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サンダー・レッドの歴史
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■創業75年
 我が社の創立のころのことは戦火によって焼失し、今は知る由もありません。
 先代の社長本宮栄吉が毎夜晩酌をかたむけながら三人の娘に語ったことをつなぎ合わせると、創業は栄吉の父、本宮卓の代にさかのぼります。当時の屋号は『雷(カミナリ)石鹸本舗』と称し、これが後のサンダー・レッドの命名の由来です。

■祖父の代のころ〜初めての工場
 創始者卓氏は、千葉県の大地主の次男として生まれ、大正の終わり頃、一旗あげようと東京に出て来ました。隅田川のほとり、小説『ガラスのうさぎ』の舞台となった本所緑町で石鹸の製造をはじめました。小さな町工場がひしめき、庶民が肩をよせあって暮らしていた人情のある下町です。
 両国にも近く、腹をすかせた見習い力士が工場の力仕事を手伝いによく来ていたそうで、たらいに洗濯板の時代ですから、その頃作っていたのは固形石鹸のみでした。
 時は世界的な大恐慌(1929年)時代、商売は大変でした。ここでの父の少年時代のエピソードは実におもしろくて、それだけで1冊の本になるくらいです。

■父の代のころ〜業務用の粉石鹸を製造
 第二次世界大戦中に本所の工場は国に接収されたうえ、東京大空襲によって跡形もなく消失しました。
 昭和23年、栄吉、東京都豊島区に工場再建。その後、程なく独立をします。そして屋号のカミナリを英語にして商号をサンダーと改めました。
 独り立ちした栄吉は東京都クリーニング機材組合に属して、クリーニング業務用粉石鹸の製造を始めました。これが今日の『サンダー・レッド純粉石鹸』の原型です。自転車のうしろに石鹸の木箱を積んで、まだ原っぱが残る東京を栄吉は走り回って営業をしたのでした。
 商売が軌道に乗り、工員の数も増えた1950年代半ばごろ、日本は高度成長時代に入ります。各家庭に洗濯機が普及。イージーケアーの合成繊維製品の普及とあいまって、クリーニング業界が不況。合成洗剤の出現により、石鹸屋はダブルパンチを受けてしまいます。
 合成洗剤製造も試みた栄吉でしたが、石鹸のよさが見直される時代がきっとくると信じ、石鹸を作り続けます。
 時勢に逆らってまで続けるからは、本当にいい石鹸だけを作ろうと、添加物一切なしの『サンダーレッド純粉石鹸』の一品に絞ったのです。この『純』は、炭酸塩などの添加剤がなく、純石鹸分95%以上の無添加石鹸にだけつけることを許された価値ある一字です。
 本物で勝負!と決めたのですが・・・、成果はすぐには表れませんでした。

■やっぱり石鹸!〜消費者運動に支えられて・・・・
 1962年1月、東京医科歯科大学の柳沢文正教授の《合成洗剤は決して無害ではない》との研究成績を朝日新聞紙上で見た栄吉は、その日が近いと知ります。
 1970年代になると、日本各地で公害が社会問題となってきました。河川が泡立ち、琵琶湖が汚染されるや、やっぱり自然なものがいいと、どこで聞いてきたのか、主婦や若者が『サンダーレッド純粉石鹸』を買いに来るようになったのです。有吉佐和子氏の『複合汚染』がベストセラーになったのもこの頃のことです。
 消費者運動の台頭とともに、少数派ではありますが、石鹸愛用者が増えはじめ、北は北海道から、南は沖縄まで、全国各地から注文がきて、工場は再び活気をとりもどしました。
 テレビや雑誌にもたびたび紹介されるようになりました。『Begin』創刊号(1988年)の記事では、TheGreat Labels〜世界の名品〜として、ライカのカメラ『LAICA M6』、『リステリン』と『サンダーレッド純粉石鹸』の3点が、ともにグラビアを飾りました。小さな町工場の本物志向が世界の一流品と肩をならべたと自負しています。