『革命戦士』 
  革命戦士 2018年3月号
 
=分析の視点=
 新幹線初の重大インシデント
 事故は何を表しているか
 
               沖村 平

 昨年一二月一一日、博多発東京行きの山陽新幹線「のぞみ34号」で台車に亀裂が発生し、油もれも起こしたまま三時間走行し、名古屋駅で異常が見つかって運行停止した。このトラブルは、新幹線でははじめての「重大インシデント」(重大事故を起こしかねない事態)として、新幹線の安全性に大きな疑念を引き起こしており、国内にとどまらず国外でも大きな驚きと関心をもって受けとめられている。一日も早い根本的な事故原因の究明と安全な運行を保障する態勢構築が求められているが、問題はそれにとどまらない。世界に先がけて新幹線を運行し五〇年以上におよぶ実績のもとで築いてきた「安心安全」が売り文句の日本の新幹線の製造、運行技術に大きな疑問が生まれている。もうけ第一の新自由主義、そして日本資本主義そのものの腐朽、衰退を象徴することとして、安倍政府とJRが力をいれている新幹線の輸出にも大きな影響がでてくるだろう。

  異常の指摘があるのに運行継続
 今回の事故では、博多駅出発の約二〇分後に乗務員が油のこげたような臭いに気づき、岡山駅手前では乗客から「もやがかかっている」との指摘もされ、岡山駅から乗りこんだJR西の車両保守担当者三人も床下からのうなるような異常音を確認し、東京の司令所に大阪での点検の必要性を通報した。だが、折り返しの連絡がなかったため、走行に支障はないのだろうとの現場判断で、そのまま新大阪駅でJR東海に引きつがれたが、東海の車掌も異臭に気づき、停車した名古屋駅での詳細な目視検査によって初めて車両の台車枠の亀裂や油もれが確認された。
 発見された亀裂は台車枠の両側面と底部に発生し、長さが合計四四センチに達するものであり、鋼材の底面は幅一・三センチで裂け、側面の亀裂は両側面とも一四センチにおよび上部三センチを残すだけで破断寸前の深刻な状況であった。亀裂で台車枠がゆがみ、モーター回転を車輪に伝える「継ぎ手」がずれ、油もれや変色につながったとみられる。

  多発するトラブルと対応の遅れ
 今回の事故以外にも、新幹線だけでも多くのトラブルが発生しており、在来線も含めるとトラブル・事故はかなりの数になる。とくに国鉄分割・民営化以降、事故への対応の遅れがめだっている。
 具体例をあげると、二〇一五年八月小倉・博多間トンネル走行中の「さくら561号」車両から、側ふさぎ板が落下してまい上がり、車体にあたったのち、トンネル上部の架線をショートさせ停電し列車が停車、乗客一人が負傷する事故が発生している。翌日には東北新幹線で、レール下の金属板がはね上がり窓ガラスにひびがはいった事故がおきた。いずれも直近の現場点検では異常なしとされていた。山陽新幹線「さくら」の場合は、カバー取付けボルトのゆるみ防止座金を社内規定に反して再利用し、本来、本締めまでの行程を一人で一貫してやるべき作業を経験の浅い労働者の複数の流れ作業でやっていた。同じ時期、福島県内走行中の「はやぶさ・こまち19号」でも軌道パッドの金属板がはがれて風圧で舞い上がり車体に衝突し窓ガラスにひびがはいっている。
 また、列車車両の不備に起因する事故ではないが、列車の安全運行を保障するトンネル、高架橋でのコンクリート劣化による崩落事故も大きな問題である。
 事故事例をあげると、一九九九年六月、博多行き新幹線「ひかり」が福岡トンネルを二二〇㎞で走行中、上下線が停電しトンネル出口付近で停車した事故では、トンネル天井部のコンクリート片重さ二〇〇キロ(長さ二メートル×五〇センチ×五〇センチ)が崩落しパンタグラフを破損、架線を切断し、列車の屋根部分が長さ一六メートルにわたって裂けてめくれ上がった。このもとでの総点検・安全宣言の二カ月あと、同じ山陽新幹線の北九州トンネルで、側壁部から約二二六キロのコンクリートの分解片が発見され、一時全線で運休する事態となった。その後も各地のトンネルや高架橋でコンクリートの崩落事故はあいつぐ。二〇〇五年には山陽新幹線六甲トンネルと、新岩国・徳山間の高架橋でコンクリート片落下、〇六年には岡山市内の山陽新幹線の高架橋からコンクリート間の緩衝材が脱落して、一三メートル下の路上に落下していたなど、事故の例は数え切れないほどである。
 コンクリートにかかわる事故原因としては、高度成長の建造ラッシュ期に塩分を多くふくむ劣悪なコンリートが多用されたことや、検査作業をふくむ現場作業の下請け化、迅速化・機械化などによって、コンクリートの品質低下、ずさんな作業工程による構造物としての深刻な強度低下が指摘されている。

  なぜ事故は繰り返し発生するのか
 JR当局は事故がおきても、「事故は起こさないのが当然」だと原因究明もおろそかにし「事故を起こしたら処分」を繰り返し、現場に責任を転嫁することが常態化している。そのことが現場での「事故隠し」「虚偽報告」の要因ともなっていることが指摘されてきた。とくにJR西日本にその傾向がつよく、一九九一年に多くの死傷者をだした信楽高原鉄道事故では、みずからの運行を優先した「乗り入れ協定違反」を認めず、JR西日本に責任があるとした高裁判決を受けてはじめて犠牲者遺族に謝罪するという自社利益本位の高慢な態度であった。みずからの誤りを認めない利益重視・運行第一の姿勢は、現場で問題を起こした労働者を「再教育」と称して弾圧し、時には自殺にまで追いこんだりした。
 二〇〇五年四月には福知山線での快速電車の脱線・マンション激突事故が発生し、乗客五八〇人中、五一四人の死傷者という信楽事故を上まわる大惨事が発生した。ここでも運行優先・利益優先、現場労働者に責任を押しつけようとした当局の姿勢は批判されて当然でり、許されるものではない。

  列車事故と人員削減「合理化」
 初めての「重大イシデント」といわれる今回の事故では、それ以前の二〇一七年二月に車両解体検査が実施され、前日の目視検査でも異常は発見されていないにもかかわらず、現実には深刻な事態をもたらした。事故後に鉄道輸送の研究者・専門家や現場関係者などから指摘されているのは、新幹線は一九六四年の開業以来、脱線や故障による「乗客の死亡事故ゼロ」と運休や遅れなどの輸送障害が在来線に比べて圧倒的に少ないということからくる「安全神話」・「新幹線は大丈夫だろう」という思い込み・慢心を指摘している。だが、それが根拠のないもの、事実に反するものであることは明らかである。
 「安全神話」の思い込みということだけでなく、実際の検査を保証する技術力不足、人員体制・人手不足が大きな問題としてある。
 歴史的な経過を見ると、JR西日本発足直後の五万人体制から現在までに二万人削減され三万人へと激減している。今回の事故でも、JR西日本は、「交番検査」と呼ばれる定期検査で、台車など車体の状態を検査する「車両検査係」を二〇一七年四月から二〇人削減し、今回事故を起こした「N700」に限っては、検査の間隔を「三〇日、または走行距離三万キロ以内」であったものを「四五日、または走行距離六万キロ以内」へと変更・実施している。安全重視どころか手抜きである。
 保線の省力化、点検周期の引きのばし、そして業務の多くが関連会社や下請けに委託され、豊富な経験を必要とする検査技術などの継承基盤が崩壊し、トラブル噴出の原因となっていると、先行きの不安が指摘されている。このままの状態がつづけば何千人もの死傷者をだすような大惨事につながりかねないことが危惧されている。多くの人人が安心して利用できる鉄道輸送の公的機関としてのJRの社会的責任が問われている。

  国鉄分割・民営化と「大合理化」
 今回の事故であらためて問われなければならないのは、輸送の大動脈を切りきざみ独占資本に奉仕した国鉄の分割・民営化である。
 今回の事故が象徴していることは、効率経営、人員輸送増大のためのスピードアップ化が、輸送手段としての車両と、それを運行保守する現場労働者に過大な負担がかかっていることである。とくに今回の事故の直接の当事者であるJR西日本の運行区間が高架やトンネルが多くスピードがだせるため、JR東海より余裕時分を短くしており、現場からは「五分でも遅れていたらとりもどせない。遅れを東海に引きつぐには心理的負担がある」との声もあがっている。福知山線の事故の時の乗務員と同じような状況におかれている。
 新幹線の保有車両台数が、JR東海が一三三編成にくらべて、JR西日本は四〇編成と少ないことも、異常があったときの代替え車両のやりくりに影響が出やすく、現場対応をむずかしくしている。単一路線を分割運営・維持していることの矛盾である。
 今回の事故で、部材の経年劣化の恐れも指摘されており、今回が初めてのインシデント事故であったことを考えるとこの先同じような事故がくり返されることが懸念される。生産性をあげるための効率重視、「合理化」重視で、これまで事故がなかったから安心だ、検査期間をのばしてもいい、人手も減らしてもいというのでは、多くの人人の輸送を担う公的交通機関の機能を損なうものであり、あってはならないことである。

  公共交通機関としての重要性
 もともとJR各社は単一の国有鉄道であり、全国を縦横無尽に結ぶ人民の日常生活にかかせない足であり、生活物資等の輸送機関として、物流の大道脈の役割を担い、日本経済を牽引し、ささえる役割を持っていた。それはまた、それを担う国鉄労働者の誇りでもあり、全国の鉄道労働者の心を一つに結んだ。トラブルが発生したら、都道府県、地域をこえてさまざまな問題に臨機応変に対応し、そのことによって人人の生活の足と物資輸送は保証された。部署の違いを乗りこえて連携し力をあわせてさまざまなトラブルに対処し問題の解決にあたることが普通のことであった。新聞のような公共性のある荷物などの場合、自然災害や事故による遅延が発生した場合など、在来線荷物貨車から新幹線荷物へ中継するなど、人民生活優先、公共性重視の運行が当然のこととして実行されていた。郵便事業も鉄道郵便貨車によって大きな遅れもださず全国をあまねく結びつけることができた。
 公共交通機関としての国鉄は、生産が社会化したもとで必然的に生まれたものであり、社会発展を象徴するものであった。こうした鉄道事業の公益性・優位性を分断・破壊し、人民生活を破壊し、都市と地方を分断したのが国鉄分割・民営化であり、儲け第一の新自由主義である。政府や独占資本、マスコミ、御用学者は、反社会主義の攻撃とあわせながら、「ヤミ・タルミ」「国営は非効率、競争が必要」などとキャンペーンをやり、あたかも国鉄が時代遅れのお荷物であるかのようなデマ宣伝をやった。
 国鉄は多くの余剰人員と膨大な赤字を抱え、これ以上国の財政補填はできない、大幅な人員削減と分割・民営化しか解決の方法はないなどといい、その実行過程で多くの国鉄労働者の生活と生命が破壊され、赤字ローカル線と地域人民の生活・経済が切り捨てられた。
 ところが、国鉄用地の売却可能用地の土地資産だけでも旧国鉄時代の債務は十分に清算できると言われている。清算事業団の管理する国有地を含む膨大な国有資産が、土地評価額の低価格据え置き、会計法に定められた一般競争入札制度を無視した随意契約・超低価格売却という違法行為、欺瞞・隠蔽によって独占ブルジョアジーに献上されている。
 鉄道輸送の公共性とブルジョアジーによる私的利潤の追求の矛盾が、鉄道事故の頻発として現れ、社会的輸送手段の逼迫としてあらわれている。国鉄に代わるトラック輸送の増大、乗用車の爆発的普及は、独占資本に新たな市場を提供し、個別、個人の輸送・移動手段としては利便を提供したが、同時に高速道路・一般道路の拡充・維持費用も膨大なものとなり、人口密集地における交通渋滞、事故の多発、排気ガスによる公害とその対策費用は膨大なものとなっている。
 トラック運転手の不足やIT技術を使った自動運転でのトラックの連結運転だの車のライドシェアなどと喧伝されているが、トラック輸送の問題は大量輸送機関としての鉄道を使えば人的にも物的にも解決できるものであり、排ガス対策、小エネになる。現にそのような対策的運用がすでに開始されている。日常生活に不可決なバスなどの交通機関にも同じことがいえ、公共性の強化は個別、分断状況に置かれがちな高齢者社会の問題を解決することにもなるだろう。
 新自由主義が世界各国で猛威をふるうようになって四〇年近くになるが、公共部門をつぎつぎに民営化で解体し、水道さえも民営化しようとするやり方に世界各国で反対の運動が広がっている。国鉄の分割・民営化をはじめとする新自由主義は歴史の後退である。資本主義が腐朽・衰退し、終末期を迎えている。資本主義的私的所有制は、社会の発展にとって阻害物となっているそのひずみがあらゆるところに現れている。