Top Page 現代事件簿の表紙へ No.038 No.036
総括によってメンバーを殺し、脱走者も出て、連合赤軍は縮小の一途をたどった。更にリーダーである森恒夫と永田洋子も逮捕され、残ったメンバーは警察の追及から逃亡することしか出来なくなっていた。 ▼警察の追及と3人の脱走者 これまでの一連の仲間殺害は、もちろんまだ警察には知られていなかったが、連合赤軍になる前の「赤軍派」と「京浜安保共闘」時代、両組織とも強奪や爆弾テロを繰り返していたため、主要メンバーはすでに指名手配されていた。 2月1日から警察は、森恒夫・永田洋子・坂口弘など、10人の顔をテレビで流し、情報協力を呼びかけていた。また、町へ降りたメンバーが森・永田・坂口などの指名手配のポスターを目撃しており、追い詰められていることを改めて実感した。 昭和47年2月4日、金子みちよが死亡した後、メンバーたちにとって、つかの間の安息が訪れた。委員長である森恒夫と副委員長の永田洋子が、活動資金と車を調達するために迦葉山(かしょうざん)ベースを離れ、東京へと向かったのだ。 「しばらく留守にするから、アジトのことは頼む。」 と言い残して森恒夫と永田洋子は山から降りて行った。 一時的ではあるが、恐怖の2人がいなくなったことで迦葉山(かしょうざん)ベースに安堵感(あんどかん)が漂う。2人の留守中は総括を受けずに済む。留守中の責任者はNo.3の坂口弘である。 だが、この機会を逃さず脱走者が出た。総括によって自分の夫・山本順一を殺された、妻の山本保子(28)である。夫と自分、そして生後3ヶ月の子供と共にこの組織に参加していたのが、夫は自分の目の前で激しいリンチを受けた末に殺され、子供は他のメンバーに取り上げられてしまった。 今後もこの組織にいるしかない絶望的な状況であったが、山本保子は自分の子供を残し、他のメンバーのスキをついてベースから逃亡したのだ。 また、メンバー数人が、証拠隠滅のために以前いた榛名(はるな)山ベースの解体に出かけていたのだが、作業が終わって迦葉山(かしょうざん)ベースに帰る際、彼らは街中のバス停でバスを待っていた。しかしその時、解体作業のメンバーとして参加していた前沢虎義(24)が突然走り出して逃走した。 街中で追いかけて前沢に騒ぎを起こされると一般市民が警察に通報したりする恐れもある。他のメンバーたちも、「あ・・」と思いながらも、そのまま黙って見ているしかなかった。前沢虎義の脱走は、山の中のベースから走って脱走するよりも巧妙な脱走の仕方だったと言える。 そして脱走者がもう一人。同じく榛名(はるな)山ベースの解体の作業に関わったメンバーの中村愛子である。 中村愛子は、前述の生後3ヶ月の子供を残して逃げた山本保子の、その残された子供の面倒を見るように言いつけられていた。この子供を抱いて、同士たちが解体作業をしている榛名(はるな)山ベースに資金100万円を届ける役目を任命されていたが、その金を持ったまま逃亡した。 中村愛は逃亡の際、タクシーに乗ったが、あまりに汚い格好で異様な雰囲気だっため、運転手に自殺志願者だと思われ、警察に通報されて保護された。 ▼新しいアジト「妙義山ベース」へ移動 森恒夫と永田洋子がいなくなった途端、3人のもの脱走者が出た。留守を預かった坂口弘としては面目丸潰れである。 榛名山ベースの時と同じく、脱走者はすなわち警察への密告の可能性が高い。ほとんどが指名手配されている中、この迦葉山(かしょうざん)ベースも早急に立ち去らねばならない。 坂口弘は森恒夫と永田洋子を追って上京し、3人が脱走したことを伝えた。坂口弘と永田洋子は夫婦であったが、この時坂口弘は永田洋子から一方的に離婚されてしまう。 「私は森さんが好きになったから森さんと結婚することにしたわ。それが共産主義の立場からして正しいことだと思う。」と告げられ、坂口弘も「分かった。」と答えた。 坂口の留守中、残りのメンバーは迦葉山(かしょうざん)ベースを離れ、群馬県の松井田町の山の中の洞窟に新たなるアジト「妙義山ベース」を作っていた。ここが次なるアジトとなる。坂口が東京から帰り、この新アジトでメンバーと合流した。 3人の脱走者が出たので、この時点で残りのメンバーは留守中の森恒夫と永田洋子を入れても13人となった。 ▼警察が榛名(はるな)山ベースと迦葉山(かしょうざん)ベースを発見 2月半ば、連合赤軍の捜索を続けていた警察が、ついに榛名(はるな)山ベースを発見する。もっともすでに焼かれていて、残骸を発見しただけであるが、間もなくそこから20km離れたところに設置してあった迦葉山(かしょうざん)ベースも発見された。 こちらは早急に逃げたためか、焼かれてはおらず、大量の遺留品も残されていた。二つのアジトの発見は、新聞やテレビでも報道された。 警察は迦葉山(かしょうざん)ベースで、大小便を漏らしたズボンを発見した。ズボンは切り裂かれており、警察はこれを証拠品として押収した。 人間は、首を絞めて殺されると大小便をたれ流す。首吊り自殺者がたれ流しをしているのと同様である。犯罪者のアジトでこのような物が発見されたということは、誰かがここで絞殺された可能性が高い。 そして被害者の身元を隠すために、ナイフで服を切り裂いて死体から衣服をはぎ取った。犯罪捜査の専門家からすれば、このズボンの発見でそのような事件があったことが推察出来る。 一方、残ったメンバーたちも、前橋市でレンタカーを借りようとした際にも、その格好があまりにも汚く悪臭を放ち髪はボサボサで浮浪者同然だったため断られたことがあったように、身なりが汚すぎて街中で目立たないように行動することが難しくなっていた。 テレビや指名手配のポスターで連合赤軍のことが世間に知られ、メンバーたちが街中に出ると、連合赤軍のことを知らない人たちにまで「異様な集団がいる」、と警察に通報されるのだ。 東京から戻った森恒夫と永田洋子が群馬県でタクシーに乗った際も、「泥まみれになって汚らしい怪しい男女を乗せた」と後で運転手が警察に報告している。 ベースを発見したことで警察の捜査も一段と厳しくなった。 2月16日、何とか借りれたレンタカーで、用事を言いつけられていたメンバーが車を運転中、警察の車に出会ってしまった。汚い格好や挙動不審、手配中の写真などから正体がバレ、奥沢修一(22)と杉崎ミサ子(24)の2人が逮捕された。 これで残りは11人となった。 ▼森恒夫と永田洋子が逮捕される 2月17日、東京から群馬県へ戻った森恒夫と永田洋子は、新しいアジトである妙義山ベースで仲間と合流するために山道を急いでいた。新聞で、二つのアジトが発見されたことは知っていたが、そこへ戻るしかない。 一方警察は、逮捕した二人の供述などから、警官500人を動員して午前6時から妙義山の大規模な捜索を行っていた。午前9時半ごろ、雪の山道を歩いている森恒夫と永田洋子を発見した。 「森と永田だ!」という声のもと、一斉に二人の逮捕に向かったが、森恒夫は持っていたナイフで応戦した。格闘の末、警官の一人がナイフでヒジに怪我を負ったものの、二人はついに逮捕された。 連行される際に永田洋子は警官に 「今、東京で何か起こっていませんか?」と尋ねた。この時永田は世界同時革命が起こっているものと本気で信じていた。 森と永田の逮捕の後、17日の夜から18日の朝にかけて群馬県内では、群馬県警470人を始めとして栃木県・長野県他、近隣の5県からは合計1300人、警視庁からも1000人の警官が動員され、夜を徹して大規模な検問を行った。 森と永田の逮捕翌日の18日、残りのメンバー9人は、森恒夫と永田洋子が逮捕されたことをラジオのニュースで知った。総括がなくなって助かった、という気持ちが強烈に沸いてきた。 しかし、レンタカーに乗っていた2人とリーダーの森、永田と、たて続けに4人も逮捕されたとなると、このベースに警察が来るのも時間の問題である。今度は自分たちが逮捕されてしまう。 残りのメンバー9人は、山を歩いて長野県の方に逃げることにした。長野県軽井沢町の山林に雪を固めてカマクラを作り、とりあえずここを拠点とすることになった。このカマクラで一晩を過ごす。 そして夜が明けた後、植垣康博(24)、伊藤和子(23)、青砥幹夫(22)、寺林真喜(22)の4人は、衣類と食料を買うためにいったんカマクラを後にして山を降りた。 午前6時ごろ、この4人が軽井沢駅をうろついていた時、髪がボサボサであまりにも汚い身なりをしていたので、売店の人が不審に思い、駅員にこのことを伝えた。 連絡を受けた駅員が警察に通報すると、警官がやってきた。連絡を受けて来てみれば、それは連合赤軍のメンバーであった。4人はすぐに捕らえられてしまった。 軽井沢の町に買出しに行った4人が逮捕されたことは、残りのメンバーはラジオのニュースを聞いて知った。 連合赤軍結成当時29人いたメンバーも、これで残りはついに5人となってしまった。残った5人は革命どころではなく、すでに逃げることしか出来ない。 この5人とは、組織No.3であった坂口弘(26)と、坂東国男(25)、吉野雅邦(23)、加藤倫教(19)、加藤元久(16)である。 加藤の姓2人は兄弟である。加藤は3人兄弟でこの組織に参加していたのだが、長男の加藤能敬(よしたか)(22)は総括によって殺されている。 その総括の時、森恒夫と永田洋子に命じられて、泣きながら兄を殴り続けた、あの加藤兄弟の次男と三男である。 また、吉野雅邦は、妻である「金子みちよ」を同じく総括によって殺されている。 この残党5人のリーダーシップは立場上坂口弘がとっていた。 ▼追い詰められた5人は「さつき荘」へ逃げ込み、その後「浅間山荘」へ 昼12時ごろ、5人はカマクラから約500メートル離れた所にある「さつき荘」に侵入した。さつき荘はちょうど無人であった。 武器は5人で持てるだけ運んで来た。しばらくここで休むことにしたが、万が一に備え、いったんカマクラに戻って更に武器を運び、台所にあった食料を食べて今後のことなどを話しあっていると、外を見張っていたメンバーが異変を知らせた。 様子を見ると、4人の機動隊員が外にいた。外は30cmの積雪であり、5人がここまでやって来た時の足跡はクッキリと残っている。機動隊員は、この足跡を追ってこのさつき荘までやって来たのだろう。 ついに警察に発見されてしまった。5人は持って来た武器を手に戦闘態勢に入る。機動隊員に向かっていきなり銃を乱射し始めた。これに対して機動隊員も、威嚇(いかく)射撃で応戦する。 発見された以上、連絡をされれば大量の警官隊がここに駆けつけて来るのは分かっている。その前に早急に脱出しなければならない。この銃撃戦で、機動隊員一人が顔や脚に全治三週間の怪我を負った。 15時20分ごろ、連合赤軍の5人は、さつき荘を逃げ出し、銃を乱射しながら林の中を走って逃亡した。持ちきれない武器は、さつき荘に残していくしかなかったが、全員が持てるだけの武器を持って脱出に成功した。幸いにも何とか機動隊の追跡は振り切ることが出来た。 そしてさつき荘から、約500メートルほど離れた場所に建物があった。5人はここに逃げ込む。この建物とは河合楽器の保養所「浅間(あさま)山荘」であった。これより、日本犯罪史上に残る立てこもり「あさま山荘事件」が開始される。 なお、長野県 北佐久郡 軽井沢町にあるこの施設は、正式名称は「浅間山荘」であるが、マスコミが「あさま山荘事件」とひらがなで報道したため、事件名は一般的にひらがなで表記される。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.038 No.036 |