『人民の星』 
  6045号1面 2015年11月28日
那覇市の公園で街頭原爆展
米国は最低の国だ

 沖縄原爆展を成功させる会は二三日、那覇市の与儀公園で街頭原爆展をひらいた。公園を利用する高齢者や子ども連れの婦人などが熱心に参観した。戦争体験者は「いい展示だ」と激励の声をよせ、スタッフに意見をよせた。
 テニアンで戦争を体験したという男性(八〇歳)は「父親が若いころにテニアンに移民し、南洋興発の自動車部門の仕事をしていた。現地召集され、どこで死んだかもわからない。テニアンの戦争はひどいものだ。米軍からの艦砲射撃、機銃掃射のなかをにげまどった。大きな自然壕ににげこんでたすかった。アメリカは捕虜になったわれわれにチョコ、菓子などをあたえたが、子ども心に大量虐殺をしたあとから食い物をあてがうアメリカ人の神経がわからなかった。
 この公園では毎週土曜日に教会関係の慈善団体がきて、賞味期限ぎりぎりの菓子や食事を配っている。ここらへんはホームレスも多いからだ。でもアメリカ人の牧師たちから物をめぐまれるってのは、どうも当時のことを思いだして気にいらん。とても屈辱的だ」と胸のうちをはなした。
 男子学生は「日本史がすきで興味があった。気になったパネルは“撃ちてし止まん”という言葉だ。国民を戦争に動員するためにいろんなキャッチコピーがある。いまも日本がおかしい方向にいっている感じがする。アメリカでおきた同時多発テロのときは五歳くらいだったが、子どもなりに緊迫感を感じた。あれからずーっと戦争がはげしくなっている。戦争は遠いむかしのこととは思えない」とはなした。
 パネルを熱心に見た婦人(四〇代)は「他県から沖縄に嫁いできた。八年になる。学生のときに読んだ『はだしのゲン』が強烈にのこっている。東京空襲のパネルはすさまじい。峠三吉さんの書いたものはとても心にひびく。とにかく知らないことばかりだったので感謝です。なにかあれば声をかけてください」と名前と住所をスタッフに託した。
 戦争当時、一六歳だった婦人は「国頭村から多数の女の人たちが姫路の紡績工場に働きにいっていた。わたしはそこから尼崎の住友金属工場の食堂ではたらくようになった。戦斗機をつくる工場で、四〇〇〇人もの人がはたらいていた。沖縄戦のことは知らないが、尼崎の空襲もひどかった。アメリカは汚い。安倍がテレビにでると顔も見たくないのですぐに消す。前の仲井真知事があんな裏切りをするから、政府は基地建設を強行している。こんなに沖縄をバカにしていじめるのか。辺野古にもいきたいが体調が悪くいけない。沖縄県と国が裁判をおこすが、裁判所はすぐ近くなのでいってみたい」とはなした。
 男性(六〇代)は、パネルを見るなり「糸満市でもいまでも不発弾がでてきて、重機を使う人が大けがする事故もおきている。アメリカは自分たちは知らんぷりで自衛隊に処理をやらせている。中部でも、サッカー場の地下の土からPCBや枯葉剤がでてくる。アメリカは知らんぷりだ。辺野古に新基地ができたら、嘉手納以南が返還されるというが、これもウソだ」とアメリカの手口を怒りをもってはなした。
 六〇代の婦人は、オバマと安倍がならんだパネルを見るなり、それを指さして「アメリカは、最低の国だ。なんで、外国にいって戦争をしかけるのか。わたしは、はじめは安倍を信用していたが、アメリカの言いなりになってまた戦争をやろうとしている、もう信用できない。そうなれば、沖縄は標的になり、ミサイルが飛んでくる。戦争をおこしたものたちが戦争責任をとろうとしない。だから、まだ戦争は終わっていない。各国が独立国として互いに尊重することではないか。アメリカが戦争をしかけるからテロもおきる」と怒り心頭に発してはなしていた。