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月に機会があったので、またまた小旅行へ臥龍会会員と出かけました。今回は、私の強い希望で「大内家」関係を巡ってもらいました。
最初に訪れたのが、山口市の臨済宗常栄寺にある「
雪舟庭」。この日は、雪の後だったので、また違った趣がありました。以前に違う場所でも雪舟作と伝えられる枯山水を見たことがあるのですが、この時は、「なんじゃこれ!」って感じの庭でした。しかし、今回の「雪舟庭」は違う。資料を見ると、常栄寺は、大内政弘(義隆の祖父)の父、教弘の開基、政弘の母の墓所があり、一説には、政弘の別荘であったとも言われているらしい。政弘の要請で雪舟が造ったこの「雪舟庭」は、大正15年2月24日に、国の史跡および名勝に指定されている。この「雪舟庭」から、山頂へ小道が続いており、山頂には毘沙門天の御堂もあった。途中には、火事にあった仏様も安置されており、なんと御苦労な目にあわれたなぁ、とビックリ。それから、常栄寺の本堂には雪舟の画像などが吊り下げられていましたが、こんな感じで状態良く保存できるのか?と少し不安に思いました。次に訪れたのは、大内氏館跡の曹洞宗龍福寺。私の今回最大の目的地。資料によると、この龍福寺は、大内氏滅亡後、毛利隆元が後奈良天皇の綸旨を賜って、大内氏館跡地に建立し、義隆公の菩提寺とした、とある。以前の本堂などは火災で焼失したが、「
山門」と禅堂は隆元建立のものである。義隆公は、周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸・備後の七カ国の守護を兼ね、官位は従二位まで昇進したので、各国からの来客も多く、その客をもてなすために、豊後から庭石を運ばせ広大な庭園を築いていた。しかし、この豊後岩は、雨の夜になると豊後を恋しがり、「豊後に帰りたい」といって泣いたといわれている。また、境内からは金箔の塗られた大内瓦などが出土し、当時の栄華をしのばせている。年末で観光客も少なかったので、静かな境内を見ていると、夢の跡って感じでした。資料館には、義隆公七回忌に隆元が描かさせた画像などもあり、興味は尽きない。さて、車は西へと向けられ、治乱興亡は世の常なり………義隆公最後の地、曹洞宗「
大寧寺」へと向かった。以前にも訪れたことはあるが、私はこの大寧寺が好きである。辺りの雰囲気がとてもいい。義隆公は、陶晴賢の謀反により、九州(一説には島根方面)に逃れようと沖合いに出たが、波風が高く引き返してこの大寧寺に入った。尾羽を打ち枯らされた義隆公、水を飲まれようとしたか、顔を洗われようとしたかで「井戸」をのぞかれた。すると、そこには自分の首が映っておらず、翌日敵勢に押し寄せられ、覚悟を決められ自刃なさった。義隆公主従の墓所へ参ると、「義隆公の御墓」の前に奇妙な箱を見つけた。中を開けてみると、義隆公ノートなるものが入っていた。ここへ訪れた人がいろんな事を書くノートであった。義隆公は戦国時代きっての文人であったので、受験祈願などがあるのは解かるが、「彼氏とうまくいきますように………」って、テメー何しに来おった!!………っと、失礼しました。しかし、何にせよ、450年近く経つ今でも訪れる人がいるので、義隆公もさぞ嬉しいことであろう。さて、墓所を離れ、帰る途中に掃除をしているおばちゃん達に会った。「こんにちはー。」と声をかけると、「今朝きれいにしたばっかりじゃけぇ、きれいになっちょるじゃろぅ。」とのこと。こういう地元の人とのふれあいが、また小旅行での楽しみでもある。今度は東へ、広島方面へと車は向かった。本でいろいろ探してみると、厳島合戦で毛利の本陣となった桜尾城の跡が目に付いたので行ってみた。廿日市のそこは現在、桂公園と呼ばれており、城跡の碑は在ったものの、単なる公園でしかなく、がっかりだった。
そして、次に目に入ったのが、義隆公を討った「
陶晴賢の首塚」が在ると書いてあった、洞雲寺。すぐに直行!………さて、陶晴賢も厳島合戦で勝っていれば、謀反人の汚名を何百年も着続けることは無かったはず………。所詮、勝てば官軍なのである。西国一と言われた晴賢の無念を感ぜずにはおれない。ところで、この洞雲寺は、毛利氏の保護を受けたらしく、元就の四男、「元清の墓」も在った。なんと皮肉なことであろうか、討った者の子の墓と、討たれた者の首塚が同じ寺に在るとは………。しかし、寺を挟んで左右に分かれていたのがせめてもの救いであろう。さて今回も、西へ東への大移動小旅行でありましたが、なかなか楽しく、また興味深くいろんなものを感じることができました。同じ場所でも、また違った見方もできるし、とにかく史跡というのは訪れてみるべきところだと思います。皆さんも、どこどこへ行ったなんてのを教えてくださいね。