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No.035 連合赤軍01〜連合赤軍の誕生

昭和40年代後半、全国の大学で「学生運動」が盛り上がりを見せ、学生を中心とした若者の組織が数多く作られた。しかし、その中でも次第に本来の主旨をはずれて、武装する集団も現れてきた。
彼らは武器を持ち、交番を襲撃したり、放火や強盗などを行い、「過激派」と呼ばれた。


▼学生運動から過激派が発生

昭和43年(1968年)、日本大学で、20億円の使途不明金を追求する大規模な抗議運動が学生の間で巻き起こった。
また、同じような次期、東京大学でも医学部のインターン問題に対する学生への不当処分を抗議する運動が学生の間で起こった。

この日本大学と東京大学の抗議運動を発端として、全国の大学で、「学生たちが組織を作って大学側に抗議する」という学生運動が波及していった。そしてそれらの組織は次第に拡大し、同じ大学内だけではなく、他の大学の組織とも連携し、県や大学の垣根を超えた大規模な組織も多く作られることとなった。

これらの学生組織は全学共戦会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)と呼ばれる。


しかし抗議もエスカレートし、デモを行ったり建物の一部を占拠してバリケードを築いたり、暴力沙汰などがたびたび起こるようになると、当然警察や機動隊によって阻止されるようになる。

最初は大学側の不正追求を目的としていた組織も、そのうちに警察や政府、日本国家そのものを批判する方向へと考えが変わっていった。中には「革命を起こして現政府を打倒する」「日本を共産主義国家へと変える」などのスローガンを掲げた組織も多く登場してきた。

しかし、投石や火炎ビン、建物占拠などの映像がテレビでたびたび流されるようになると、世間の人たちの大半は学生運動に否定的となっていった。
「騒ぎを起こされて迷惑」「親の金で大学に行っている者のすることではない」などと批評され、そのせいもあってか、学生運動はわずか2年後にはほとんど消滅することとなる。

だがその中でも生き残った組織は、学生運動のレベルをはるかに超えた凶暴な組織として変貌を遂(と)げていった。様々な武器で武装し、襲撃事件を繰り返し、資金獲得のために金融機関を襲う。それらの組織は既(すで)に学生の行うことを超えており「過激派」と呼ばれた。


▼赤軍派の誕生 (※赤軍派 = 正式名称は「共産主義者同盟赤軍派」。以下、文中では「赤軍派」と表記。)

塩見孝也(たかや)を最高幹部とする「赤軍派」もそうした過激派組織の一つであった。赤軍派は、昭和44年5月に関西の共産主義者同盟から生まれ、最初から「軍隊を組織し、武装する必要がある」との考えを持って組織が確立された。

同志社大学、京都大学、立命館大学などを中心として、結成当時のメンバーは約400人(その内高校生90人)。

彼らは銃を奪う目的と、国家権力に対する反発として、交番に火炎ビンを投げ込んだり、パトカーをピース缶爆弾で攻撃したりなどのテロ行為を繰り返した。

昭和44年11月には、鉄パイプ爆弾の軍事訓練を行うために山梨県塩山市の大菩薩峠に集合したが、この時には警察が介入し、53人が逮捕された。そして翌年の昭和45年3月15日には赤軍派のリーダーである塩見孝也議長が破壊活動防止法違反で逮捕される。

結成から一年半でリーダーを始めとして222人が逮捕され、赤軍派はかなり縮小されることとなった。しかしこの半月後、赤軍派の中の9人は日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮に渡るという事件も起こしている。

赤軍派の中でも特に際立った活動をしていたのは森恒夫(つねお)をリーダーとするグループだった。「革命のためなら盗みも許される」という森の理論を実践し、郵便局や銀行を中心に強盗に入り、8件の強盗で1537万を得た。(このうち605万円を奪った一件ではすぐに逮捕されている。)


▼もう一つの過激派「京浜安保共闘」

この世に発生した過激派集団は赤軍派だけではなかった。「京浜安保共闘」もまた、その過激さ故(ゆえ)に際立った存在となっていた。

リーダーである川島豪の「革命は銃から生まれる」との理論のもと、彼らは外国をターゲットとし、アメリカ大使館やソ連大使館を火炎ビンで襲撃したり、米軍横田基地の軍用機にガソリンをかけて放火炎上させたり、各地の米軍基地で爆破未遂事件を起こしたりもした。
また、岐阜県においてダイナマイト15本も盗んでいる。

リーダーである川島豪と、他25人はこれらの犯罪で逮捕されることとなった。昭和45年5月、後任のリーダーには、残ったメンバーたちの投票によって永田洋子(ひろこ)(24)が委員長として選ばれた。


昭和45年12月18日、安保共闘の3人のメンバーが、東京練馬区の交番を襲って拳銃を奪おうとしたが、巡査によって逆に一人が射殺され、残りの2人もその場で逮捕されるという事件が発生した。

この事件を境に、安保共闘は警察への復讐を開始する。交番や警察署、警察関連施設などを次々と爆破し、未遂も含めてその件数は十数件にも上る。また、警視庁警務部長宅に爆弾を仕掛けた小包を送りつけ、それを開けようとした奥さんがバラバラにふっ飛んで爆死するという事件も起こった。

昭和46年2月17日、リーダーである永田洋子と幹部の坂口弘の命令で、安保共闘の6人は栃木県真岡市の銃砲店を襲って猟銃10丁、実弾2300発、空気銃1丁を強奪した。逃走中に2人が逮捕されたが、残ったメンバーによってこれらの武器は群馬県のアジトに運ばれた。

その後は新潟、北海道などアジトを転々と移し、警察の追求をかわす一方でメンバーの訓練などを行っていた。

この年の4月、委員長である永田洋子と、坂口弘は東京に出向き、赤軍派の森恒夫と接触した。当時の赤軍派は大量の逮捕者によって幹部がほとんどいなくなっており、この時は森恒夫が実質的なリーダーだった。永田洋子と坂口弘は、森恒夫を相手に先日奪った猟銃2丁と実弾200発を30万円で売るという取引を行った。


▼京浜安保共闘、脱走者を殺害する

京浜安保共闘は山梨県の山村にアジトを移し、ここで実弾の射撃訓練などを行っていたが、たび重なるテロ行為や強奪にメンバーの中で、組織について行けない者が出始めた。21歳の男性がこのアジトから逃亡したのである。逃亡が発覚すると、警察への通報を恐れて、アジトはすぐに同じ県内の別の場所に移した。

そして3ヵ月後の7月、今度は名古屋の交番襲撃計画のために、自分から志願して調査に出向いていた21歳の女性が名古屋市内から逃亡した。

2人の逃亡者をこのままにしておくわけにはいかない。永田洋子と、坂口弘ら幹部4人で話し合った結果、2人を殺すことで意見が一致した。


8月4日に女性の方を、8月10日に男性の方を、
「あれぐらいのことだったら、みんな許してくれるよ。みんなが待ってるよ。」
などと両者とも言葉巧みに個別に誘い出し、リンチを行った上で首を絞めて殺した。両者とも遺体は千葉県印旛沼付近に身元を隠すために全裸にして埋めた。京浜安保共闘が行った初めての仲間殺害である。

その後もアジトの場所は転々と変えたが、11月の下旬からは群馬県の北群馬郡伊香保町(現:渋川市)の榛名(はるな)山に、旅館の廃墟を理用してここをアジトとすることになった。安保共闘はアジトを転々と変えていたが、それぞれのアジトは、地名に「ベース」という言葉をつけて呼ばれた。ここ榛名(はるな)山のアジトは「榛名(はるな)山ベース」と呼ばれた。


▼赤軍派と京浜安保共闘が合体し「連合赤軍」となる

昭和46年12月20日、以前から連絡を取りあっていた赤軍派の森恒夫が8人のメンバーを連れて、この榛名(はるな)山ベースに到着した。森を含めて9人のグループである(女性は一人)。

赤軍派のリーダー森恒夫と、京浜安保共闘のリーダー永田洋子は握手を交わし、お互いのグループ同士を合体して一つの組織とすることに同意した。この二つの過激派が合体し、名称も「連合赤軍」と改め、国家権力と戦い、メンバーに共産主義の思想を叩き込む意向で意見は一致した。

これまでそれぞれのグループが目指してきたものに若干の違いはあったものの、違う点は妥協し、「共産主義」「革命は武力から生まれる」という点では合意した。

この時の京浜安保共闘のメンバーは20人(女性は9人)。この20人に赤軍派の9人を加えて、合計29人の「連合赤軍」がここに誕生した。指導者は、赤軍派リーダーであった森恒夫が委員長、安保共闘の永田洋子が副委員長で支配することとなった。

そしてNo.3の立場である書記長には坂口弘、その下の中央執行委員には坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝の四人が任命された。
ちなみにNo.2となった永田洋子と、No.3の坂口弘は夫婦である。



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