『人民の星』 
  6126号1面 2016年9月17日
第二次大戦の経験から 非戦斗の人々を
標的にした米軍機の機銃掃射 

 安倍政府は、アメリカのために戦争総動員をはかろうと必死になっている。そのために「中国の脅威」や朝鮮半島をめぐり軍事的な緊張をあおっている。戦争反対斗争を発展させていくうえで、日本人民の歴史的な戦争体験の発動はいっそう重要になっている。日本人民はかつての戦争をつうじて、「自由、民主、人権」をかかげたアメリカの凶暴な本性を体にきざんでいる。その一つに子どもをふくめた民間人を狙い撃ちし、追いまわした米軍機の機銃掃射がある。
 全国各地でひらかれている「原爆と戦争展」では、原爆投下と第二次大戦の真実をあばいたパネルが大きな反響を呼び、戦争体験者はけっしてわすれることができない体験を語り、戦争反対、原水爆禁止への思いをだしている。また安倍政府の戦争策動への怒りを語るなかでも、原爆投下や都市空襲、沖縄戦などのなかで、残虐な殺りくをやったアメリカへの怒りがだされている。

機銃掃射の鮮烈な体験
 米軍機に機銃掃射でねらわれた体験は鮮烈である。「わたしは小学生のころ戦争の真っただ中だった。家に帰る途中で、米軍機が機銃掃射をした。いそいで側溝にはいったが、その側をバラバラと機銃弾がはしる。生きた心地がしなかった」(山口)、「当時、熊本の山間部に住んでいた。そこにアメリカの戦斗機が山の稜線にそってサーッと急降下してきて機銃掃射をしてきた。パンパンパンとうってくるので必死になってにげた」(同)、「わすれられないのは通学の汽車が米軍から機銃掃射をうけたことだ。米軍機は機関士をねらう。暴走させて転覆させるためだ。デッキのわたしの前にいた女学生は足に弾があたり、足がふっとんで汽車からころげおちた」(佐賀)、「同級生の子が乳母車に三人の小さな弟や妹をのせて引いていたところ、艦載機から見えたのだろう、ねらうようにうたれ、同級生が死んだ。その母親は同級生をだきかかえながら“めがけてきた!”と泣きさけんでいた」(愛知)。
 機銃掃射の体験を語る人たちの多くが「パイロットのにやにやしている顔が見えた」などといっている。当時の日本軍は防空能力を失っており、米軍が制空権をにぎったもとで、子どもをふくめた民間人をねらったということである。

逃げる生徒を狙い撃ち
 今年六月に大阪市でひらかれた大正「原爆と戦争展」では、一九四五年六月七日の第三次大阪大空襲のさい、淀川沿いの旭区城北公園に避難した女学生など、一〇〇〇人以上が米軍の機銃掃射によって惨殺された体験が語られている。親子二代にわたり、私費で法要をおこなってきた東浦栄一氏(八七歳、当時旧制中学四年生)はつぎのように報告している。
 「近所の鐘紡などの軍需工場には大阪だけでなく四国などからも多くの生徒が勤労動員され、六月七日の大空襲でにげまどった生徒などが城北公園でP51ムスタング戦斗機の機銃掃射をうけるなど、一〇〇〇人以上の人人が亡くなった。ムスタングはB29の護衛機だが、米軍が完全に制空権をにぎり、護衛の必要がなく、低空を何回も旋回し、機銃をうちまくり、たくさんの方が亡くなった。
 自分たちは公園へにげるのがおくれて機銃掃射をまぬがれたが、それはひどい光景だった。はじめは遺体に付箋をつけて人数を確認していたが、遺体が木にささったりしてバラバラで、途中でそれもできなくなった。一〇〇〇人以上の遺体を淀川の河川敷で荼毘(だび)に付し、穴をほってうめた。
 戦後、(父が)庭石に“千人つか”ときざみ、堤防にひっそりとおいた。当時、反米とうたがわれるので、公然とは法要もできなかった。いらい、こんにちまで慰霊はつづけている。このようなことは二度とあってはならない。戦争にはぜったいに反対です」
 六月七日の大阪空襲は、硫黄島の米軍基地からB29爆撃機四〇九機、P51戦斗機一三五機が飛来し、爆撃と機銃掃射で約二八〇〇人が殺され、約六七〇〇人が負傷し、六万戸の家屋が被災した。三度目ということで大阪市民も爆撃の怖さがわかっていたにもかかわらず多数の犠牲者がでたのは、工場や市街地への爆撃からのがれ城北公園や淀川河川敷に避難した人たちを狙い撃ちしたからである。東浦氏は「頭をうちぬかれ、手足をとばされた人など、まるで地獄絵でした」とのべている。
 城北公園から近い長柄橋の下に避難した人たちにはP51が低空水平飛行して機銃掃射をくわえ四〇〇人が殺されている(本紙六一二三号既報)。

「千人つか」と刻み慰霊
 非戦斗の民間人を機銃掃射で狙い撃ちにした大量殺りくはあからさまな戦争犯罪である。戦後の米軍占領下では、広島、長崎への原爆投下や東京空襲などと同様に、東浦氏の報告にあるように公に慰霊することもできなかった。これを見かねた東浦氏の父親が敗戦の翌年に淀川の堤防に「千人つか」ときざんだ庭石をおき、みずからの手で慰霊をはじめたのである。
 現在、淀川河川敷にある慰霊碑には、小さな社と「千人つか」の庭石、「千人塚由来記」という石碑がある。「由来記」のなかには「訴うるに声無き無辜の国民の痛恨の空しく土に埋れ草に掩われて世に忘れ去られんを憂いて巷間の義人東浦栄二郎氏庭石に唯千人つかと刻して此処に置く 進駐軍治下と近畿地建の管理地なるを以てなり」とある。
 米軍による非戦斗の民間人の大量殺りくは、広島、長崎の原爆投下とともに、都市空襲の大きな特徴である。日本の敗戦が決定的になったのは、マリアナ沖海戦で日本海軍が壊滅的な敗北を喫し(一九四四年六月)、テニアン、サイパンなどマリアナ諸島を米軍が占領し、日本本土の大半がB29爆撃機の攻撃範囲にはいったときである。米軍は一九四四年一一月からマリアナ諸島からの本土爆撃を開始し、一九四五年三月の東京大空襲から都市部の民間人を標的にした低空からの大量の焼夷弾によるじゅうたん爆撃をおこなっている。
 都市空襲を指揮した米軍司令官ルメイは作戦文書のなかで「これは市民にたいする無差別爆撃ではない。重要産業、戦略目標への攻撃である」といい、戦後の回想記では「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。木と紙でできた民家の一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけてなにが悪いのか」といなおっている。

機銃掃射で反抗くじく
 米軍は非戦斗の民間人を標的にしたことについて「士気阻喪攻撃」   戦争をはやくおわらせるために戦意をくじくためだったなどといっているが、事実はことなる。米軍は戦争当所から、日本を中国などアジア侵略と対ソ包囲の拠点として支配下におこうとたくらみ、その支配のために天皇や独占資本などを手下にする計画をもっていた。だから米軍は皇居や三井、三菱などの財閥の建物や工場を爆撃の標的からはずした。米軍は日本人民への支配のために、アメリカや日本の反動支配階級に反抗する意志をくじくために、都市部のじゅうたん爆撃や、機銃掃射での民間人の狙い撃ちをやったのである。
 日本各地で列車が機銃掃射の標的になっているが、これも民間人を標的としたものだった。米軍は日本の鉄道網が大小の鉄橋にささえられており、脆弱(ぜいじゃく)であることを熟知していた。米軍は戦後の利用をもくろみ、列車に機銃掃射をくわえたり、駅を爆撃することがあっても、復旧が困難な鉄橋やトンネルを爆撃で破壊することはしなかった。
 岩国では日本海軍の滑走路は爆撃せずに掩体壕や周辺の民家を攻撃し、住民が機銃掃射の標的にとなった。戦後米軍は岩国に基地をおき朝鮮侵略戦争の出撃基地とした。

爆撃の効果詳細に調査
 米軍は日本人民にたいする「士気阻喪」攻撃がどのような結果をもたらしたか、戦後詳細に調査した。米軍は対日占領後、戦略爆撃調査団を日本におくり、対日爆撃について詳細な調査をおこなっている。
 戦略爆撃調査団は、東京に本部をおき、名古屋、大阪、広島、長崎に支部をもうけた。その陣容は文官三〇〇人、将校三五〇人、下士官五〇〇人という大規模なもので、そのもとに日本人をやといいれた。研究は、軍事研究部、経済研究部、民間研究部の三部門にわかれ、民間部のもとに戦意部をおき、爆撃した都市で聞き取り調査をおこない「戦略爆撃が日本人の戦意におよぼした効果」という報告書をだした。
 福岡県の民間グループが報告書について調べ出版しているが、聞き取り調査は福岡市とその近郊で七四人におよんでいる。そのなかには「戦時中、戦争の指導者のやり方にどう思いましたか」「戦争に負けると、いつからはっきり思いましたか」「日本が降伏したことを聞いてどう思いましたか」「戦時中、空襲をしたアメリカ軍のことをどう考えていましたか」「空襲でこわかったのは昼ですか、夜ですか」「焼夷弾と破裂弾のどちらがこわいですか」「原子爆弾のことをどう思いましたか」「進駐軍司令部のとっている方針についてどう思いましたか」「天皇陛下をどう思いますか」などがあった。
 米軍は広島、長崎への原爆投下、被爆が、身体にどのような傷害をもたらしたかをしるために原爆傷害調査委員会(ABCC)をもうけ、被爆者の調査を詳細におこなった。都市爆撃でも日本人民の意識までふくめて、大量殺りくの影響を詳細に調査したのである。

米日政府は慰霊許さず
 アメリカとその指揮下の日本政府は、被爆や都市爆撃の実際をおおいかくし、まともに慰霊することさえゆるさず、第二次大戦を「ファシズム対民主主義」の戦争としてえがき、アメリカによって日本が軍国主義から「解放」され、「民主化」されたと宣伝してきた。現代修正主義におかされた当時の日本共産党指導部も、米占領軍を「解放軍」と規定した。
 かつての戦争によってどのような犠牲をうけたか、アメリカはいったいなにをやったかなど戦争の真実は、戦争体験者をはじめとする日本人民のたたかいによってあきらかにされ、「自由、民主、人権」をかかげたアメリカ帝国主義の凶暴な本性があばかれてきた。
 二〇〇〇年代から全国でくりひろげられてきた「原爆と戦争展」は戦争体験者のほんとうの声を引きだし被爆や都市爆撃、沖縄戦などの真実をあきらかにするうえで大きな役割をはたしてきた。
 アメリカはかつての戦争と同様に、アフガニスタンやイラク、シリアなどで人民を標的に殺りくをくりかえしている。B29やP51が米軍の最新の戦斗機や無人機にかわっただけで、やっていることはかわらない。
 力を低下させたアメリカが生き残りをはかるために、安倍政府を動員し戦争をたくらむなかで、日本人民の歴史的な戦争体験を発動し、かつての戦争の真実をあきらかにし、アメリカ帝国主義の凶暴な本性をあばきだすことは、原水爆禁止、戦争反対斗争を発展させていくうえでカナメの問題となっている。