『人民の星』 
  6038号1面 2015年11月4日
愛知・豊橋駅前で街頭「原爆と戦争展」
米日支配層に怒り

 愛知県の原爆展を成功させる会・豊橋は一〇月二九~三一日の三日間、豊橋駅南口駅前広場で街頭「原爆と戦争展」をひらいた。安保法制に反対する世論と行動を深刻な戦争体験に根ざした幅のひろい、力のあるものにするうえで原爆展運動は大きな役割をはたしてきた。今回の取組で戦争体験世代から高校生までの老若男女、また外国人らもパネルに見いった。

空襲を指揮した奴になぜ勲章
 七二歳の男性は「二、三枚見ておしまいにしようと思っていたが、つづいて見てしまった。沖縄辺野古で新基地に賛成のところに政府がカネをやるといっている。ひどいやり方だ。沖縄戦のときとおなじではないか。日本の空襲を指揮したやつに天皇の勲章をだしているが、知らなかった。とんでもないことだ。よくこれだけの資料をあつめた。安倍さんはなにか。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)でも日本はアメリカに切られたらおわりだ。がんばってください」と声をかけていった。
 八七歳の男性は「パネルはわたしらの年代の人が書いていてよくわかる。新潟からでて東京の大森ではたらいていた。敵機は富士山をめざしてきて大森上空をとおっていく。毎日が空襲だった。B29の胴体が焼夷弾の火事で真っ赤にそまっていた。明治神宮での雨のなかの学徒出陣にも工場の若い連中がかりだされて見おくりにもいった。終戦直前には“羽田飛行場にいくぞ”といわれ、あるいていったが、兵隊がいっぱいおり、特攻兵の見おくりだった。特攻は九州からだけいったわけではない」と戦時をふりかえった。
 大正一四年(一九二五年)生まれで一六歳で海軍に志願し太平洋戦争がはじまったときはすでに船にのっていたという男性は「トラック島にいた。そこで広島、長崎に、かわった爆弾がおちたというのを知った。終戦の放送もあったが、なにをいっているのかわからなかった。戦友もたくさん死んだ。爆弾で死んだのではなく栄養失調だ。いっしょに寝たと思って朝おきると死んでいた。トラック島には網走の囚人が飛行場建設にきていた。“アオタイ”とよばれていた。終戦になったが、どこにかくしてあったのかビールや羊羹、コメがいくらでもあった。その一方で栄養失調で多くが死んでいる。帰国したのは昭和二〇年の一二月二日だった。豊橋は田中屋呉服店と額ビル(現カリオンビル)をのこしてあとはすべて焼け野原だった。豊橋商業にいた弟は学徒動員さきの豊川海軍工廠で爆死していた。いま安保法制があるが、みな利口になっているし分別もある。アメリカのかわりをやらされたり、紛争でもまきこまれたらいかん」とはなしていた。

豊橋空襲で同級生を亡くす
 八七歳の男性は「豊橋空襲を経験した。火が竜巻のようになってトタンがとぶ。同級生の女の子が焼夷弾のおもりを頭にうけ、一週間後ぐらいになくなった。自分は終戦間際だったが志願した。志願しなければならないような空気だったし、そういうながれができるとそうなってしまうものだ」と戦争反対の思いをだした。つづけて「日本はアメリカの属国でアメリカ州大字日本のようなものだ。アメリカは日本にコメをつくらせずに買わせている。自分の国でくえばいい。食糧の自給ができないことはおかしい」といっていた。
 七六歳の婦人は「どういう団体ですか」と問いかけながら「原爆は実験でおとした。黄色人種だからおとしたのだ。“韓国”や中国から損害賠償がいわれるが、日本はアメリカになぜ原爆の損害賠償請求をしないのか、と思う。安倍さんら議員が真っ先に戦場にいくと法律できめたら安保法制に賛成するよ。自分たちは安全地帯にいる」と安倍政府を強い口調で批判していた。
 五〇代の婦人は両親ともに豊川海軍工廠の爆撃を経験しているという。「日本はどこまでアメリカいいなりにならないといけないのか。福島原発でもそうだ。アメリカはきらいだ」といい、カンパをよせていった。
 三〇代の男性はパネル「貧乏になって戦争になった」が印象にのこった様子で、いまも「国のため」とくりかえされているが、だれが戦争を引きおこし、だれが犠牲になったのか、長周新聞号外の「語れなかった東京空襲の真実」でさきの戦争体験をふりかえる論議となった。かれは「マスコミこそ戦争をいちばんあおったと思うが、その責任も問われず戦後も生きのびたのはおかしい」とか「米軍が皇居を攻撃からはずしたのは知っていたが、GHQは空襲犠牲者の慰霊も禁止したのか」と占領支配の実態におどろいていた。
 フィリピン人の女性は「アメリカ軍がマニラを焼きはらった」パネルを写真でとっていた。アメリカ人とイギリス人の若い女性二人づれは「かわいそうだなあ」と声をあげていた。中国人留学生も見ていった。