夜な夜な現れて美女の血を吸う、吸血鬼ドラキュラ。吸血鬼としてのドラキュラは小説の中の話ではあるが、この吸血鬼のモデルとなったのはれっきとした実在の人物である。

名前をブラド・ツェペシェ公爵と言い、つけられたあだ名は「串刺し公」。歴史上でもかなり残虐性が目立った人物である。
彼の異常なまでの残虐性は、例えば1464年、当時、ハンガリーに駐在していたローマ教皇の使節ニコロ・モドルシエンセがバチカン宛に送った報告書の中にも見ることができる。


「反逆者の処刑の方法であるが、ある者は裸にされて生きたまま、内臓が見えるまで皮や肉を剥(は)がれ、またある者は真っ赤に燃える炭火の上であぶり焼きにして殺された。

またある者は、頭や胸、尻、あるいは腹の真ん中など、場所を問わず串刺しされ、ある者は垂直に立てた杭に肛門から突き刺され、その杭が口から飛び出していた。」


このような処刑を行ったのはこの時が初めてではない。その8年ほど前にも同じようなことを行っている。ある日ブラド・ツェペシェ公爵は、自分の城に地元の貴族を数百人招き、彼らに色々と問いかけをしている最中、自分の質問に対して数人の貴族がバカにしたような笑いを漏らした瞬間、公爵は右手をあげて部下に合図を送った。

すると公爵の部下が広間になだれ込んできて500人以上の貴族がその場で引っ立てられ、宮殿の中庭で串刺しの刑に処された。


1459年には家臣をつれて丘の上で宴会を行ったが、その宴もたけなわのころ、ちょうど宴の席を囲むように地面と垂直に杭を立てさせた。杭の先端はもちろん鋭く尖っている。

そこへ反抗的なザクセン人を連れてきて、その杭に尻から突き刺し、全員を串刺しの刑に処したのである。その時ツェペシェ公爵はワインを飲みながら肉を食べ、血の匂いとその光景を楽しんでいたという。


ツェペシェ公爵は戦いにおいても数々の敵を撃破した指揮官でもあったが、彼の最後はやはり戦場で命を落とすことになる。

1476年、トルコ軍と戦っていた時、ツェペシェ公爵はブカレスト郊外の戦場でトルコ兵に化けていた。
おそらく敵を欺くための戦略であったのだろうが、その戦略が仇となり、自分の部下たちに発見されて何人もの部下に襲いかかられ、あっという間にズタズタに突き刺されて無残な屍(しかばね)と化した。

これまで自分が処刑してきた人間によく似た死に様で最後を迎えることになったのだ。


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