海 と 接 す る
瀬
戸内に生まれ育ち、何気ない日常の繰り返しの中で、
海は何時も身近な存在だったのに…
僕はとりわけ意識する事も無く、その恩恵を享受し続けてきた。
これまで、そう…
何も見えなかった、見ようともしなかった。
そこに感謝する気持ちなどあろう筈も無かった。
磯 釣りを通じ、海そのものに触れ合う機会を得て初めて教わったコト。
海にしろ山にしろ、形無き雲や風さえも‥
例え都会の光害にその姿を覆い隠された夜空の星々であろうとも、
自然は厳然とそこに存在しているのだということを‥。
人々の意識の有無に拘わらず、泰然としてそこに在る、その在り方。
強大且つ絶対的な力に裏付けられた、余裕とも言える存在の成立。
僕にとってそれは新鮮な驚きでした。
今
世紀、はたして僕達は真に自然を理解しようと試みた事があっただろうか?
僕自身、常日頃より海の恵みを当然の如く受け取っておきながら、
真摯な姿勢で自然に接していく事は決してなかった。
その努力を怠った理由の一つに、海に対する高慢な姿勢があったように思う。
即ち、自然科学に基づく知識を有しているという僕自身の慢心である。
表面的理解にとどまり、もう一歩踏み込めなかった理由に
互いのスケールの違いを持ち出せばそれまでかもしれない。
しかし今、僕は敢えて考えてみたい。
僕等は自然と如何接していけばよいのかを‥
先人達はどのようにそれを理解し、しようと努力してきたのか?
現
代文明という鎧に守られ自然との距離を置く生活、いや、壁を作ってきた人間社会。
それは同時に物事の本質を見抜く能力を失った事を意味する。
そんな今に生きる僕等にとって、自然に対し正面から向き合える機会はあるのでしょうか?
如何なる時に自然を意識し理解する為のチャンスは与えられるのでしょうか?
自然がもたらす恩恵に心から感謝する姿勢が
今の僕等に欠如・欠落している事が明らかな現在、
悲しいかな、それは彼等が荒れ狂い強暴な牙を剥く場合に限られるのかもしれません。
嵐・台風・地震・津波 …
あらゆる自然災害によって
非日常的な現実を自らの眼前に突き付けられたとき、ようやく人は恐れを抱き、
絶対的な存在である自然を嫌というほど意識せざるを得なくなるのです。
そして僕等は気付くのです。彼等に手加減などという感情は一切無い事を。
何故なら海や自然は人間社会を特別扱いしないから。
人を意識し人に遠慮する事など決して無いからです。
そう、自然は我々を意識しない、だからこそ我々がもっともっと彼等を意識すべきなのです。
最
も純粋な理解の形、それは自然崇拝なのかもしれません。
賢き先人達がそうしてきたように、現代人もまた常に自然を意識し、
常に彼等に対し畏怖の念を持ち続けなければならないのかもしれません。
きっと人間こそが彼等に接していく術を学んでいくべきなのです。
全ての問いは自然が与え、全ての答えは自然に帰結する。
自然を敬い、感謝して、畏れ、学び、さらに問う。
人類の英知とは本来そうあるべきで、これを履き違えてはならないと思うのです。
自らを万物の霊長と位置付け、科学万能の呪いを唱えてきた20世紀の人々が、
これまで蓄積してきた知識を生かしつつ、そこに先人達の知恵をとり入れていく。
そんな、自然への新たなアプローチを模索すべき
21世紀は、すぐそこに来ています。
自然をコントロールしようとするのではなく
ある意味上手く歩み寄る努力をすべき側である事に、我々人間が真に気付く時…
物心両面において、海はこれからも変わらぬ豊さを僕等に与えつづけてくれることでしょう。
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