お題8番

08. 契約

 最近はネット上でも契約は簡単に出来るようになったが、このご時世、どうも電子世界での約束事はいまいち信頼が持てないのもまた事実だ。折角の文明を使わない上に蔑ろにしてしまうのも罰当たりではあるが、今回の契約については無理を言って書面上での契約にしてもらう事にした。
 その会社はウェブサイトで商品の売買を行っている。『巷では普段手に入らないものを取り扱っています』という、何ともまぁ有り触れた文句についつい誘われてしまい、辿り着いたのが運のツキだった。
 成る程、面白い。一目で虜になってしまった。あまりにも斬新な商品ばかりが並んでいると、不景気で硬くなってしまった財布の口も弛まずにはいられまい。柄には合わないとは思いつつも、僕もそこの商品を衝動買いした。量が量だった為に、こちらの書面上での契約という無理なオファーも快諾してくれた。
 そして、今に至る。
 「ではお客様。その書類の右隅に捺印をお願いします。…それで契約成立でごさいます」
 対峙するのは会社の若い従業員の男と、机上に置かれた契約書、そして念のため持ち込まれた商品のパンフレットだ。手製で刷ったものと思いきや、パンフはちゃんとした印刷会社で刷った完璧なものだったので二度驚いた。従業員も胡散臭さを一切感じさせない爽やかな面子をもってきた。その辺はなかなか心得ている。
 「わざわざすみません…じゃあ、押しますね」
 傍にもう一人従業員が立っているのが気にはなったが、さっさと契約を終わらせようと判子を紙面に押し付けようと手を伸ばし——ただけに終わった。
 指先に掴んでいた筈の判子がなくなっていた。ぱしんという乾いた音と共に眼前の従業員が右手を払い、判子を真横に吹っ飛ばしたからだ。手触りの良さそうな絨毯に朱を残しながら、判子は向こうへころころと転がっていく。
 「——あのう」
 「はい?」
 「僕は契約したいんですけど」
 「ええ、それは分かっていますよ。突然不躾な事をしてすみませんでした」
 立っていた従業員が判子を拾って手渡してくれるのを受け取り、僕は眼前の男を怒気混じりで睨み付ける。彼はお構いなしに微笑みながら、しれっと答えた。
 「いやぁ、お客様、『ネットはまだ信用ならない』とおっしゃっていたではございませんか。ウチにはそんなお客様の為に、特別サービスがあるんです。直接契約に赴いてくださったお客様には、商品の契約をより確かなものにする為に我々が全力で捺印を阻止するんです」
 「…は?」
 「その戦乱の捺印を切り抜けて見事契約が成立すれば、素晴らしい達成感と共にその瞬間が強く印象に残ります。顔を突き合わせての契約でありましたら、我々も手を抜くことなくお客様との契約を丁重に取り扱えますから」
 「……なんか意味とか辻褄とかが全然合ってない気がするんスが」
 「まぁまぁ、試しに本気を出してみてください。ワンクリックの契約よりもスリリングてエキサイトな契約が楽しめますよ?」
 何かしら契約行為について履き違えている気がしたが、ここで捺印出来なければわざわざ出向いた苦労が無駄骨になる。受け取った判子に朱肉を擦り付け、再び書面に向かって構え直した。
 従業員もにこやかな顔のまま臨戦態勢に入る。手の先は手刀の形を作った。
 「…押せばいいんですよね」
 「はい、そうです」
 普通に出たのでは払いのけられる。要は捺印のスピードと、阻止する力を相殺する逆向きのベクトルがあればいいのだ。契約書をもぎ取っても良さそうだが、それでは上手く捺印出来まい。あくまで机上で、朱で描かれた印を一つ。
 「いきます!」
 大きく外回りに弧を描きながら、判子を紙面に持っていった。従業員の素早い手刀が伸びてきたが、外回りでの距離を稼いだ分だけ威力は半減していて、判子を吹っ飛ばすだけの威力はなかった。手首に鋭い一撃が入るが、ごり押しで判子を降ろす。
 吹き飛ばされた。従業員の反対側の手が死角から飛んできて、判子を持っているこの手諸共机上めがけて斜めに叩き付けたのだ。判子が契約書を道連れにして、今度はもう一人の立っている従業員とは逆の方向にダイブする。すかさず彼が拾いに行った。
 あくまで彼は邪魔する役ではないらしい。
 「…。…契約書が」
 「ご安心下さいお客様。失敗した時の為、契約書は何枚も用意してございます」
 軽く息を荒らげながらも、眼前の男は例の小綺麗なパンフレットの山の中から新しい契約書を取り出して置いた。再び手渡される判子を受け取ったこちらも、息を荒らげながら第二戦に気合いを入れる。
 今度は直線軌道で判子を持っていく。従業員の手刀は威力を相殺されないままダイレクトに指先を襲った。ぶつかる瞬間に手刀と逆の向きに手を動かして寸前で相殺すると、後は紙面へ垂直に降ろすだけとなる。今度は死角からの攻撃も当てさせない。頭上から襲い掛かってきた左手の攻撃を同じく左手で受け止め、渾身の力でもって後方に仰け反らせる。一瞬全身を逸らされて勢いを失った男は、それでも捺印させまいと両手で襲い掛かってきた。
 あと一歩だ。捺印するのになにも座って行う必要はない。立ち上がって左手で従業員の喉笛を鷲掴みにして、身体を前面に乗り出して攻撃の範囲を狭めた。いくら男の長い腕をもってしても、腕と身体のリーチを越えて捺印を阻止する事はままなるまい。案の定身体の左右で従業員の両手が空しく空を薙いだ。その隙に、契約書の点線円の中に見事判子を押し付けることに成功した。
 「…おめでとうございます。契約成立でございます」
 まだ息切れしつつも、従業員は爽やかな笑顔で拍手した。もはや服も何もずたぼろだったが、言われた通り僕の中には意味不明な達成感が満たされていた。経緯はともかく、契約という行為の重大さを身に染みたといった方が賢明か。
 例の契約書は、始終無言で立っていたもう一人の従業員によって奥の部屋へと運ばれていった。結局よれてくしゃくしゃになった紙切れだが、それでもいいとの事だ。
 「どうです、アナログな契約もなかなかいいでしょう」
 「もうよく分かんないけど…いいですね」
 戻ってきた男が差し出した領収書を受け取り、漸く一段落ついて気迫が萎えた。ついでに差し出されたお茶で喉を潤していると、眼前の男が商品についての詳細を説明し始める。
 「それでは、契約なされたいもぞう3ダースについてですが…ご希望の日時に配送いたしますので、代引きでお願いいたします。ちなみに代引き手数料の方はいただきませんので、配送料だけを加算して現金を用意してください……」
 淡々と続く彼の説明を遠くで聞きながら、僕は今更注文した商品についての些細な疑問を考えていた。
 「——ところでいもぞうって…何なんでしょうか——」

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こんな契約あったらイヤン。ちなみにいもぞうとは友人作キャラクターの名称です。