毛利秀包の墓
戦国時代に小西行長、高山右近、蒲生氏郷等とともにキリシタン大名であった毛利秀包は、元就の第9子、幼名を才菊丸といい、後に藤四郎元総と改めた。秀吉に仕え久留米 13万石の城主となったが、関ヶ原の役に敗れて帰国の途持病にかかり、下関に没した。
時に慶長6年3月、享年35才であった。その子元鎮は滝部付近に6千石そ領していたので領地に葬った。後に西楽寺が墓守を司り、二百回忌(寛政12年)に吉敷毛他外記房直が神道碑を建立した。
附近には慶長16年に殉死した吉敷家老白井兵庫の墓がある。