『人民の星』 5984号1面 2015年4月25日付

沖縄石垣市・八重山原爆展始まる 生徒や遺族らが参観

 沖縄原爆展を成功させる会(比嘉幸子代表)は四月二一日から二六日の日程で「八重山原爆と戦争展」(八重山平和祈念館)を開催している。
 初日は地元石垣市民をはじめ、北海道、東京、神奈川、埼玉、京都、愛媛などからの観光客や移住してきた人たちが参観した。
 午後から大阪の羽衣学園の中学生(四一人)と教師(五人)が参観した。生徒たちは二班に分かれて、八重山の戦争マラリヤの話で平和祈念館の若いスタッフや平和ガイドの高校生からレクチャーを受けたあと、「原爆と戦争展」のパネルの学習にのぞんだ。初めて目にする原爆や戦争の真実に険しい表情を浮かべながらも、その姿勢はまじめで引率した教師もおどろくほどで、全員がアンケートに応じた。
 二日目は、遺族会八重山支部の方がポスターを見てこられた。「父は海軍陸戦隊で戦死した。白木にはいった石ころが届いたのは終戦から八年たってから。母は戦争未亡人として大変苦労した。当時は小学一年生だったわたしは台湾に集団疎開していた。子や孫の世代に戦争体験をいかに継承していくかがとても大事でこういう展示に学ぶことは多い」と語った。
 また尖閣列島戦時遭難遺族会の方方も会場にかけつけて、スタッフに体験を語ってくれた。Hさんは「この展示を児童・生徒たちにじっくり見てもらい、平和について考えてほしい。尖閣問題と辺野古の基地問題は連動している。グレーゾーン地帯(尖閣列島)を廃するためにも辺野古基地建設は絶対に阻止しなければならない」と語ってくれた。

尖閣遭難遺族が体験を語る
 おなじく尖閣列島で五〇日ちかく生死の境を生き延びた婦人のGさんは、つぎのようにはなした。「当時一〇歳の子どもだった。いまいえるのはなんてバカバカしいことを平気でやったんだな、この国はという一言です。日本は貧しかった、こんな小さな島の隅隅からすべてを供出させられるほど、缶詰の缶すらですよ。母達がさきに台湾に疎開して、わたしは祖母といっしょに昭和二〇年六月三〇日に台湾行の漁船に乗船した。すでに沖縄本島は戦斗はおわっている時期だったのに、なにも知らされない。
 そして七月三日に米軍機の爆撃をうけて船は遭難、魚釣島にたどりついたのです。わたしも祖母もケガひとつなかったのが幸いだったが、島での四五日間、飢えで衰弱していった。疎開者のなかに船大工がいて、大工道具もあったので座礁した難破船から資材を使い、みんなで協力して小型船を完成させた。そのときの喜びはなんともいえないです。
 大人たちは決死の覚悟で小舟をだし、二日かけて八重山についた。私たちが救助されて八重山についたのは八月一九日、一八〇人の疎開者の中、生存者は一三〇人だったそうです。戦争はほんとにバカバカしい。最近の安倍政府のやりかたを見ていると腹がたちます、アメリカも日本もやりたい放題。戦争体験者がいなくなる、戦争を知らない人ばかりになって心配です。貧しくても平和な世の中をつくっていかなければなりません」
 また、「八重山原爆と戦争展」の開催にあたって学校訪問時にであった高校の校長先生は父親が長崎の被爆者であることを語り、ぜひ教師や生徒たちにも呼びかけようと積極的に応えた。そして当日、家族を伴って参観した。「八重山で原爆のことを考える事は大切だ。もっとこのような機会をふやして、生徒たちにも体験者の証言を学ぶことをやっていきたい」と話した。