『人民の星』 5982号2面 2015年4月18日付

米州首脳会議 米の中南米支配を糾弾 ラウル・カストロの演説(上)

 中米パナマで一〇、一一日と第七回米州首脳会議がひらかれた。南北三五カ国首脳が参加した会議にはアメリカが排除してきたキューバのカストロ国家評議会議長がはじめて参加し、この地域へのアメリカの歴史的な支配・干渉を暴露し、批判した。アメリカは中南米人民の斗争で窮地にたち、キューバとの国交正常化をさぐり、それを機に転覆活動をやろうとしているが、中南米人民の斗争をおしつぶすことはできない。そのなかでキューバの米州機構参加があり、各国首脳はキューバの参加が「あたらしい時代を切りひらいた」と祝賀するとともに、アメリカによるキューバ制裁の解除をもとめ、ベネズエラなどへのアメリカの干渉を非難した。キューバのカストロ国家評議会議長の演説要旨を二回にわたって紹介する。(なお、見出しは本紙でつけた)

隠せぬ転覆策動・人民弾圧
 わたしは、キューバが対等な立場でこの会議に参加することを可能にしてくれたすべてのラテンアメリカ・カリブ地域の国国の団結を高く評価し、われわれにしめされた親切な招待にたいしてパナマ共和国の大統領に感謝したい。わたしは兄弟の抱擁を、パナマ人民に、そしてここに参加されているすべての諸国の民族におくりたい。
 二〇一一年一二月二日と三日、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)がカラカスで結成されたとき、「われらのアメリカ」の歴史にあたらしい段階が切りひらかれた。この組織が生まれたことによって、諸国人民が平和に生き、自分たちの意志で自由に発展するという権利が保証されるとともに、独立と主権と主体性を維持するという協同と連帯と共通の意志にもとづいた将来への発展と統合の道が切りひらかれた。
 「偉大な祖国アメリカ」をつくりあげるというシモン・ボリバルの理想は、独立運動家たちの真に偉大な事業を呼びおこした。
 一八〇〇年には、広大な帝国の南の境界として北の連合にキューバを併合することが考えられていた。一九世紀には、南北アメリカと世界を支配する目的をもった「明白なる運命」といった教義や、キューバは北米同盟に不可避的に吸収されるという「熟したフルーツ」の思想が生まれた。この思想は、この地域の独自の解放思想の誕生と発展を蔑視していた。
 その後、戦争と征服と介入をつうじて、この拡張主義的、覇権主義的な力がわれらのアメリカから領土をうばいとり、リオ・グランデ(アメリカとメキシコの国境を流れる川)まで拡張した。

独立へキューバ革命党結成
 その後、長い幾多の戦いの敗北ののち、ホセ・マルティが一八九五年に「必要な戦争」、または「大戦争」とも呼ばれる戦争を組織した。かれは一八六八年にはじまったキューバ独立戦争を指導するためにキューバ革命党を結成し(一八九二年)、この戦争を指導し、“人間の完全なる尊厳”を達成するために、「すべてのものとともに、すべてのものの利益のために」共和国を樹立した。
 かれは、時代の特徴を正確に、またはやい時期に定義し、「キューバの独立によってアメリカ合衆国がアンティル諸島にまで拡張し、そのさらに大きな力によって“われらのアメリカ”の領土におそいかかるのを適時に阻止する」という任務に献身した。
 「われらのアメリカ」は、かれにとって現地生まれのスペイン人の、先住民の、黒人の、黒人と白人の混血の人人のものであり、混血と労働者のアメリカは被抑圧者や貧困者とともに共同の事業をなしとげなければならないものであった。現在、この理想は、地理をこえて、実をむすびはじめている。
 ちょうど一一七年前の一八九八年四月一一日、当時のアメリカ合衆国大統領は、議会にたいしてキューバの独立戦争にたいする軍事介入の承認をもとめた。この独立戦争は、三〇年近くにわたってたたかわれ、キューバ人が川のように血を流すことによって、実際上すでに勝利していたものである。アメリカ議会はこのとき、「事実上、正当に」キューバは独立していることを承認するという人だましの付帯決議をだした。こうして彼らは同盟国となり、占領者として国をうばいとったのである。
 キューバの憲法には付帯条項がくわえられた。それは、決議案を提案したアメリカ上院議員の名前をとってプラット修正条項として知られているもので、キューバの主権をうばい、強大な隣国が内政に干渉することを許可し、グアンタナモ海軍基地の根拠をあたえているものである。この基地は今でもわが国の領土を不当に占有している。北の首都が国を侵略したのはこの時期であり、二度の軍事介入と残酷な独裁者への後押しがおこなわれた。
 二〇世紀のはじめ、キューバ人が憲法の草案をつくり、総督に見せたところ、本国から任命されていたアメリカ人の将軍は、ここにはなにかが欠けているとのべた。憲法制定にかかわったキューバ人がそれはなにかと問うと、総督は「アメリカ合衆国が必要とみとめた時はいつでもキューバに干渉する権利をみとめた、プラット上院議員がしめした修正条項だ」と答えた。
 かれらはこの権利を行使した。もちろん、キューバ人はそれを拒否した。そうした状況が一九三四年までつづいた。二回の軍事介入があり、さらに、この期間に残忍な独裁政権にたいする後押しがおこなわれた。

独裁政権樹立へ米砲艦外交
 ラテンアメリカにたいしては、「砲艦外交」が支配し、その後「よき隣人」政策がとられた。あいつぐ介入で、民主的な政府が転覆され、二〇カ国でおそるべき独裁政権が樹立された。そのうち、一二カ国の転覆は同時におこなわれた。南米を中心にいたるところに存在し、何十万人もの人間を殺したつい最近の独裁政権のことをわれわれのだれが忘れることができるだろうか? サルバドル・アジェンデ大統領は、その不滅の遺産をわれわれにのこしている。
 ちょうど一三年前、人民によってうちやぶられたが、親愛なるウゴ・チャベス大統領に反対するクーデターがおこった。その後、ほとんど間なしに高くついたオイルクーデターがおきた。
 一九五九年一月一日、アメリカ軍兵士がハバナにはいってからちょうど六〇年後にキューバ革命が勝利し、フィデル・カストロ司令官にひきいられた反乱軍がハバナにはいった。
 キューバ人民は、きわめて高い代価をはらって、みずからの主権を完全に行使しはじめた。絶対的な支配から六〇年間がたっていた。(つづく)