龍虎狗の巻

 

この巻を生かすも殺すも貴殿しだい。

中国四千年の歴史は決して負けない。

 

壱・「一国には二君を容れず」

一国には二人の君主は並存できません。

「三国志蜀書・黄権伝」

弐・もし聖人の堯でも、ありきたりの人民だったら、三人の人間も治めることはできないだろうが、  暗君の桀は天子であったから天下を乱すことができた。してみると、権勢・地位こそ頼みとすることができるもので、徳や知恵などは憧れるに足らないものであることがわかる。

「韓非子」

参・将軍には仁将、義将、礼将、智将、信将、歩将、騎将、猛将、大将の九つのタイプがある。

  仁将………徳と礼をもって部下に接し、飢えや寒さ、苦労を部下とともにする。

 義将………強い責任感をもち、その場しのぎをいさぎよしとせず、名誉のためには死をも顧みず、生きて辱めを受けようとしない。

 礼将………地位が高くても傲慢にならず、敵に勝っても得意がらず、謙虚にへりくだり、正直でがまん強い。

 智将………臨機応変、いかなる事態にも対応でき、わざわいを福に転化し、危機にのぞんでもよく勝ちを制することができる。

 信将………信賞必罰をもって部下に対し、賞するに時を失せず、罰するに貴人を避けない。

 歩将………軍馬より速く走り、意気高く、よく国境を固め、武器の使用にたけている。

 騎将………騎馬と弓に長じ、高い山、けわしいところもものとせず、作戦時にはまっさきに進んで敵にあたり、退却時にはしんがりをつとめて全軍を守る。

 猛将………その意気は三軍を圧倒し、強敵にたじろぐことなく、小さな戦いには慎重であり、強大な敵に遭遇すれば、ますます闘志をかきたてる。

 大将………すぐれたものは丁重に迎えいれ、他人の勧告や意見をよく受け入れ、寛大で剛直、勇敢で機略に富む。

「将苑(心書)」

四・「老子」は、同じ指導者といっても、いくつかのランクがあるとして、次のように分けている。

 「太上は下これあるを知る。その次は親しみてこれを誉む。その次はこれを畏る。その下はこれを侮る」

 太上とは、最高のあり方という意味である。指導者たる者の最高のあり方は、部下から見て、その人がそこに座っていることは承知しているが、格別、偉いとも素晴らしいとも意識されないような自然流の存在の仕方だというのだ。その次のランクは、部下から敬愛され、親近感を抱かれるようなあり方。第三のランクは、部下から恐れられる指導者。だが、それではかなりレベルの低い状態であるという。指導者として最低なのは、部下からバカにされる場合で、こうなるともはや指導者失格といってよいだろう。

「中国古典の人間学」

五・君主には上・中・下の三つのランクがある。下ランクの君主はひとりの能力を出しつくす。中ランクの君主は臣下の体力を出しきらせる。上ランクの君主は臣下の知恵を出しきらせる。

「韓非子」

 自分で「する」よりも、人に「させる」ことが必要な場合がある。自分で「する」のが必要なことはなにか、人に「させる」べきことはなにか、自分の立場からして、その区分をはっきりと把握しなければならないのである。能力のある者ほど、人のすることが見ていられず、ついついやってしまう。その結果はどうか。

 第一に、自分だけが忙しくキリキリ舞いをして疲れてしまう。

 第二に効率が悪い。ひとりでできることには限りがある。

 第三に周囲はやる気を失ってしまう。

 そして第四に、いつまでたっても人が育たない。

「中国古典の知恵 人を動かす15の極意」

六・一人の力は大勢の力にかなわない。一人の知恵ではすべてのことに目が届かない。一人の知恵と力を使うよりも、国中の知恵と力を使う方がよい。一人の考えだけで事を処理すれば、たまたま成功するにしても、ひどく疲れる。うまくいかなかったら、目もあてられない。

「韓非子」

七・名君は臣下の協力を求めるが、暗君は、すべてを一人でやりたがる。名君は人材を大切に使って成功を勝ち取るが、暗君は人材を妬み、遠ざけて、せっかくの功績を台なしにしてしまう。

「荀子」

八・「下問に恥じず」

  目下のものに何かたずねることを恥としない。

「論語」

九・「語言少なく、よく人に下り、喜怒は色に形わさず」

  口数は少なく、謙虚で、感情をやたらと表情に出さない。

「三国志蜀書・先主伝」

拾・「笑語を好くし、性は闊達聴受、人を用うるに善し」

  よく冗談を言い、あけっぴろげで、よく人の意見を聞き、人の使い方も上手であった。

「三国志呉書・孫策伝」

拾壱・「悪、小なるをもってこれをなすなかれ。善、小なるをもってこれをなさざるなかれ。ただ賢、ただ徳、よく人を服す」

 悪は、たとえわずかでも行ってはならぬ。善は、たとえわずかでも行われなければならぬ。人を動かすのは、おのれの賢明さと人格の二つであることを忘れるな。

「三国志蜀書・先主伝」

 拾弐・「士は以って弘毅ならざるべからず」

     人の上に立つ人物というのは、広い視野と強い意志力、この二つを持たないとつまらない。

「論語」

拾参・昔の賢者はまず自分の人格を磨くことによって人びとを指導した。しかるに今の指導者は、             自分の人格は棚に上げて指導者面をしているだけである。 

「孟子」

拾四・太公望は、将たる者の条件として、勇、智、仁、信、忠の五つの条件を挙げている。

勇とは、勇気とか決断力といった意味で、これがあれば断固として行動するから、敵の侮りを受けることがない。

智とは、洞察力とか判断力のことだ。智があれば、確かな判断の上に立って行動することができ、敵につけ入る隙を与えない。

仁とは、思いやりの心である。

信とは、嘘をつかないこと。部下の信頼を集めることができるのは、ひとえに将に信あればこそである。

最後の忠とは、忠実とか忠誠という意味で、これがあれば上の者の信頼を得て、仕事を任せてもらうことができる。

「続中国古典の人間学」

拾五・「孫子」は、リーダーの条件として、次のような五つの条件を挙げている。第一は「智」、第二は「勇」、第三は「信」、第四は「厳」、第五が「仁」である。

まず、「智」。よく読みが深いというが、あの状況を読む力が「智」である。言葉を換えれば先見力と言ってもよい。

次は「勇」。つまり勇気、あるいは決断力と言ってもよい。

第三は「信」である。この言葉の意味は、嘘をつかない、約束を守るということである。平気で二枚舌を使うようなリーダーには、部下はついてこない。それでは部下の心を捕えることができないからだ。

「厳」というのは、厳しい態度、すなわち信賞必罰で部下に臨むということだ。しかし「厳」だけでは、命令に従わせることはできても、心服はされない。「面従腹背」という事態がしばしば起きてくる。そこで必要になるのが「仁」であるというのが「孫子」の考え方だ。

「仁」という言葉はなかなか説明しにくい言葉だが、平たく言えば思いやりという意味である。相手に理解を示すこと、相手の立場になって考えてやること、と言ってもいいだろう。

ただし、「仁」だけで「厳」がないと、組織に甘えの構造を生む。馴れ合いを生じ、組織に締まりがなくなってしまう。そうならないためには、「仁」で部下に接しながら、一方で「厳」を貫く必要がある。要するに、「仁」だけでも、「厳」だけでもいけない。「仁」と「厳」のバランスをどう保つかが、部下に臨むリーダーの心得だと「孫子」は語っているのである。

「中国古典の人間学」