Top Page 現代事件簿の表紙へ No.017 No.015
第二次世界大戦中、ドイツの占領下に置かれていたフランス・パリにおいて、「国外に脱出させてやる」との誘い文句で自宅に一泊させ、診察室に閉じ込めてガスで殺害する医師がいた。目的はそれぞれの犠牲者たちが所持していた、ありったけの逃亡資金である。 ▼発見された大量の死体 1944年(昭和19年)3月11日、フランスのパリの消防署に、市民から通報の電話がかかってきた。 「ル・シュウール街21番地の家の煙突から、ものすごい悪臭のする真っ黒な煙が出てます!何とかして下さい!」 現場にはすぐに消防車がかけつけ、問題の家を見てみると、確かに異様な臭(にお)いと共に、真っ黒な煙が煙突から吹き上げている。その家の住人は留守のようだったが、緊急事態の可能性もあるので、消防隊が家のドアを突き破り、中へと侵入した。 家の中にも煙は充満していた。消防隊員たちが地下室に降りてみると、そこでは地獄のような光景が広がっていた。地下室に設置されているボイラーの中で、何本もの人間の手足がゴウゴウと燃えていたのだ。更に床の上にはバラバラにされた大量の死体が放置されている。吐き気をもよおすような光景だった。 更に調べてみると、家の外に立てられている小屋の中でも、石灰をふりかけた死体が多数発見された。すぐに警察が呼ばれて現場検証が始められた。その結果、見つかったのは27の死体と大量の剥(は)ぎ取られた頭皮、約15kgの肉片だった。 更に捜査が進むと、家の奥の方で「三角形の部屋」が発見された。普通の部屋は四角形であるが、なぜか三角形に作られている。この部屋は壁一面に防音加工が施(ほどこ)されてあり、ドアは二重になっていた。 二重になったドアには、内部が見られるように覗(のぞ)き穴がつけられていて、壁にはガスの噴出口らしきものも取りつけられてあった。きちんと並べられた手術道具も発見された。また、クローゼット(押入れ)には、被害者のものと思われる衣類やトランクが多数置いてあった。 ▼逃亡と犯罪の手口 この家の住人はすぐに判明した。マルセル・ペティオという医師である。警察が捜査を行い、大騒ぎになっている時、その当の本人のペティオがひょっこり帰ってきた。自分がこの家の主(あるじ)だと名乗ったため、すぐに警察は逮捕しようとしたが、ペティオは先手を打つかのように警官の耳元でささやいた。 「実はここはレジスタンスの処刑室なのです。ここにある死体は、全部(敵国)ドイツの協力者なんですよ。」 「レジスタンス」とは、抵抗運動のことで、特に第二時世界対戦中の、フランスにおける対ドイツ抵抗運動を指して使われる言葉である。当時のパリは、ドイツ軍に占領されており、その支配下に置かれていた。ペティオが言うのは、「フランスに住んでいながら、敵国ドイツに協力している、国の裏切り者」をここで処刑しているのだ、という意味である。戦争という特殊な状況の時だからこそ言えた言葉である。
後に判明したことであるが、やはりこの家でペティオは大量の殺人を行っていたのだ。当時は第二時世界対戦中であり、このパリはドイツ軍に占領されていた。それ故(ゆえ)に、パリには国外に逃亡したがっている人たちがたくさんいた。特にユダヤ人はナチスドイツから狙われており、結果的にペティオの犠牲となった人もユダヤ人が多かった。 ペティオは四人の部下を使ってカフェなどで、国外逃亡を望んでいる人を捜させ、国外に逃がしてやると言っては自分の家に招いた。本気で逃げる気であれば、ほぼ全ての人が、ありったけの現金や貴重品をトランクの中に詰め込んでくる。後に犠牲者となる人たちも、ペティオの職業が医者ということで、完全にペティオのことを信用していたようである。 自分の家に訪れた客人をペティオは三角形の診察室に通し、ペティオが言うところの「マラリアその他の伝染病の予防」のための注射を打つ。そしてペティオは部屋から出て行き、客人を診察室に閉じ込めた状態にしてからガスを噴出させる。 ペティオは、客人が胸をかきむしり、苦しみながら息絶える姿を覗き窓から楽しそうに見つめる。そして殺した後は、その人が持ってきた荷物から金目の物をいただく。この方法で何十人も殺し、かなりの金品を得ていた。 ▼ペティオの経歴 ペティオは1917年、当時フランス陸軍にいたが、モルヒネを盗んでは麻薬中毒患者に高額で売りつけており、それがバレて軍法会議にかけられて除隊することとなる。除隊後、医師免許を取得し、しばらくしてビルムーブという町で自分の病院を開設した。そして1928年にはその町の町長にまでなっており、町の名士と言える存在だった。 だがその反面、警察には何度もお世話になっている。本屋で万引きをして捕まったり、ガスのメーターをごまかしたり、再び窃盗で捕まったりもした。おかげで1930年には町長を辞職することとなった。病院を開設した後も、患者二人を殺したとの疑いで起訴されたりしたが(有罪にはならず)、医師免許の剥奪だけは免(まぬが)れてきた。 そして1936年、引っ越してきたパリで、またもや窃盗で捕まっている。しかしその反面、彼がパリで開設した病院は大成功をもたらした。常時3000人ほどのカルテで埋まり、かなりの収入を得ることが出来た。その金でル・シュウール街に部屋が15もある豪邸を作り、ここが結果的に後の処刑室として使われるようになる。この家を作ったのも、最初から殺人目的だったという。 ▼ペティオ逮捕される 1944年6月に連合軍がフランスに侵攻し、8月24日にパリを奪還した。この出来事関連のニュースも落ち着いたころの、9月17日付けの「レジスタンス」紙に、ある記事が掲載された。タイトルは「ペティオはドイツの手先である」。 現在行方をくらませている、殺人医師のペティオについて書かれたものだった。 ペティオも、どこかでこの記事を読んだらしい。自分のことが、敵国ドイツの協力者であるかのように書かれたこの記事に腹を立て、編集部に抗議の手紙を送ってきた。これまで行方の分からなかったペティオだったが、これをきっかけに再び日の当たる場所へ出てくることとなった。 手紙には「私は(ドイツ)ゲシュタポの罠にかかったのだ。私が投獄されている間、ゲシュタポが私の家を死体の捨て場所のように使い、私に罪をかぶせたのだ。」という内容のことが書かれ、ただちに自分の手紙を新聞に掲載するように求めていた。 そして手紙には「私は現在レジスタンスの戦士として活躍している。」とも書かれていた。この手紙が本当に本人からのものであれば筆跡が重要な手がかりになる。当時はもちろんキーボードで打って印刷、という時代ではなく、手紙は手書きである。 この手紙は編集部からレジスタンス組織「自由フランス軍の公安部(警察に相当する機関)」に渡り、公安部が、パリの「自由フランス軍」に登録されている士官一人一人の筆跡と照らし合わせた結果、筆跡がピタリと一致した人物がいた。自由フランス軍に、ほんの一ヶ月半ほど前に入ってきたアンリ・バレリーという人物である。いったん警察から逃れたペティオは、この偽名を使ってレジスタンス組織「自由フランス軍」に入隊していたのだ。 1944年11月2日、アンリ・バレリーすなわちペティオは逮捕された。 ペティオは逮捕後も「私は祖国の敵以外、殺したことはない。」と断言し、「こうして姿を現したのは、私に対する卑劣な中傷を終わらせるためである。」とも語った。 ペティオが言うには、、家の死体は全てドイツ兵かドイツの協力者であり、自分はこれまで、母国フランスの敵を殺してきたのだという。最初に編集部に出した手紙の中では、「ゲシュタポが私の家を死体の捨て場所に使った」などと書いてあったが、取調べが進むうちに結局は自分の殺人を認めることとなった。 戦時中という特殊な環境ということもあり、もし、この「母国フランスの敵を殺してきた」という主張が通れば、ペティオは殺人犯どころか国の英雄である。しかも自分は、多くの愛国者を国外へ脱出させてやったとも言い張った。 ▼裁判 ペティオの裁判は全国の注目を集めた。特に第五回の公判では、あの殺人屋敷に法廷を移したような形で、一般人の立ち入りも許可して現場で実地検分を行った。当日はちょっとしたイベントとなり、マスコミも一般人も殺到し、その中でペティオはガス栓の操作の方法や覗き穴の仕組み、死体処理の方法などを語り、多くの野次馬に囲まれて冗談まじりで上機嫌で質問に応じた。検分の最中に彼にサインを求める者もいた。 だが最終的に下った判決は、27件の殺人のうち24件で有罪となり、死刑判決となった。また、取り調べの最中、44件もの余罪を自白しており、これをあわせると実に60人以上の人を殺したことになる。 ペティオは死刑判決を聞いた直後に突然暴れだして官吏に取り押さえられ、傍聴席に座っていた妻に向って「私のために復讐してくれ!」と叫んだ。 その後パリ市内のサンテ刑務所に収監され、1946年5月26日の朝、ギロチンによる死刑が執行された。当日はあきらめか覚悟が決まったのか、彼は処刑台に向う最中にさえ最後の冗談を飛ばして処刑され、この世を去った。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.017 No.015 |