『人民の星』 5903号4面 2014年7月5日付

奇兵隊を愛する徳地の人々 誇りある郷土史を掘り起こす

 明治維新は日本をかえた偉大なたたかいだった。だが明治後の天皇政府は、高杉晋作と奇兵隊・諸隊を裏切って富国強兵の道をすすみ、一身をなげうって明治維新をおしすすめた無名の人人の英雄的な斗いを語らせず、歴史の闇のなかに消しさろうとした。だが、奇兵隊・諸隊の栄光はけっして消しさることはできなかった。広範な人人は、さまざまな形で、奇兵隊・諸隊が農町民の利益をまもってたたかったことを伝え、その志をけっしてわすれず、うけついでいく姿勢をしめしてきた。その歴史をほりおこし郷土の歴史を学び伝えていく人たちが各地にいる。その一つに山口市の徳地に「徳地幕末維新歴史放談の会」がある。責任者である山田文雄氏に話を聞いた。

闇に消された若者の斗い
 同会は、活動をはじめて七年になる。古里である徳地の幕末維新には、住民にもっと知らせたい、誇りある豊かな歴史があるが、実際はあまり知られていないし語られることも少ない。そこで、腹蔵なく語りあおう、ということで「放談会」となったという。メンバーは約四〇人で、退職教師や元教育関係者、元公務員など徳地を愛し、郷土の幕末維新の歴史をきちんとまなんで、徳地の発展に生かしたいという思いがある。
 これまでとりあげられたテーマは、徳地に本陣をかまえた奇兵隊の陣屋の配置、幕末維新と徳地の関係、奇兵隊日誌の中の徳地の部分の現代訳、昔語りにふくまれた奇兵隊と農民のむすびつきや「諭示」への支持、「諭示」と徳地半大隊の関係、などあまり知られていない分野をほりおこしている。

本陣設置など伝わらぬ歴史
 山田氏は中学校の教師をしていたとき、自分の生まれそだった徳地が、明治維新にはたした役割が大きいことに気がつき、奇兵隊・諸隊への関心が強まった。ところがいろいろしらべていくと、徳地の歴史がきちんと伝わっていないことを意識するようになった。奇兵隊の本陣がおかれたこともほとんど知られていないだけでなく、当時の徳地の農町民たちがきわめて積極的に奇兵隊・諸隊に参加しているのに、それが誇り高く語られることがないことに、どうしてだろうと思ったという。
 退職してから、気になっていたことを調べていくと、徳地は幕末維新の長州の歴史のなかで大きな役割をはたしている。山田氏は、たとえば、徳地に転陣してきたばかりの奇兵隊が、解散命令を拒否して「諭示」をかかげるのだが、それは農民の利益をまもる部隊であることを明白にしている、ということは、幕府軍をむかえうつために、自分たちがどんな部隊であるかを、駐屯した徳地の人たちにしめしたのだと思う、そして、その精神を徳地の人たちが、心から支持したことが、さまざまにうかがえると、自分があつめたさまざまな資料をもとに語ってくれた。
 その後に徳地で組織された郷土防衛隊「徳地半大隊」(ほぼ一八八名)をはじめとする諸隊に全体で三〇〇名もの徳地の若者が志願して、四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、会津戦争に参戦したと思われること、あるいはまた古老から聞いた話をあつめた「昔語り」には、「諭示」の精神を支持する気持ちがこもった話や、諸隊反乱で処刑されさらし首にされていた首をひそかにおろして埋めた老婆の話、処刑された人たちを「涙ながらに見おくった」というくだりがある話など、数多くあることをしめしてくれた。
 そうした昔語りは、読むものが意識して読むとこめられた思いが伝わってくるという山田氏の指摘は、たいへん興味深い。語れないようにされたなかで、奇兵隊のことはわすれないよ、という姿勢は、「白河踊り」の伝承とおなじではないか、という提起ととともに、ひきつづき力をいれてほりおこしていく意気ごみが伝わってきた。このような「昔語り」をきちんとあつめていた先人がいたのである。
 また山田氏は、奇兵隊・諸隊の訓練が散兵戦であったことも、封建の軍隊とちがって一人一人の自発性をもとめる戦い方であったことから、志願した農町民の志を発揮することとむすびついて、幕府軍をうちやぶる力となったのではないか、とも指摘していた。奇兵隊・諸隊がどのような部隊生活をおくり、どのような訓練をしていたか、などについても、もっと具体的にとりあげることが、人人の関心の高まりにこたえられるのでは、ということだ。
 また山田氏は、なぜ徳地の若者たちの奇兵隊・諸隊への積極的な参加が歴史から消されたのか、を考えると、「諭示」の影響が地域に大きかったということの反面ではないか、徳地の若者たちの志願の住民に対する割合は、全県の他の地域よりもきわだって高い、そうしたことを為政者がおそれたため、諸隊反乱にたいするきびしい処刑とともに、語らせない圧力が徳地ではとくに強かったのではないか、まだまだほりさげていくことが多い、と語っていた。

庶民が斗った歴史に光を
 本紙で紹介した『戦った志士たち 幕末維新と徳地』の著者である吉松文雄氏は、昨年、この著作に手をいれて増補改訂版として発行し、徳地の若者たちが維新の夜明けにむかってつきすすんだ歴史を伝えている。この本の巻頭には山田氏が推薦の言葉を書いているように、協力しあって、徳地の人人がきりひらいた歴史を具体的にほりおこし、いまにうけつぐ内容を伝えようとしている。吉松氏はまた、高杉晋作と奇兵隊にたいして人人の関心が高まっているなかで、その関心にこたえるために、つぎは高杉晋作の功山寺決起にいたる過程を生き生きとえがいたものを書くために、準備していると語った。
 吉松氏も増補版のなかで、奇兵隊が陣屋を置いた正慶院について、「現在の正慶院は住職が代わり口伝はなにもない。寺の寺伝にも過去帳にも奇兵隊の本部になったことすら一切記録にない。これは、脱隊騒動が人びとの口辺に登らないのと同様に、寺の記録も抹殺されたものと思われる」と書いている。正慶院にはたしかに、こうした場所には普通かならずある、「奇兵隊の陣屋がおかれた」という説明書きの立札さえもたっていなかった。お寺の人も、そのことについて、「せっかくきていただいたのに、申しわけないけど」としかこたえようがない状況におかれていた。
 べつの徳地の婦人からも、「正慶院に由来すらものこせないようにして、徳地の人に歴史を知らせないというのは、どうしてなんでしょうか」とそっちょくな疑問がだされている。
 両氏の話や歴史放談会の活動からうかびあがってくるのは、庶民がたちあがった歴史を語らせまいとした抑圧に屈することのなかった、徳地の人たちの実際である。その思いをうけつぐ徳地の人たちの歴史掘り起こしの活動は、全県全国の人人をはげますだろう。