『人民の星』 5884号4面 2014年4月30日付

奇兵隊の隊則「諭示」150周年 農民の利益第一、維新の力に

 この数年らい、明治維新への関心は高まるばかりであり、一身を投げ打って日本をかえた父祖たちへの誇りと敬愛が語られている。明治維新が人民による日本の一大変革であったことにひきつけられ、「いまこそ現代の高杉晋作と奇兵隊が必要だ」という声がわきたっている。今年は奇兵隊が農民の利益をまもる隊則「諭示」をつくって全県に発信して一五〇周年にあたる。この「諭示」は、米欧四カ国艦隊の下関攻撃にふるえあがった長州藩内の「俗論党」が、高杉晋作をはじめとする「正義派」を弾圧し、藩政府をにぎって幕府に恭順を誓い、奇兵隊にたいし解散命令をだすが、これを拒絶するとともに、奇兵隊は農民の利益に奉仕することを高らかにうたったものであった。

激動する幕末日本の社会
 幕末の日本は、諸矛盾がひじょうに激化していた。
 一つには、徳川幕藩体制による封建的支配との矛盾が、農民、商人、下級武士および王朝公卿などとのあいだでおさえがたく激化し、全国的範囲で農民の一揆がきわめて大規模にまきおこっていた。
 いま一つは、欧米露によるアジア侵略の波が日本におしよせ、幕府が列強の開国要求に屈伏して売国的な条約をむすぼうとしていた。この矛盾を、高杉晋作と奇兵隊に代表される農町民の父祖たちがたちあがって、革命的に解決したのが明治維新であった。
 この一大変革の事業において、高杉晋作による奇兵隊の結成(一八六三年)と功山寺決起(一八六四年)は決定的な位置をしめている。

日本の社会を変えた奇兵隊
 高杉晋作が組織した奇兵隊を中心とする人民諸隊は、明治維新という革命斗争の根幹となった。
 文久三年(一八六三年)六月、馬関攘夷戦で武士の軍隊がぶざまに敗北した直後、藩命をうけた高杉晋作は武士による正規軍では外国の侵略とたたかえないと考え、下関で奇兵隊の結成にとりかかる。奇兵隊には下層の武士はもちろん、農民、町人も身分を問わず、国難に一身を投じようとするものはすべて入隊がみとめられた。
 高杉晋作は奇兵隊について「専ら力量をば貴び」といっている。それは、馬関攘夷戦でのフランス艦隊との戦争において、藩の正規の武士団がまったく無力であったことから、外国侵略者や幕藩体制と断固としてたたかう真の力を重視し、独立と倒幕に献身することを第一にして身分は問わない、としたのである。
 奇兵隊の創設が伝わるや、長州藩内各地で諸隊がつぎつぎとつくられ、その数は約一六〇にのぼった。当時は全国的に百姓一揆が高まっていたが、長州藩では逆に一揆は影をひそめ、奇兵隊はじめ諸隊への参加はきわめて積極的であった。その隊士の構成を見ると、半数以上が農・町民あるいは漁民である。
 奇兵隊は勤労人民の民族独立と討幕の要求を結集し、人民の武装をみとめた部隊であり、他の藩にはくらべるものがない軍事組織だった。封建制度の軍隊は武士の支配をまもるものであり、人民の武装はゆるされなかった。それが長州藩では突きやぶられたのである。圧制と腐敗を強める封建支配に反対し、欧米の圧迫・植民地化に抗して、下層武士を指導階級とし、封建社会の生産活動をささえていた農民、商人や非人とさげすまれた人人が武器をもってたちあがり、歯まで武装した徳川幕藩体制をたおし統一国家・日本をうちたてるたたかいをすすめたのである。

解散命令蹴り「諭示」つくる
 封建制のなかでうまれた奇兵隊・諸隊がさまざまに封建的な要素をもっているのは当然であるが、本質において天皇の軍隊でも藩主の軍隊でもなく、人民の軍隊であった。それが翌年の逆流に抗して発せられた「諭示」にはっきりとあらわれる。
 一八六四年、四カ国艦隊の来襲をむかえうった長州藩は、最新鋭兵器を装備した外国軍艦に旧式の兵器でたちむかった。軍事力という点から見れば彼我の力の差はきわめて大きく、長州藩の惨敗におわった。上級武士を主体とした藩兵がたたかうことなく逃げまどい無力さを暴露したなかで、もっとも勇敢にたたかったのは前田と壇ノ浦の砲台をうけもった奇兵隊であった。
 だが攘夷戦の惨敗によって、長州藩内では幕府への恭順をとなえる「俗論派」が要職をにぎり、討幕を主張する「正義派」へ血の粛清をはじめた。尊攘派の家老はじめ重臣たちが殺され、奇兵隊・諸隊には給与その他を打切り、解散命令がだされた。藩をあげて幕府へ屈服しようとしたのである。幕府も長州征伐令を発した。それは幕末尊攘運動最大の危機であった。
 奇兵隊・諸隊は、藩の命ずるままに武装をといて解散するか、藩に反抗して武装をとかず独自に独立・倒幕の道をすすむのか、をせまられた。当時の奇兵隊総監・赤根武人は俗論派との協調すなわち屈伏の道をさぐり、山県有朋など一部の幹部は動揺していた。
 だが奇兵隊・諸隊は、勤労人民の自覚の高まりとむすびつき、その力を組織した軍隊であった。藩に逆流が吹き荒れるなかで、諸隊の幹部は徳地(現在の山口市)にあつまって協議し、藩命を拒否して解散せず、農民の利益をまもることを明示した独自の隊規「諭示」をつくって、全県の諸隊にむけて発するのである。下関市吉田の東行記念館には、その貴重な原文の「諭示」が所蔵されている。

農民に奉仕する画期的条項
 「諭示」は、当時の社会の基礎である農業生産を尊び、農民の労働を尊重することを、奇兵隊の基本精神として明示したことで、画期的な内容をもっていた。藩の解散命令を集団的・組織的に拒絶すること自体が、当時の封建の社会にあっては公然たる反逆である。そのうえに「諭示」をかかげたことは、奇兵隊が当初の藩正規軍の補完部隊という性質をこえて、真の意味で吉田松陰のとなえた草莽崛起(そうもうくっき)の部隊となり、勤労人民の軍隊となる道をすすむことをあきらかにしたのだ。
 「諭示」の条項をみると、農民が農作業をすることをなによりも尊重し、農民がひく牛馬にたいし「道へりによけ」、「農家の子どもを学校へ」つれてゆくこと、などをかかげている。さらに明確なのは最後の一条で、「武道の本意」が「強き百万といへどもおそれず、弱き民は一人といへどもおそれ」とある。それらの条項は、奇兵隊・諸隊という武装組織の存立の目的が、武士の支配体制をまもるためではなく、農民を主とする勤労人民の利益を守ることだと表明している。
 このような立場をあきらかにした軍隊は、日本の歴史において、このときの奇兵隊・諸隊のほかには存在しない。
 われわれの父祖たちが、このような人民に奉仕する精神をもって明治維新の変革をなしとげていったことは、なんと誇らしいことであろうか。
 「諭示」にしめされた下部隊士の斗争精神は、全県の農民・町民のなかにうずまいていた、独立をもとめ幕藩体制に反対する機運の高まりを反映していた。そうした意欲を高杉晋作がみてとって、この年の一二月に功山寺決起をおこない、それが全県的な決起をうながし、長州藩の藩論を倒幕へと統一していくのである。

 諭 示

一、礼譲をもととし、人心にそむかざるよう、肝要たるべく候、礼譲とは尊卑の等をみださず、その分を守り、諸事身勝手無之、真実丁寧にして、いばりがましき儀無之様いたし候事
一、農事の妨げ少しもいたすまじく、みだりに農家に立ち寄るべからず、牛馬等小道に出あい候はば、道へりによけ、速やかに通行いたさせ可申、たとひ植付け無之候所にても、踏み荒らし申しまじく候
一、言葉など、もっとも丁寧に取りあつかひ、いささかもいかつかましき儀無之、人より相したしみ候様いたすべく候
一、衣服、そのほかの制、もとより質素肝要候
一、郷勇隊のものは、おのづから撃剣場へまかりで、農家の小児は学校へも参り、教えを受け候様、なづけ申すべく候
一、強き百万といへどもおそれず、弱き民は一人といへどもおそれ候事、武道の本意といたし候事