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No.036 連合赤軍02〜仲間12人をリンチにかけて殺害する

連合赤軍は山の中で軍事訓練を行い、共同生活をしていたが、リーダーである森恒夫と永田洋子が圧倒的な権力を持って組織を支配していた。
最初は反省を促(うなが)すための儀式であった「総括(そうかつ)」が、次第に森と永田の気に入らないメンバーを殺害するリンチへと変わっていく。


▼軍事訓練と総括(そうかつ)という名のリンチ

「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! そのために革命を起こすのである!」
「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」
「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」

森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名(はるな)山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。

この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」と永田が言うと、
「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」
と森も同調する。

自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、
「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括(そうかつ)すべきよ!」と永田が総括を要求する。

総括とは体罰によって反省を促(うなが)すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に「お前のためなんだぞ!」と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は「ありがとうございました。」と礼を言う。

この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも「総括すべきだ!」との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


▼総括によって初めての死者が出る

昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。

「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛(しば)りつけなさい!」

小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛(しば)りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。

死体となった尾崎を見て永田洋子は、
「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。敗北死したのよ!」と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。


▼総括によって次々と殺される

昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋(しゃべ)ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。


1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と加藤能敬(よしたか)(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。

たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。
「この二人は活動の拠点を汚(けが)した! みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 二人に総括を求める!」
全員が「意義なし!」とすぐに同調した。

二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。


1月4日(4人目)

一方、加藤能敬(よしたか)の方もこの日本格的に総括が始まった。加藤には二人の弟・加藤倫教(みちのり)と加藤元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば加藤は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に加藤を殴り続ける。

それは加藤の弟たちも同様であった。「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」と永田洋子が言い、
「総括をみんなで達成させてやろう!」と森恒夫も叫ぶ。

森と永田に逆らうことは出来ない。加藤の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、加藤は動かなくなった。死亡していた。

兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は
「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。


1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、
「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」永田洋子が叫び、
「自分で自分を殴れ!」と森も命令した。

遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫(は)れ上がっていた。

遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。


1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。


1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。

寺岡「総括っておかしいと思わんか? 森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」

坂口「な、何言い出すんだお前!」

寺岡「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」

だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。

報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。

「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」
と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。

そして永田洋子が
「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」
と寺岡に死刑を宣告した。

ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」と最後の抵抗を見せた。

次の瞬間、森恒夫が「貴様は死ね!」と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。「全員で殺れ!」という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。

だが、なかなか死なない寺岡に対し、「もういい! 絞殺しろ!」と森恒夫が命令を下した。

縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。


1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。

そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。
「死刑にされて当然です。」と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。

だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。

寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨(ろっこつ)6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。


▼榛名山ベースから新アジト「迦葉山(かしょうざん)ベース」へ

17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名(はるな)山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即(すなわ)ち、警察に密告する恐れがある。

「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。

榛名(はるな)山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。

結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山(かしょうざん)ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。

この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山(かしょうざん)ベース」の完成であった。


▼更に総括による犠牲者は続く

1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」などと因縁をつけ始める。

山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。

そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山(かしょうざん)ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は「中央委員会の方が理論が矛盾している。」と発言し、舌を噛(か)んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(おおつきせつこ)(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。

そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。


2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。

彼女が縛られたのは、永田洋子から「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」などと完全な言いがかりをつけられ、「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。

何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。
同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。


2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。

そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭(あ)う。その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。


これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。

連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。



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