海 に 癒 さ れ て
喜 びと悲しみ…それは僕達の日常に渾然一体として存在している。
もし敢えて両者を拾い出し、選り分けたなら、
楽しく嬉しき事よりも、辛く悲しき事の方が多いのではなかろうか?
人それぞれその度合いに差はあれど、人生思い通りにいかない事の方が多いと思う。
僕等が煩悩を捨てきれぬ生き物である以上、心に渦巻く不平不満は常に絶えません。
そのことが、僕等の心に悲しみを芽生えさせ、自らの現状を不幸と位置付けてしまう。
だけど…いや、だからこそ僕等は生きていけるのかもしれない‥‥ふと、そう思う。
悲 しみ溢れる日々の中で、きらりと光る僅かばかりの喜びの欠片(かけら)。
それは、繰り返し押し寄せる荒波に溺れそうな僕が、時に見つける希望という名の木片。
波間に揺れるその小さな浮遊物に夢中でしがみつき、やっとの思いで呼吸を整え、
僕はこれまでも必死に自らの命を紡いできた。
そう…苦しくとも辛くとも、皆ひたすらに泳ぎ続ける。
人は誰しも苦悩し、悲しみにまみれながら、やるせない今を無我夢中で生きているのだ。
で
は、これが逆ならばどうだろう?
あろうことか全てに満たされた思い通りの毎日‥‥ありふれた喜びの洪水に包まれて、
果たして僕は今日まで生きてこれたであろうか?
見せかけの幸せというぬるま湯にどっぷり浸かった日々を、稀有な不幸が突然に襲ったなら?
悲しみという鋭利な刃物は音も無く近づき、鋭く光った次の瞬間!僕の心臓を一気に貫くだろう。
耐えるという事を知らない自分にとって、そのダメージは想像も出来ぬほど強烈な筈。
きっと…耐えられない。
僕の精神はズタズタに引き裂かれ、そして心は死んでしまうに違いない。
喜 びよりも悲しみの方が多い‥‥その絶妙なバランス。
満たされた幸せばかりの日々だとしたら、例え大きな喜びもすぐに色褪せその輝きを失う筈。
無いものねだりの人間にとっては、これで丁度良いのかもしれません。
溢れんばかりの悲しみに埋もれもがき苦しむほどに、ほんの僅かな幸せは希望の輝きを放つ。
だからこそ僕らは…少なくとも僕は、生きる事への執着をもってこれまで歩んでこれたのだ。
誰 もが願う、喜び溢れる日々や幸せに満たされた人生って‥‥
所詮は夢なのかもしれません。
何故なら、人間にとっての幸せとは常に一握りの砂に過ぎないからです。
いくら掴んだところで、その量には限界があると思うのです。
掴みきれずに零れ落ちた‘幸せ’という砂は、すぐに色褪せて喜びを感じなくなります。
そして僕等の足元には決して逃れられない悲しみの砂山が広がってゆくのです。
人として生まれた宿命か、有り余る幸せなんて有り得ないと思うのです。
辛いよね現実…切ないよね人生。でも生きていくって、きっとそういうもの。
人は日々寄せ来る悲しみの中に僅かな喜びを求め、見出し、糧として生きていくもの。
だとすれば、そんな人生の切なさや儚さを素直に認めて自然体で受け入れる為の術を
僕らはいったい何に学べば良いのか?
それを授けてくれるのは‥‥山や川、意外と身近な自然の営みではないでしょうか?
そう、僕にとっては海!広大なる海はその圧倒的スケールでそれを僕に示してくれるのです。
海
は決して人間の思い通りになんてなりはしない。
いくら人がコントロールしようとしても無駄な事、彼はただ…自然であり続ける。
この世を生きていくってことは、決して自らの思い通りになるものではないということ。
喜びも悲しみも全てあるがまま、自然に受け入れること…海は無言でそう教えてくれます。
でも、それを真に理解し心から実践する事って、きっと僕には出来ないでしょう。
なぜならそれはとっても難しい事だから。
だけど、海や自然に接することで僕は今確かに生きるチカラを授かっています。
少なくとも海のお蔭で、儚きこの世を認めつつ生きていかねばならぬ事に対して、
僕はやっと素直になれる…そんな気がするのです。
自 然は僕に何ら望まない…何事も決して求めてはこない。
いや、それ以前に、こちらを意識する事さえないのです。
大自然の前では余りにもちっぽけな自分です。
でもだからこそ、僕も肩の力を抜き、身も心も自然へと委ねる事が出来るのかもしれません。
悲しみ多き人生に希望の欠片を見出しながら、大自然に身を委ね、僕はこれからも生きていこう。
悲しみ溢れる人生を、自然に癒され生きていく‥‥
悲しみ溢れる人生を、自然に癒され生きていく‥‥
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