『人民の星』 5932号1面 2014年10月18日付
アメリカ 基地を奪い取る為の沖縄戦 当初から大量殺りく企む
沖縄県民は、米日政府の名護市辺野古での新米軍基地建設に断固反対し、「基地はアメリカへもって帰れ」というたたかいを強めている。だが、政府やマスコミは「普天間基地が固定化してもよいのか」とか「沖縄の負担軽減」をとなえて、辺野古への新米軍基地建設をごり押ししようとし、本土の米軍基地化をすすめようとしている。「日共」修正主義・社会民主主義などの潮流は、米軍による基地被害や環境破壊に反対することのみにおしとどめ、県民の斗争を全県全国、民族の斗争にならないようにかく乱しようとしている。沖縄での米軍基地撤去の斗いを発展させるためには、沖縄の広大な地域が基地としてうばわれた沖縄戦がどんな戦争であったかをあきらかにし、アメリカとその追随者、共犯者の欺まんのベールをひきはがさねばならない。
米国は基地を持って帰れ
極東最大の米軍基地である沖縄の基地は、アメリカが沖縄戦で占領し、土地をうばってつくり、一九七二年の「施政権」返還後も「日米安保条約」で保障されてきた。沖縄の米軍基地の出発点である沖縄戦はなんのためのどんな戦争であったか。
沖縄戦では米軍は、空母一六隻、戦艦八隻をはじめ艦船約一五〇〇隻で沖縄を包囲し、地上戦斗部隊の一八万三〇〇〇人と海軍部隊をふくむ総勢五五万人を投入した太平洋戦争で最大の作戦を展開した。米軍は三月二三日に沖縄大空襲をおこなったのち、四月一日に沖縄本島への上陸作戦を開始した。上陸前に猛烈な艦砲射撃と一六〇〇機におよぶ空母艦載機で爆撃、銃撃をくわえた。中部西海岸に上陸する前には南北一〇`bの海岸線に約一〇万個の砲弾を撃ちこんだ。米軍の艦砲射撃は「鉄の暴風」ともいわれ、地形がかわるほど街や家屋、田畑を破壊しつくした。
沖縄配備の日本軍は正面から対抗する力はなく、米軍は無血上陸して沖縄を南北に分断し、日本軍と住民を北部に逃げることができないようにして、南部方面に追いつめていった。
上陸した米軍は、火炎放射戦車をつかって日本軍の塹壕や横穴陣地を焼きつくし、壕や墓のなかに逃げこめば、火炎放射器や爆弾、毒ガスで、日本兵はもとより非戦斗の住民まで容赦なく殺りくした。逃げる人人を偵察機で見つけては、機銃掃射や艦砲射撃で撃ち殺した。南端の喜屋武(きゃん)岬にいたる原野には空からガソリンをまき、焼夷弾を落として焼き殺した。
こうして住民は過酷な極限状態におかれ、あてもなく逃げまどい、殺されていった。戦後生き残った人人も「艦砲の食い残し」とよばれる傷を体のあちこちにのこした。
沖縄戦の艦隊司令官ハルゼーは「ジャップを殺して殺しまくれ。もしみんなが自分の任務をりっぱに遂行すれば、各人が黄色い野郎どもを殺すことになるのだ」と檄をとばしたが、米軍の沖縄作戦は、破壊しつくし、焼きつくし、殺しつくすという、まさに大殺りく作戦であった。
皆殺し作戦の背景 中国にらみ単独占領
沖縄戦での戦死者は、沖縄県援護課の資料によれば、日本側の戦死者は約一八万七〇〇〇人にのぼる。うち本土出身兵六万五〇〇〇人、沖縄出身軍人・軍属二万八〇〇〇人、一般人九万四〇〇〇人である。戦後直後の収容所での病死、餓死などの死者をふくめると、六〇万県民のうちの約四分の一が犠牲になった。
一銭五厘の赤紙で召集され沖縄に送られた兵隊のうち、捕虜になって生き残ったのは七四〇一人だけであり、事実上の皆殺し作戦であった。
沖縄戦をめぐって、日本軍が住民に犠牲をおしつけた元凶であり、本土決戦の準備のための捨て石にされたという評価がながされてきたし、いまもながされている。だが、沖縄戦の一つの面を誇張し、アメリカの対日戦争を、まるで日本人民をたすける人道的で、平和と自由と民主主義であるかのように見るのはまったく事実に反するのである。
沖縄戦体験者は「たしかに日本の軍国主義は悪かった。だから、アメリカが正義だったとか、よかったというわけではない。アメリカの残虐さは日本軍どころじゃなかったさ。よく革新系の人たちが“日本が悪かった”とだけいうけれど、殺したのはアメリカだ」(元学徒看護隊婦人)と語っている。
このような大殺りくの沖縄戦は、戦争をはやく終わらせるためなどではなく、アメリカが沖縄を占領して広大な土地をうばい、基地をつくる必要からおこなったものであった。米軍の沖縄作戦は「アイスバーグ作戦」とよばれ、その目的は「沖縄を奪取し、基地として整備し、沖縄諸島における制海権、制空権の確保」というものであった。
それは、日本を単独占領することを目的にすると同時に、中国侵攻の拠点にすることを目的にしたものであった。沖縄侵攻作戦の司令官バックナーは、沖縄戦を開始した四月に「中国大陸への道筋とした、ロシアの拡張主義に対抗する拠点として、沖縄を保護領その他の名目で排他的支配することが不可欠」といい、陸軍参謀長マーシャルは七月、「戦後に予想される紛争地域のなかには黄海周辺がふくまれる。したがって琉球に基地をおき、残りの地域を非軍事化して友好国にゆだねるのがのぞましい」といっていた。アメリカは日本占領の先に中国侵攻をにらんでいたのである。
アメリカと日本との戦争は、中国市場の争奪が最大の目的であった。中国はイギリスなど列強の半植民地状態であったが、日本帝国主義が中国全面侵略戦争をすすめるなかで、アメリカは日本をうちやぶって、中国をうばいとることを最大の戦略とした。アメリカは、アジア侵略のために日露戦争直後から日本侵攻作戦の「オレンジ計画」をたててきた。
このためにアメリカは、中国侵攻に絶好の位置にある沖縄を無差別攻撃し、占領すると、ただちに住民を収容所におしこめて土地をうばいとって軍事基地を建設し、核兵器をもちこんだ。サンフランシスコ片面講和後も本土と切りはなして長期にわたり軍政をしいた。
そして、七二年の「施政権」返還後も「安保条約」をたてに沖縄の軍事基地態勢を維持し、こんにちのもとで、日本占領の継続と対中戦争のために米軍基地のあらたな再編強化をはかっているのである。
日本支配層の犯罪 戦争引き延ばし犠牲拡大
他方、沖縄戦における天皇を頭とする日本の支配階級の犯罪も許しがたいものである。日本軍はすでに四四年当時で、南方のニューギニアやフィリピンで、インドシナや中国戦線で数万、数十万の犠牲者をだしてつぎつぎと敗退しており、敗戦は決定的なものとなっていた。制空権、制海権はうばわれ、補給はとだえて食料もなく、多くの兵士は戦斗ではなく餓死、病死で命を落とした。また、護衛のない輸送団は米潜水艦の格好の標的となってつぎつぎと撃沈された。
とりわけ日米争奪の主戦場にであった中国戦線では、日本軍は主力の陸軍一〇〇万を投入し、侵略を中国全土に拡大したが、中国人民の持久戦によって、各個撃破のせん滅戦にあってうち負かされていた。中国戦線での敗北は、日本の敗戦において決定的なものであった。
だが、敗戦が決定的となるなかで天皇を頭とする日本の支配階級は、敗戦にともなう日本人民の革命をおそれ、自分らの延命のために戦争を引きのばしたのである。
支配階級は、負け戦がつづくなかで東条英機らに戦争責任をおしつけて四四年七月に東条内閣を退陣させた。その権力中枢の一人であった元首相・近衛文麿は、当時の日記で「サイパン戦以来、海軍当局はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込絶対なしというに一致せるものの如し。即ち、敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉しく到達せる結論にして……」「敗戦はもちろん怖ろしいが、敗戦と同様もしくは、それ以上に怖ろしいのが左翼革命だ。……左翼革命に至っては、国体も何も吹っ飛ぶ」と記し、敗戦にともなう日本人民の革命斗争に恐怖していた。
東条内閣が退陣した四四年七月に戦争をやめていれば、戦地での多くの犠牲や、四五年からの無差別空襲、沖縄戦、広島・長崎での原爆投下もなく、多くの非戦斗員の犠牲もなかったのである。だが、支配階級は戦争を継続した。それは、アメリカに自分らの地位の安泰をこいねがうとともに、日本人民の革命の力をそぐためであった。多くの日本人民を殺りくするという点では、天皇を頭とする日本の支配階級もアメリカ帝国主義も一致していた。そうした支配階級の野望のために沖縄戦をはじめ本土空襲、原爆投下などで多くの日本人民の命がうばわれたのである。
沖縄戦、戦後の米軍支配の経験と怒りは、沖縄県民のなかに脈脈と流れており、それは「基地はアメリカに持って帰れ」の世論となっている。戦中、戦後の体験をひきつぎ、戦争に反対し、基地増強をうちやぶるたたかいを発展させ、米軍基地も戦争もない、独立、民主、平和、繁栄の日本社会の実現にむけて全県全国のたたかいを発展させよう。