『人民の星』 
  6088号1面 2016年5月4日
どこも深刻な地震災害 住民の為の行政を
安倍視察はパフォーマンス

 熊本地方の一四日の日奈久(ひなぐ)断層と一六日の布田川(ふたがわ)断層を震源とした震度七の激震がおこって二週間余りがたつ。地震は東の阿蘇や大分中部、南西の八代方面でべつの地震を誘発し、地震がおさまらない。また被害は、震源地となった益城町(ましきまち)をはじめ広範囲におよんでいる。あまりとりあげられない西原村と南阿蘇村立野地区を取材した。これらの地域は、益城町から阿蘇につながる布田川断層帯上に位置し、甚大な被害をうけた。高速道路や新幹線の復旧は大きく報道されているが、被災した地域は広範囲におよんでおり、報道にとりあげられない地域が無数にある。そうしたところでも前向きのきもちで日常の生活をとりもどそうと努力がはらわれているが、困難がつみかさなっている。そのなかで、行政の対応がともなわないこと、ことに安倍政府のパフォーマンスの視察にたいする怒りがひろがっている。

阿蘇郡・西原村
 西原村は、益城町の東側に位置し、益城町とおなじように震度七の激震をうけた。西原村の全家屋のうちの半数以上が倒壊、半壊した。小森東から下布田地区がとくにひどい被害をうけている。車がかよう生活道路は家屋の土台や塀などがくずれて通れないところもある。多くの人人が、避難所や車の中、庭先にテントをはるなどして生活している。

二度目の地震で被害が拡大
 布田の六〇代の男性は、「一四日の時は仕事を終え、近くの店で飲んでいたとき下から突きあげるような衝撃をうけてテーブルごと飛びあがった。店の棚などがたおれ、ガラスがとびちった。だが、自分の家をふくめ瓦が落ちた程度だった。一六日には隣家の屋根の修理を手伝う算段をしていた。ところが、一六日未明の地震で二階屋の一階がつぶれた。わたしは一階に寝ていたので下敷きになった。体がはさまれたが幸い隙間があり、息子が声をかけて人を呼んできてくれて助けだされた。足の指のケガと身体のあちこちに打撲をうけた程度ですんだのは奇跡的だ」と語った。
 そして、「仕事の関係からこのあたりに断層があることは知っていたが、まさか自分の家がその上にあり、こんな目にあうとは思わなかった。いまは、人の家の軒先を借りて昼間は自炊をし、夜は車の中で寝泊まりしている。息子は田んぼにテントを張って寝ている」とのべていた。

自動車修理工場の夫婦の話
 布田の自動車関係の商売をしている夫婦の人の話を聞いた。
 夫人は「わたしは地元出身ではなく、ここに嫁いできた。ここにきて、あそこの山が二つに割れているのは明治の地震のときのもので、あの下を断層がはしっていると聞かされていた。今回の地震で山肌がむきだしになった。断層が帯のようにはしっている。この地盤の上で家をたてかえる勇気がない。
 東日本大震災のとき東北のことは他人事だったが、今回のことで地震の怖さを思い知った。ふだんから地震対策で防災のリュックをつくり鍵類などをいれていたが、ゴォーッという音がしてゆれ、ただ事ではないと外にとびだしたが、なにももちだせなかった。また地震がくるのではないかと不安があって夜寝れないことがある」と語ってくれた。
 夫は「一四日の一回目の地震はたいしたことはなかった。二回目の地震でとびおきたが、電気はすぐに切れ、真っ暗となり無我夢中で外にとびだした。警報がくる前にゆれたから直下型だと思った。逃げ出すとき割れたガラスのうえをはだしでにげたのだが、よくケガしなかったと思う。家の外に逃げたのだが、ガスの臭いがするので、爆発するかもしれないと思い、近所の人といっしょに村民グラウンドに逃げた。はじめに避難所となった西原中学校にいっていたが、食事は一人おにぎり一個の状態だった。
 行政にたいして思うのは確認・連絡体制がうまくいっていないことだ。支給品がいつくるのか分からない。役場の人たちも被災者だと思うが……。防災訓練を日ごろからやっているが、けっきょくパフォーマンスでしかなかったということだ。安倍首相が昨日(四月二九日)、被災地訪問にきたというがパフォーマンスで、被災地訪問の写真をとるのが目的ではないか。本当のことがわかっていない。川内原発はなぜとめないのか。今回の地震は大分の方にひろがっていったが、いつ南の方にいくともかぎらない。原発は地震がおきても自動的にとまらない。なぜ原発はとめないのか」と怒っていた。

住民のために奮斗する区長
 ある地区の区長さんはつぎのように語ってくれた。
   *   *
 この地域は八〇戸ほどあるが半分以上がつぶれた。みな一刻も早く復興したいのだが、罹災証明がでるのは六月だという。わたしは区長をしているので、きょう書類をもらってきて配布した。しかし六月ということに唖然とする。罹災証明がなければ補助をうけることができないわけだが、(被災した家屋の)写真だけでは判定できないということだ。もっと被災者の側にたち、法律やきまりを柔軟に対応すべきではないか。区長として役場と対応してきているが、このままでは住民が行動できない。行政の手続きがいろいろあると思うが、こちらがいわないと行政は動かない。
 区長としての責任がある。今回の地震で水源地からのライフラインパイプがやられてしまい、水道の復旧のメドがたたない。この地域には井戸があるので、二つの井戸を洗濯に使うことにした。コインランドリーもあるが、料金がばかにならない。また全自動の洗濯機はバケツで水をいれただけでは動かない(水道の水圧がいる)。だから二層式の洗濯機を二台さがしてきて設置した。避難生活が長くなると疲れがたまってくるし、年寄りのことも心配だ。
 安倍首相が被災地訪問できたが、この山の向こうだ。だれが連れていったのか知らないが、西原村で一番災害のひどいところに顔を見せずに、“けががなかったですか”とはなしかけるのはおかしいではないか。このことは地域で話になっている。
 今回の地震で川内原発が止まっていない。原発の安全について軽く考えているのではないか。今回の地震について『熊本地震』と報道されているが、熊本の地域的な災害ではなく九州全体にかかわる『九州大地震』だと思う。東北では津波でたくさんの被害者がでたが、地震だけで見ればこれまでにないものだ。地震で原発がやられたから大変なことになる。真剣に政府は考えるべきだ。
 米軍のオスプレイはこの上を二機飛んでいくのを見た。なにをやっているのか。本当に物資を輸送するならもっと方法があるだろう。政治家は何をやっているのか。

豚舎が崩れた養豚農家の話
 西原村は畜産も盛んだが、そこの畜産農家が被災した。養豚業を営んでいる農家の人はつぎのように実情を語ってくれた。
 「豚を二〇〇〇頭ほど飼育していたが、今回の地震で豚舎がみなやられた。一〇〇〇頭を買いとってもらい。業者の人の協力でいくつか豚舎を解体した。飼育のためには水が必要だが水が出ないので川から運んできている。水源地がやられているので水の問題を早く解決してほしい。
 豚肉は消費者が国産品をもとめるのでやってきた。TPPの問題もあるが農家にたいする政府のやり方は昔とおなじで“生かさず殺さず”だ。農業をやっていくのはたいへんだ。今回の被災でどれだけ国家補助がでるのだろうか。ともかく個人ではどうしようもない。近くの牧場は実情を訴えなければということはNHKを呼んで報道させていた」

仕事なくなり収入途絶える
 また、多くの人が被災してきわめて困難な状況におかれている。
 西原中学校の避難所にいる婦人(四八歳)は、住んでいたアパートがだめになり、みんなと協力しあってずっと避難所で過ごしているが、この先どうなるか不安になり、ゆうべもなかなか寝つかれなかったと語ってくれた。夫は病気で亡くなり、息子は外に出ている。婦人は一人暮らしでゴルフ場ではたらいていたが、ゴルフ場は閉鎖状態で再開のメドもない。ゴルフ場からの連絡もなくアルバイトをするわけにもいかず収入がない。命がたすかったのだから前を向いていくしかないが、メドがたたない。アパートも大家さんがどうするかわからないと、窮迫する生活のことについて語ってくれた。
 家の片付けをしていた小森の婦人は余震を心配しながら大切な荷物をだしているところだと語り、とりあえず体調の悪い母親は介護施設に避難させ、父や兄は破損のすくない倉庫や庭先にテントを張って寝泊まりし、昼間に片付けをしていると語ってくれた。
 この地域では多くの家に危険度を示す「赤紙」「黄紙」が貼ってある。住民からは家の片付けを手伝ってほしいのだが、ボランティアの人がきても「赤紙」「黄紙」の家にはいることができないといって帰ってしまうという。そのためけっきょく被災した人たちが自分たちや知人だけの片付けをしなければならなくなっている。なんとかならないのかという声があがっている。
 生活の復旧が急がれるのに安倍政府など上から下までの行政の対応がほとんどだめで、安倍政府などはパフォーマンスをやるのが目的といわんばかりで被災した人人の窮迫と怒りは大きくひろがっている。

南阿蘇村・立野地区
 今回の震災による南阿蘇村の被害では、土砂崩れによる阿蘇大橋の崩壊や東海大学学生アパートの倒壊した地区とその捜索については大きくとりあげられてきたが、阿蘇大橋の手前にある立野地区も大きな被害をうけている。この地域は、益城町、西原村から阿蘇・黒川につづく布田川断層帯にあるために多くの家屋の損壊と三人の死者をだしている。
 後片付けをしていた六〇代の男性によれば、家は形はのこっているがもう住めないのではないかという。立野地区の真ん中の道路沿いを中心に家が潰れたり、いたんだりしている。山の上に九州電力の発電所の貯水池があるが、地震で発電所がとまり貯水池にも亀裂がはいった。そのため貯水池の水が濁流となって放水路をどっと流れ、途中にある家一軒をおしながし一人が亡くなった。
 最初、立野小学校(廃校)の体育館が避難場所で、みんな避難したがそこもあぶないということで大津町(おおづまち)に避難し、いまはホンダの工場の避難所にいる。
 いちばん困るのは水がないことだ。この地区の水源は阿蘇大橋の向こう側にあるため土砂崩れで阿蘇大橋が落ち、水道用水のパイプもだめになった。それで水道水がこない。だからみんな大津町の避難所に避難し、昼間に後片付けにきているという。水道の復旧に相当かかるのではないかとはなしてくれた。
 その男性は「マスコミのヘリはこの上空をよく飛ぶが。ここにマスコミが取材にはほとんどこない。ここの被害も西原村とおなじくらいひどいと思う。マスコミは特定のところしか報道しない」と語っていた。
 別の年配男性二人と年配婦人も後片付けにきているが、個人の力では限界がある、国の力が必要だ、今回の地震で東北の人たちのきもちが少しわかった気がすると語ってくれた。そのうちの一人は、退職しているが六三歳で年金がまだもらえず、商売をしていたが地震でだめになり収入がない、安倍さんは被災地訪問にきたが見るだけだ、と語っていた。
 米屋を営んでいる婦人は「片付けのためボランティアを頼んでいるがこの地域は遠いということでこない。自分たちが復興をやらなければならないが、政府や行政はもっとしっかりしてほしい。東日本大震災での復興もままならないのに東京オリンピックどころではないだろう。今回の地震で阿蘇大橋が落ちた。うちの実家は大橋のむこう側だ。完全に分断されてしまった。あそこにはまだ行方不明になっている学生もいるし、橋再建には三年くらいかかるという。気力でがんばる」と語ってくれたが、みんなが困っているとき、人人の側にたって打開しようとしない安倍政府への怒りは、南阿蘇の立野地区でもひろがっている。