林家に潜伏せしめたが、当時萩藩は俗論党が藩政を掌り、一方長州藩の隠謀も進行して田耕に刺客が潜入してきたため、再び大田宅に移した。11月5日卿は身辺に危機せまっていることを知らされ、四恩寺に避難しようとして、途中長瀬の渓谷で殺害された。時に忠行卿は20才であった。
昭和38年10月、豊北町では、忠光卿の100年際を記念して同地に中山神社を建立した。
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文久三年の秋、当時十九才の待従中山忠光卿を盟主とした天註組は討幕の義兵を大和に挙げたが戦い利あらず、参謀吉村寅太郎以下烈士は悲壮な最期を遂げたが、その際諸烈士の要請により後図を画すべくひそかに大阪から船で長州へ下り、当時たまたま長州に尊ちて居た三条実美以下七人の公卿等と会合して再起の期を待った。
しかし、幕府の探索厳しく三田尻から長州、川棚、湯玉、上畑と住居を移し、この地田耕に来たのは元治元年八月、下弦の月が静かに眠る夜半、狗留孫山麓上畑、常光庵を出て附人国司直記登美女側女外一名を伴い山道をたどって夜明方にこの地、大田新右エ門宅にとどまる。
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忠光卿は中納言中山忠能の七子で、姉君は明治天皇の御生母にあたり、十六才にして待従職皇室と極めて密接な関係にある。一面、堂々たる美丈夫で剣槍の奥技に達した稀に見る英資で、烈々たる斗志と何者をも焼き尽くす情熱は、諸藩尊壌党士の憧憬の的でもあった。
幕府が七憬よりも殊更一大敵視した事情もそのへんにあった。当地滞在七十五日忠光卿は田耕の地の山河が非常にお気に入りの様子で、その日常はまさに闊達そのもの終日猟銃を手にして白滝山系を踏破された。忠光卿が猟に出られると困るのは御附の人で、峻険を馳せ登られたその健脚には適すべきもなく、この在所の若者が常にお共をしたとある。
さて、当時の情勢は禁門の変直後、第一次長州征伐の前後であり、長州の三家老始め、周布政之助等屠腹し高杉晋作又筑前にのがれ、尊嚢攘夷の根幹多く軌に倒れ、俗論党の天下屠なったときであり、白滝山下の忠光卿の身辺にもその触手が伸びたのも当然である。
五人の庄屋の一人山田幸八は何時しか刺客に買収され、或夜遅く忠光卿を欺いて無腰のままここ長瀬の渓谷に誘い出しそこに待機せる刺客(長州藩の剣士)野々村三九朗外六名のため撲殺された。時に元治元年十一月忠光卿行年二十歳の若さであった。
尚、忠光卿の遺体はその後下関市綾羅木の浜に手厚く葬り、今の中山神社がそれである。また、山田幸八の子孫は狂人続出家名断絶しており、付近の人々是をして天の報いなりと言う。
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