▼戦後の飢餓で娘を喰う

▼事件発覚 (人物は仮名)

昭和20年8月5日、終戦間近のこの日、群馬県は前橋を中心に大空襲を受け、死傷者1万人を出すという大被害を受けた。この後間もなくして、8月14日のポツダム宣言、9月2日には無条件降伏文書に調印となり、戦争は終結する。

そして終戦から約2ヶ月経った昭和20年10月下旬、群馬県のある村。

ここで巡査をしている可部巡査は、ある日、この村の戸籍調査を行っていた。

先日の大空襲で死亡した者や別の土地に避難した者など、村の住人たちの状況がよく分からなくなっており、不明な部分を調査していたのである。

この村は人口数十人の極めて小さな村で、数軒ずつの集落があちこちに点在している村だった。村での生活は貧しく、戦争の影響で食べ物もほとんどない。それぞれの家も崩れそうな家ばかりで、まともな家にすんでいる人はいなかった。

順次各家庭をまわって、可部巡査は県境に近い、一番端の集落を訪れた。そしてこの村の中でも、一番ひどい家に住んでいる中村家を訪ねた。

今にも崩れそうな家で、狭くて汚く、異様な臭いが漂(ただよ)うこの家には、中村夫婦2人と5人の子供が住んでいる。

主人の勲(いさお 53)、妻の茂子(33)、そして5人の子供は、勲(いさお)の連れ子が3人・茂子の連れ子が1人、勲と茂子の間に出来た子供が1人という複雑な家庭であった。

可部巡査が中村家のそれぞれの人物を確認してみたが、1人足りない。
勲(いさお)の連れ子であり、長女である和美(かずみ 17)がいない。

「和美はどうした?」と可部巡査が茂子に聞く。

「前橋が空襲に遭(あ)った時、たまたま前橋の親戚の家に行ってて、空襲で死んじまった。」

と、茂子は答えた。

「そうだったんか・・。」いったんは納得したものの、可部巡査は一応、念のために付近の住人に和美のことを聞いてまわってみた。

「中村の家の和美、どこへ行ったか知らねえか?」と聞くと、

「そういや、冬くらいから見てねえな。」という証言がいくつかあった。

茂子が言うには8月5日の空襲で死んだという。だが、他の者が言うには、その前の冬から見ていないと言う。話が食い違う。

不審に思った可部巡査は再び茂子を問い正してみた。

「和美は冬からいねえらしいじゃねえか。お前、ウソをついてるな! 和美はどこへ行った!」

怒鳴るように尋問すると茂子は

「く、食っちゃった・・。」と答えた。

「食ったって何を食ったんだ?」

「和美を食っちゃった。」

茂子はここに至って、和美を殺害し、その肉を家族で食ったことを自供した。


▼犯行に至るまで

茂子は知的障害者であり、22歳で結婚したが、23歳で離婚されている。十分に言葉のやり取りを行うことが出来ず、内職も満足に出来なかった。

そして主人である勲もまた、知的障害者だった。簡単な日雇い仕事しか出来なかった。両親がこのような状態だったため、一家は常に極貧状態だった。中村家は、この時代においては珍しいと言われる、生活保護を受けていた。

そして殺害された和美もまた、重度の知的障害者だった。和美は人と会話することもあまり出来ず、一日中、家の中で座って日々を過ごしているような状態で、風呂に入らないせいもあり、その皮膚には垢(あか)がこびりついて皮膚が茶色くなっていたという。

事件が起こったのは、昭和20年2月26日。

この当時、中村家の食料事情は限界まで来ていた。家には食べるものはほとんど残っておらず、近所の人に頼んで野菜を分けてもらって日々をしのいでいた。

この日の朝、茂子が起きて、子供たちと一緒に朝ご飯を食べようと、ナベのフタを開けると、昨日作っておいた味噌汁がカラになっていた。

この味噌汁は最後に残っていた大根で作ったもので、これが本当に最後の食料だったのだが、主人の勲(いさお)が仕事に行く前に全部食べてしまったのだ。勲は知能に問題があり、他の者のことなど、考えることが出来ない人間だった。

茂子は愕然とした。また近所の人に食べ物を分けてもらうといっても、最近では

「うちも苦しいからねえ、もうこれ以上あげるわけにはいかないよ。」と、よく断られている。

さらに、以前、茂子や和美が近所の家や畑に忍び込んで食べ物を盗んでいたこともバレており、非常に頼みにくい雰囲気にあった。

やがて子供たちが次々と起きてきた。「かあちゃん、腹減った。」と子供たちが言うが、食べさせてやるものは何もない。茂子自身、二日間何も食べてない状態だった。

最後に和美が起きてきて、また同じようなことを言った。

「腹減った。何かねえかよお。」

空腹でただでさえイライラしていた茂子は、この瞬間キレた。

和美以外の4人の子供を「外で遊んで来な。飯はもうちょっと待ってろ。」と、家から追い出し、和美と2人きりになった時、茂子は和美に襲いかかった。

ちょうど床の上に横になっていた和美の上に馬乗りになり、頭をつかみ、枕に顔を押しつけた。
「お前が死ねばいいんだ、お前が死ねば!」

「かあちゃん、やめて!」

と和美は抵抗するが、茂子は手を緩めることはなかった。足をバタつかせていた和美だったが、30分くらいでぐったりして動かなくなった。窒息死だった。

和美が死んだのを確認した後、茂子はノコギリと包丁で和美の死体の解体を始めた。

首を切断し、腹を切り開いた。頭や足先、腸などはバケツに入れてとりあえず隠しておいて、夜になってから庭に埋めた。

胴体と手足の肉は細かく切り刻(きざ)んで、囲炉裏(いろり)にかけたナベの中に入れ、よく煮込んだ。味付けには塩と醤油を使った。


やがて遊びに行かせていた子供たちも帰って来て、家族で食事の時間となった。

「今日のメシは肉のナベだど。」茂子が言うと、「肉だー。」「肉なんて久しぶりだべ。」と、子供たちも大喜びであった。

「かあちゃん、これ牛肉か?」と子供に聞かれ、茂子は

「いや、牛肉じゃないが、ヤギの肉だべ。牛肉よりもヤギの方がよっぽどうめえど。」

と、ごまかした。久々のぜいたくな食事であったが、その中で、主人である勲だけは何かうかぬ顔で食が進んでいなかった。

「あんた、どうしたん?食べんの?」茂子が聞くと、

「今日はちょっと腹の具合が悪くてな。」

と、結局肉には手をつけなかった。勲だけは、この肉の正体が分かっていたのかも知れない。

家族そろっての食事であるが、当然、和美がいない。

「和美はどこかへ行って行方不明になったみてえだ。」と茂子が説明すると、家族はそれで納得し、別にそれ以上追及されて聞かれることもなかった。おおざっぱな家族であった。

大量の肉は、一回で食べ切れるはずもなく、翌日もその次の日も肉ナベは続いた。その間、茂子は近所の人にもこの肉を配って歩いている。

近所の人には「猫の肉ですが、よかったらどうぞ。」と言って渡した。

事件が発覚した後、この人肉をもらった人の所へも記者が訪れてインタビューをしているが、それによると、

「もらった肉を鍋に入れて煮たらすごい脂(あぶら)が出てきて泡もすごかった。」と証言している。

食べたのかどうかを聞くと、ノーコメントだったという。この当時の食糧事情を考えると、多分、何軒もの家で食べられたものと推測出来る。

茂子は逮捕され、殺人罪で起訴された。判決は懲役15年の実刑判決だった。弁護側は、被告の知能が低く、刑事責任は問えないと主張したが、無罪とはならなかった。
茂子が昭和30年代に刑期を終えて出て来た時、夫である勲はすでに死亡していた。

▼死体の肉を食う日本での風習

上記の事件のように、人間を殺して肉を食うのは犯罪であり、殺人と死体損壊の罪に問われる。

しかし、過去の日本において、極限の飢餓状態の中で、すでに死亡した人間の肉を食って飢えをしのいだという例はいくつも残っており、例えばそれは江戸時代の大飢饉の時であるとか、戦時中、補給物資が絶たれた時であるとか、山での遭難や海上での漂流などの場合である。

これらの多くは、飢餓による緊急避難とみなされ、罪に問われない場合が多い。だが極限の飢餓状態ではないにも関わらず、この日本でも、自然死した人間の肉を食うという風習は、明治時代のあたりまで残っていた。

これは別に明治時代の日本人が人食い人種だったという意味ではなく、当時は主に薬としての効果を期待して死体の一部を食べていたのだ。

その一部がかつて新聞でも紹介されている。


▼変わった食文化を紹介するコーナー「諸国悪もの食ひ」

明治40年(1907年)の、9月から10月にかけて、東京朝日新聞(現・朝日新聞)で、「諸国悪もの食ひ」という小さなコーナーが30数回に渡って連載されていた時期があった。

これは日本各地の変わった食べ物を紹介するコーナーで、虫などを食べるような、いわゆるゲテモノ食いの食文化を紹介するコーナーだった。

その中において、人間の死体を食うという記事がいくつか掲載されたことがある。


●「脳味噌(のうみそ)の黒焼き」 <東京・日暮里>

梅毒患者には大の妙薬という迷信で今も行われている。ことに人骨をからめると、もっとも効き目があるとして、ずいぶん火葬場の骨揚げの時にモリモリやらかす者がある。

(明治40年10月7日)

明治時代まで、難病に対する治療薬として人間の臓器や脳を食べると効果があると信じていた者は多く、火葬場に死体や骨を求めて訪れる人も結構いたらしい。

もちろん、その効果が医学的に証明されていたというわけではなく、ただの迷信であるが、昔のことゆえ、「人間の死体は薬になる。」という考え方が発生したのも自然の流れかも知れない。


●「火葬場の焼餅(やきもち)」 <東京>

内緒で火葬場へ頼んで、大きなお供え餅を(死体と一緒に火葬場の中で)蒸し焼きにしてもらう。

これは難病に効験があるという迷信から来たものだ。

餅にはすっかり脂(あぶら)が染(し)み込んで(これは人間の死体の脂である)、ちょっと変てこな臭いがするものだ。

(明治40年10月9日)

死体を焼く時に、餅を一緒に入れて焼いてもらう。当時の火葬は、現代ほど強い火力で焼いていたのではなく、普通の焚(た)き火を燃やすようにして焼いていた。

餅を、死体の脂が十分染(し)み込むように置いておき、そろそろ食べ頃になったと思った時、取り出して食べる。

火葬場の職員に協力してもらわなければ出来ないことで、職員にはちょっとしたお金を渡しておく。職員にとっても小遣い稼ぎにはなる。

難病とは結核などを指し、これは当時の難病だった。この死体の脂入りの餅は、結核を始めとする、肺病に効果があると信じられていた。


●「乾(ほ)した人膽(にんたん)」 <東京>

人膽(にんたん)は精力を増すという古来の伝説を信じて、幕府(江戸幕府)時代には盛んに行われたのだが、今でも内々乾燥したやつを売買している者がある。

その価格は一個何百円(現在では何十万円)というもので、昔首斬り役を務めた何某家には、まだゴロゴロ保存されているという。

(明治40年10月14日)

人膽(にんたん)とは肝(きも)のことで、すなわち肝臓のことを指す。乾(ほ)した人膽(にんたん)とは、人間の肝臓を乾燥させたもののことである。

江戸時代に首斬り役を務めた家とは、山田浅右衛門の家と推測される。山田浅右衛門は、処刑された罪人の死体で、新しい日本刀の試し斬りをするという仕事をしていた。

山田は死体から肝臓を取り出し、軒先に吊るして乾燥させ、これを適度に分けて「人胆丸」という薬として販売していた。

この薬は当時、正当な薬として認められており、山田家はこの商品の販売で巨大な富を築いていたという。


●「死人の脂(あぶら)」 <周防(すおう) = 山口県>

死人の脂が肺病患者のような疲労を感じる病に効験のあるということは古い伝説だが、周防(すおう)で新吉という男がコレラ患者の焼場(火葬場)へ忍び込んで、死体の脂を取ろうとしてところを、(見つかって)取り押さえられて、えらい評判となった。

新吉は心臓病を患(わずら)っていたそうである。

(明治40年10月15日)

東京での話が多い中、これは珍しく地方の話である。死者の身体が薬になるという考えは首都圏だけでなく、地方にも広まっていたようである。

またこの他にも、「骨壺の底にたまった水を飲ませると肺病に効果がある。」という言い伝えもあった。
明治政府は明治3年(1870年)から、肝臓、脳髄、陰茎(男性器)などの密売を禁止する布告を行っていたのだが、闇での売買は後を立たず、死体の一部を食べるという風習が明治40年ごろまでは残っていたということから、この布告はあまり効果がなかったようである。

時代が大正を経て昭和に入っても、死体は万病に効くという言い伝えを信じる者はおり、昭和40年代ごろまで、土葬された死体を掘り起こして内蔵を盗む者がいた。

肝臓を焼いてから高値で販売する者、身内の病人のために死体の一部を盗んで食べさせてやった者など、これらは見つかり次第逮捕され、新聞で報道されたものもある。

▼人間を食べることによって発生する病(やまい)

2004年3月31日の毎日新聞に、パプアニューギニアの不治の病「クールー病」についての記事が掲載されたことがある。

それによれば、パプアニューギニアの高地に住んでいるフォア族という民族では、かつて「クールー病」という病気によって、数千人が死亡していた時代があったという。

クールー病とは、手足が震え、方向感覚を失って歩けなくなる病気で、言語障害や痴呆になり、意識を失うこともある。約1年で死に至るという不治の病である。

この病気の研究に40年以上携(たずさ)わっている、マイケル・アルパース教授の調査によれば、クールー病の原因は、フォア族の風習である「人肉食」に深く関わりがあるという。

フォア族では、死者が出た場合、葬儀の参列者は死者の魂を慰(なぐさ)めるために死体の肉を切り刻み、それをバナナの葉に包んで焼いて食べるという風習がある。その際、女性と子供は脳と内蔵を食べることになっている。

教授の調査によれば、1957年以降クールー病で死亡した者2500人のうち、その80%は女性だった。そして18%は子供であり、成人男性は2%しかいなかった。

1950年代、この地を統治していたオーストラリアがフォア族に対し、人肉食をやめるように命じ、1960年以降、この人肉食の風習は消滅した。

そしてそれ以降、クールー病による死者はどんどん減っており、「人肉食とクールー病との因果関係は明らかだ。」と教授は語っている。

しかし、人肉食の風習が消滅して50年以上経っても、まだクールー病による死者は年間1人か2人はおり、この病気の潜伏期間は5年から50年と考えられている。


▼クールー病と狂牛病

クールー病の症状は、かつて問題になった狂牛病(牛海綿状脳症)に極めてよく似ていると言われる。

狂牛病ウイルス(BSE)に感染した牛の肉を人間が食べると、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病になる。

この病気は潜伏期間があり、その後、視力障害が起こったり認知症になったりなど、脳の機能に障害が起こり、1年から2年で死に至る。

狂牛病の発生要因は、牛の骨や牛肉を粉にしたものを飼料に加え、それを牛に食べさせたことにある。つまり牛に牛を食べさせたわけである。

牛が牛を食べれば狂牛病、人間が人間を食べればクールー病と、同種族で共食いをした代償は、脳の機能障害から死という点で共通している。両者共に治療法はまだ見つかっていない。


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