Top Page 現代事件簿の表紙へ No.020 No.018
鉄橋の上で地雷式の爆弾によって爆破された列車は、車両が次々と谷底に転落し、多数の死傷者を出す大惨事となった。犯人シルヴェストル・マトゥーシュカは逮捕され死刑判決を受けるが、死刑は法に則(のっと)った形で回避され、執行されなかった。しかし彼も、ついに悪運の尽きる時が訪れる。 ▼爆破され、谷底へ転落する列車 1931年9月13日の夜中、ブダペスト(ハンガリー共和国の首都)からウィーン(オーストリアの首都)に向かって走っている急行列車が、トルバギー駅近くの鉄橋の上を走っている時、その鉄橋で突然大惨事が起こった。 いきなり鉄橋が爆発して、レールは弾(はじ)け飛び、列車は空中に投げ出され、5つの客車が次々と谷底へと転落していったのだ。 死者は22名、重軽症者多数の大惨事となった。何十台もの救急車とパトカーが駆けつけ、負傷者が次々と運ばれていった。中にはすでにバラバラになった遺体もあり、三人分の頭が入れられた棺(ひつぎ)や、二人分の手足の入った棺もあった。 後の調査で分かったことだが、これは事故ではなく、明らかに何者かが仕掛けた爆発物が鉄橋を爆破したということが判明した。現場からは爆破に使ったと思われる爆弾の残骸が発見され、また革命派組織のものらしい犯行声明のビラも発見された。 爆弾はベージュ色の布製の袋に入れられレールに仕掛けられており、これが列車の重量で爆発するように、一種の地雷として仕掛けられていたのだ。 ▼シルヴェストル・マトゥーシュカ、自分から取材に応じる 現場には多くの報道陣も詰めかけて取材を行っていたが、その中の一人である、ウィーン毎朝新聞のハンス・ハーベ(20)という記者に、一人の男が近づいてきた。 彼はシルヴェストル・マトゥーシュカと名乗り、ハンガリーで会社を経営している者だと自己紹介した。この列車の先頭車両に乗っていたのだが、奇跡的に助かったのだと言う。 大胆にも、彼は取材協力という形で話しかけてきたわけだが、この男こそ後に逮捕されることとなるこの列車爆破の犯人・マトゥーシュカ本人であった。マトゥーシュカは、爆発の時の状況を詳しく記者に語って聞かせてやり、ハーベ記者にとってもそれは非常に取材に役立つ話となった。 一方警察は現場で生存者一人一人に入念に事情を聞いてまわったが、事件担当者であるシュヴァイニツァー警視は、その中でもマトゥーシュカが怪しいと早々疑ってかかっていた。 これだけの大惨事や死体を目の前にして、妙に落ち着いており、ショックを受けた様子もない。大事故に巻き込まれた直後の人間の心理状態ではない。それに彼は先頭の車両に乗っていたというが、だとすれば死亡するか大怪我をしているはずなのに、全く怪我もしていなければ、どこも痛そうにしていない。 念のため、他の生存者に「あの男を車内で見かけたか。」と聞いてまわったところ、マトゥーシュカを車内で見かけたという人は一人もいなかった。やはりこの男は列車には乗っていない。なのに爆破されたすぐ後の現場におり、その時の状況を記者に詳しく語って聞かせている。 彼がもし爆破の犯人だとすれば、自(みずか)ら取材に協力して話を聞かせてやるというのは、成功からくる嬉しさと自慢の気持ちではないのか。警視はすぐにマトゥーシュカの身元調査を命じた。 列車の爆破事件はこれ以前にも二件ほどあり、1月30日のアンスバッハでの事件は未遂に終わったものの、8月8日のユテールボルグでは10名ほどの死者が出ている。列車爆破の事件はこれで三件目となり、警察はこれら一連の事件は同一犯ではないかとの見方を強めていた。 ▼寄せられた情報・マトゥーシュカ逮捕される 警察は大々的に一般市民からの情報を募(つの)った。特に爆発物に関係した不審な情報を求めていた。 この事件から数日して、一人のタクシー運転手が情報を寄せてきた。 「数日前、髪を短く刈った男をタクシーに乗せたが、その男は随分と長距離を走って火薬工場を二個所訪れ、そこでダイナマイト棒を買った。」というものである。 そしてそれから一週間後、今度は、ある会社を経営している女性から情報が寄せられた。 「シルヴェストル・マトゥーシュカという人が、私の会社の施設を借して欲しいと申し込んできました。爆破の実験をしたいという内容の話をして行かれましたが、この間の列車事件のこともありますので、一応警察にも知らせておいた方がいいかも知れないと思いまして・・。」 これは有力な情報となった。 マトゥーシュカはあっさりと逮捕された。 彼は、妻と10歳の娘と共にウィーンに住んでおり、事件現場で語ったように確かに会社は経営していたが、その会社は随分と前に操業を停止しており、自宅も裁判所に差し押さえられている状態だった。 捜査が進むと、彼が最近「採石場で使う」と言って購入した強力な火薬が、これまでの三件の列車爆破事件で使われたものと同一のものであることが判明した。 そして自供によると、マトゥーシュカはあの日、あの列車には乗ったが次の駅ですぐに降り、そこからタクシーに乗り換えてぶっ飛ばしてもらい、トルバギーの鉄橋まで来て、そこで鉄橋と列車が爆破される場面を見ていたというのだ。 そして事件当日、マトゥーシュカが穿(は)いていたズボンから精液が検出された。列車が爆破され、地獄絵図となった現場を見て彼は性的に興奮し、射精していたのである。 ▼死刑判決を受けるも、刑は合法的に回避された 1932年6月15日、ブダペストで行われた裁判でマトゥーシュカは、 「神に命じられてやったのだ。私は神から、人を殺す権利を与えられている。」と発言したり、職業を聞かれても「脱線屋です。」と答えたり、およそ反省の色がない態度で、死刑判決が下っても心が動じた様子もなかった。 しかし死刑判決は下ったものの、マトゥーシュカの死刑は執行されることはなかった。 法の盲点か運の良さか、このブダペストの裁判を受けている時、マトゥーシュカは別の事件で、もう一つの裁判も受けていたのだ。 それはオーストリアの管轄になる裁判で、マトゥーシュカ自身は出廷していない欠席裁判だったが、以前彼が起こしたちょっとした軽犯罪の裁判で、それはそれで判決を受けていた。 そこで彼は死刑に処される前に、オーストリアに送られ、この別件の判決で刑務所に入ることとなった。ところがハンガリーの法律では、死刑判決を受けても、それが一定期間内に執行されなかった場合、死刑は自動的に懲役刑に切り替わることになっていた。 こうして彼は、合法的に死刑を免(まぬが)れたのである。 ▼脱走し、ソビエト側兵士に転身する マトゥーシュカの裁判から14年の歳月が流れた1946年。彼はこの時ハンガリーのヴァクズ刑務所で刑に服していたが、時代は第二次世界対戦後の混乱の時代であった。 この年、ハンガリーにソビエト軍が侵攻し、国内は大変な事態となったが、マトゥーシュカはこの混乱に乗じてまんまと刑務所を脱走することに成功した。そしてそのまま行方不明となった。 それから更に時は流れ、7年後の1953年。朝鮮戦争が終わりを告げようとしていた時期に、アメリカ軍の一隊がホンソンの近くで橋を爆破していようとしたソビエト側の一隊を発見し、捕虜にした。指揮官は60歳くらいの男であった。 「私はシルヴェストル・マトゥーシュカだ!」アメリカ軍の質問を無視して、その指揮官はいきなりこう言い放った。 しかし「シルヴェストル・マトゥーシュカ」と名乗られても、アメリカ軍は誰も分からない。さすがに昔のことであり、外国のことでもある。 「私はトルバギーで列車を爆破したシルヴェストル・マトゥーシュカだ!お前らは、この戦争ですごい大物を捕虜にしたんだぞ!」 アメリカ軍がその名を調べてみると、確かに昔ハンガリーで列車を爆破したマトゥーシュカという男が存在していた。 マトゥーシュカは刑務所を脱走した後ソビエト側に走り、北朝鮮を攻撃するための義勇軍に志願し、過去の実績をアピールしてソビエト側の兵士として採用されていたのだ。 ▼マトゥーシュカの最後 その後、しばらくして朝鮮戦争も終了した。開放されたマトゥーシュカは、つい生まれ故郷の村にふらっと立ち寄ってみた。 「自分は有名人だから故郷の人達も歓迎してくれるだろう。」とでも思ったのかも知れない。しかし村人達の反応は逆であった。 「あの犯罪者の、村の面(つら)汚しのマトゥーシュカが帰って来た!」ということで村は大騒ぎとなり、村人たちは彼を袋叩きにしようと一斉に追いかけ始めたのだ。 びっくりしたマトゥーシュカはひたすら逃げまわり、川を泳いで逃げようとしたところ、川の渦(うず)に巻き込まれてしまい、そこでそのまま溺(おぼ)れ死んでしまった。以前、法的に死刑を免(まぬが)れたマトゥーシュカではあったが、最後の瞬間は意外なところで訪れたのである。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.020 No.018 |