『人民の星』 5982号1面 2015年4月18日付

本土と沖縄は連帯し米日反動と斗おう 「4.28」63周年を迎えて

 四月二八日は、一九五二年にサンフランシスコ講和条約および「日米安保条約」が発効して六三周年である。戦後、日本を単独占領したアメリカは、朝鮮侵略戦争のさなかの五一年九月八日に講和条約とセットで「日米安保条約」を日本売国政府とのあいだで締結し、翌年四月二八日に両条約は発効した。それらは、アメリカ帝国主義と日本の売国独占資本が結託して、日本本土には「政治的独立」をあたえると見せかけて、実際には米軍駐留を維持し、沖縄では軍政をつづけ、こうしてアメリカがひきつづき日本全体を支配するというものであった。沖縄はその後本土に復帰したがアメリカが日本を支配し、日本独占資本が対米従属の政治をやるという日本社会の構図はつづいている。そしてそのことが日本人民の苦難の根源となっているのである。日本の独立・民主・平和・繁栄を実現するうえで、アメリカの支配と安倍政府の対米追従の戦争政治とたたかううえで、沖縄をはじめとする全国的な基地斗争や「安保」破棄の斗争を発展させるうえで、サンフランシスコ講和体制と「安保」体制によるアメリカ支配をはっきりさせることがきわめて重要である。

米国の単独占領と売国独占資本育成
 サンフランシスコ講和条約は、第二次世界大戦をたたかった「連合国」と日本国の講和条約であり、この条約で戦争状態が正式に終了したことになった。
 だが講和条約締結の内容は、日本をひきつづき支配し、朝鮮侵略戦争などアジア侵略を狙うアメリカが、ソ連、人民中国、インドを排除してすすめた「片面講和」であった。
 アメリカは第二次大戦中から日本を単独占領するという野望をもっていた。一九四五年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後三カ月でのソ連参戦がきまると、アメリカは原爆の開発をいそいだ。五月六日にドイツが降伏し、七月六日に最初の原爆実験が成功すると、ただちにソ連参戦前に日本に原爆を投下することをきめた。
 日本は戦争を継続する能力をまったくうしない赤子同然で、降伏寸前だったが、アメリカはソ連参戦前に原爆を日本につかうという野望のもとで、八月六日、広島に人類最初の原爆をなげつけていく十万を焼き殺し、八月九日、ソ連が中国東北地方で対日参戦するその日、長崎に二発目の原爆をなげつけた。
 そうして八月一五日、天皇を頭とする日本支配階級が降伏するとすぐに大量の軍隊で日本にのりこみ、占領軍総司令部(GHQ)をおき、日本を単独占領した。
 そのもとでアメリカは、日本軍の武装解除や天皇の絶対的権限のはく奪、地主階級の消滅などをすすめ、日本支配階級から反米の牙をぬいて、日本独占資本をアメリカにまったく屈従した、忠実な手先として育成し、これを急速に復興させ、他方では労働者、人民の斗争を弾圧していったのである。
 サンフランシスコ講和と「安保条約」にもとづく体制は、こうしてアメリカが日本をひきつづき支配し、アジア侵略の拠点にするという戦略を具体化するものであった。

サンフランシスコ講和と「安保」体制
 「サンフランシスコ講和によって本土は独立したが沖縄はひきつづき米軍政のもとにおかれた。そして、日本政府の差別・抑圧をうけた」という見方がある。
 これはサンフランシスコ講和と「安保」によってアメリカがつくりだした政策の効果である。アメリカはまさしくこのような効果をねらい、本土と沖縄という対立関係をあおろうとしてきた。それはアメリカの沖縄をふくむ日本全体への植民地的支配をおおいかくすためであった。
 アメリカの日本支配の仕掛けは狡猾だった。
 本土についてはサンフランシスコ講和条約で日本に「施政権」を返還する格好をとった。それを「日本の独立」と称した。しかし、アメリカと日本政府は、返還した「日本政府の施政権」そのものをアメリカに従属する「施政権」にしたのである。
 その法的軍事的根幹は「安保条約」の締結と、それにもとづく米軍の恒久的駐留であった。
 アメリカは、サンフランシスコ講和条約の調印式の日、全権大使の吉田茂一人をひそかに呼びつけ、陸軍基地で「日米安保条約」に署名させた。「安保条約」は、第一条で日本への米軍の駐留はアメリカの「権利」とし、日本での大規模な内乱・騒擾を鎮圧できるとした。
 また、第二条ではアメリカの許可なしに第三国への基地の提供も軍隊の通過も認めないとし、第三条で行政協定によって米軍と米兵の特権的地位を規定するとした。
 つまり日本は、アメリカと売国支配階級によって講和条約後も、「日米安保条約」と諸協定によって法制上も軍事上もアメリカの従属国とされたのである。「日本の施政権」の上には「安保条約」があり、米軍による軍事支配があった。
 朝鮮戦争の途上で、アメリカは日本の再軍備をもちだし、警察予備隊から保安隊、自衛隊と日本の軍事力を育成したが、その軍事力は完全に米軍の指揮下においた。
 サンフランシスコ講和で日本が独立したというのは真っ赤なウソであり、アメリカに従属した施政権こそがその実態である。
 他方、アメリカはサンフランシスコ講和で、北緯二九度以南にある沖縄と奄美諸島についてひきつづき施政権をうばい、軍政下においた。沖縄、奄美大島などをアメリカの「信託統治」とし、アメリカの直接軍事支配とした。
 アメリカは沖縄を日本の見せかけの施政権からも分離することで、沖縄を恒久基地とした。それは核兵器の持ち込みや戦斗作戦行動の自由を確保し、日本、「韓国」、フィリピン、台湾などの米軍と一体化して、朝鮮や中国へのあらたな戦争の一大拠点にするためであった。
 その後、アメリカは軍用地として沖縄県民の土地をブルドーザーと銃剣によって強制的にとりあげ、全島を基地にかえた。こうして、アメリカは本土にたいする「安保」を使った軍事支配をやり、沖縄にたいしては直接の軍事支配をやったのである。
 それはアメリカによる日本支配の二つの手口であった。

反米愛国、民族的斗争の伝統引継ぐ
 アメリカの狡猾な支配にたいして、日本人民の戦後のたたかいは、日本を支配するアメリカ帝国主義とそれに従属した売国支配階級とたたかい、民族独立の課題とむすびつくことで大きく発展してきた。
 本土では、米軍基地拡張に反対する斗争を中心にさまざまな斗争が五〇年八・六斗争をきっかけとしてふきあがった。
 農漁民と労働者は、内灘射爆場(石川)、浅間山演習場(長野)、妙義山演習場(群馬)などの土地接収反対斗争、伊丹飛行場反対斗争(大阪)、信太山演習場反対斗争(大阪)、千歳飛行場反対斗争(北海道)、五五年からの砂川基地拡張反対(東京)など全国各地でたたかった。
 また警職法(警察官職務執行法)反対斗争、「勤評は戦争の一里塚」として教師の勤務評定に反対する斗争をへて、日本最大の民族的斗争となった六〇年「安保」改定阻止・破棄の大斗争をたたかった。そのたたかいは、アメリカ大統領アイゼンハワーの訪日を阻止し、岸売国内閣を打倒した。それは、南朝鮮の独裁体制反対の四月革命と激励しあい、「安保」改定阻止・破棄の斗争を支持する中国の数千万の大デモと支持激励しあいながら発展した。
 一方、沖縄県民は、日本本土への渡航の自由もなく、まったく外国扱いで、二重、三重の屈辱をしいられるなかで、米軍による土地の取り上げや米兵の犯罪などさまざまな抑圧や屈辱とたたかいつづけた。
 五六年六月に、沖縄基地は、①制約なき核基地、②米極東戦略の拠点、③日本やフィリピンの親米政権が打倒されたときの拠り所として重要だとして、あらたな土地接収をたくらむ米下院軍事委員会の「プライス勧告」にたいして、戦後一〇年間の怒りを爆発させ、「島ぐるみ斗争」を展開し米軍をふるえあがらせた。それは本土の斗争を激励した。
 そして、五九年には祖国復帰県民大会をひらき、翌六〇年四月には復帰運動のために沖縄県祖国復帰協議会を結成した。六〇年「安保」改定にむけては、訪日を計画していた米大統領アイゼンハワーが、六月一九日に一万の米武装兵にまもられて沖縄を訪問したが、「沖縄を祖国に返せ」「すべての核兵器を撤去せよ」などを要求した二万五〇〇〇人の祖国復帰大会とデモがこれをむかえうった。アイゼンハワーは訪日を断念した。
 また、アメリカが六二年からベトナム侵略戦争を本格化させ、沖縄に核ミサイル・メースBや毒ガスを持ちこみ、大型爆撃機B52を配備し、ベトナム侵略戦争の出撃基地にすると、県民は米軍の銃剣をおそれず断固たたかい、七〇年一二月の英雄的なコザ斗争をたたかった。
 そして、六九年一一月のニクソン・佐藤会談が「七二年の沖縄施政権返還」をうちだし、「安保」体制によるアメリカ従属下の本土への復帰を画策し、ひきつづく米軍基地の駐留と、日本本土の沖縄化をたくらむと、これに反対して、沖縄ニセ返還反対の大斗争をたたかい、七一年には労働者を中心とする沖縄返還協定粉砕のゼネストにたちあがった。
 本土と沖縄の斗争はあい呼応し、たがいに激励しあいながら発展した。それは、アメリカの支配に反対する民族的斗争としてたたかったときにもっとも大きな力を発揮した。本土対沖縄あるいは日本政府対沖縄ではなく、アメリカおよび日本売国独占資本を共通の敵としたとき、本土と沖縄の人民は団結し、斗争は発展したのである。

米日反動派が日本人民の敵である
 沖縄は本土復帰したが、アメリカと日本売国独占資本が日本人民を支配していることにかわりはない。復帰による変化は、沖縄と本土がいずれも米軍支配を根幹にしたアメリカの「安保」による支配のもとにおかれるようになったということである。それは、「安保」破棄、米軍基地撤去を中心にし、アメリカの支配を打破し、日本売国独占資本を打倒する斗争こそ共通の斗争であることをしめしている。
 サンフランシスコ講和、「安保」締結から六三周年をむかえた現在、本土と沖縄でのアメリカの支配に反対する民族的斗争の伝統と経験をひきつぎ、沖縄対本土、沖縄対日本政府というような、あやまった論点を粉砕し、あらたな反米愛国の斗争をくりひろげるときがきている。