瀋陽にて
平成19年9月29(木)瀋陽にて
  13時、長春のバスターミナルを出発、17時15分頃瀋陽北駅に到着。瀋陽には三年前来たことがある。 その時は、わずか4時間の滞在であった。(丹東から列車で来て、その日のうちに飛行機で済南へ。) とりあえず瀋陽駅に行こう。タクシーに乗る。
  車窓から見える光景は長春とは比べ物にならないくらい都会である。 見覚えのある駅へ着く。瀋陽駅前は工事中であり、前回あったポール上の戦車は既に取り払われていた。 駅近くの和平賓館へ飛び込む。ロビーは格調高い雰囲気であり、結構古そうな建物である。1泊200元であった。
  夕食は駅前の吉野家で牛丼をいただく。やはり安心できる。さて、北京へどうやって行こう?飛行機か、 列車か、バスかである。旅行社で飛行機の値段を聞くと800元であった。瀋陽から北京は、いままでの ハルピン〜長春、長春〜瀋陽より遥かに距離がある。とにかく駅へ行ってみよう。
  窓口へ行き「明日の夜、北京へ行きたい、寝台車はないか?」と問うてみた。23時40分ならあるとの事。ラッキーと思った。 寝台車の値段は上段で172元であった。・・・これで北京へ行ける。
  翌朝、今回は張氏帥府(張作霖とその息子張学良)の官邸と九・一八歴史博物館へ行こうとタクシーに乗る。 「帥府」とは、直訳すれば「将軍の官邸」である。張作霖、張学良親子は、奉天(瀋陽)を拠点とした 満州軍閥の頭目である。清朝末期から20世紀前半波乱万丈の生涯を送っている。
  1911年、辛亥革命によって清朝が滅亡後、袁世凱率いる北洋政府(北京政府)が成立した。この政権は 1928年で終わるが、張作霖は1927年国家元首となっている。彼は、関東軍の河本大作による 張作霖爆殺事件(1928年6月4日)により死亡。後を引き継いだ張学良は、日本が引き起こした満州事変(1931年9月18日) の翌年満州より追放されている。彼は戦後も生き残り、2001年ハワイでなくなっている。彼が生まれた年は 1901年だから、100歳生きていたことになる。帥府の大青楼は見ごたえのある立派な建物であった。
  次は、柳条湖事変が起きた場所に建てられている九・一八歴史博物館だ。現地には本を開いたような建物があった。 どうもそれは旧館で、その奥に新館があった。新館の正面では小学校生の一行が見学を終え列を成して引き上げるところであった。
  「1931年9月18日は、中華民族の国辱の日である。中国人民は、この日を未来永劫忘れ得ぬ日として記憶することを誓う。」
  帝国主義時代、日本が残した汚点は消えることはなさそうである。 19世紀末から20世紀にかけて英米仏独露とそれに日本の列強各国は 帝国主義競争の中、衰退した清国を食い物にした。そのきわめつきが満州国 の設立であった。その象徴的な事件が日本軍により周到な計画のもとに企てられた1931年9月18日の柳条湖事変である。
  見学後、北陵公園へ行く。北陵は昭陵とも呼ばれ、清の太宗「皇太極とその皇后博爾済吉特氏」の墓である。 とにかく広い、歩いて奥まで行ったが、相当の距離があった。雨が降ってきた、帰りは園内の車に乗る。
  その後は一番にぎやかといわれる「中街」へ。雨は降るし疲れたので、映画館へ入ることにする。 見たのは「導火線」というアクションものの香港映画であった。
  バスで瀋陽駅までと思い。とあるバス停から乗ったが、降りる所がわからず終点近くで降り、結局はタクシー で駅へ。夕食は吉野家の牛丼をいただく。