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No.048 現職警官が勤務中に強姦殺人・松山純弘

「制服姿なら安心して家の中へ入れてくれるだろう。」との考えで、一方的に惚れた女性のアパートを尋ね、強姦して殺害した松山純弘。警官という立場を悪用した殺人事件。


▼事件発生

昭和53年1月10日、東京・世田谷区経堂2丁目にあるアパート「東荘」で、突然「ガシャーン」という、ガラスの割れる音がした。そのアパートの住人も異変に気づく。

この「東荘」の家主であるA子さん(68)は、その時は音に気づかなかったものの、その後しばらく経って外出しようとしたところ、アパートの横を歩いていた時に、1階・4号室の窓ガラスが割れているのを発見した。

この部屋には女子大生が1人暮らしをしていたはずだ。この部屋の住人は、清泉女子大学4年生・長谷川優子さん(22)である。窓ガラスが割れた原因は、どこかから何かが飛んで来たのか、それとも本人の過失で割ったのか、原因によって修理費を出すのが家主か住人かが決まるわけであるから、家主としては当然気になる。

偶然にもガラスが割れた部屋は1階なので、部屋の外から中を覗(のぞ)いて見ることが出来る。A子さんが4号室の窓まで歩いて行って、中を覗いてみると、部屋の中には住人である優子さんが、窓際に置かれたベッドの下でうずくまるように倒れていた。

しかしなぜか制服姿の警官がこの部屋にいて、優子さんの側(そば)に立っている。

「事件かしら?でも、もう、警察が駆けつけたの?」

一瞬、A子さんも不思議に思った。次の瞬間、その「部屋にいた警官」は、窓から覗いているA子さんに気づいたようだ。

「女性が殺されている! 至急110番に電話してくれ!」

その警官はA子さんに向かって叫んだ。

「は、はい!」

びっくりしたA子さんはすぐに電話で警察を呼んだ。間もなく警察が駆けつけ、現場検証が始まった。優子さんの首にはストッキングが巻きつけられており、すでに死亡していた。ストッキングで首を絞められて殺されたのは間違いない。

この東荘の部屋は四畳半一間で、台所つきではあるが、トイレは共同のアパートである。室内は荒らされ、タンスの引き出しは開けっ放しになっていた。衣類が散乱しており、優子さんは服を脱がされて暴行された形跡があった。


しかし現場検証のこの場に、さっきまで部屋にいたはずの第一発見者である「あの警官」がいない。通報したA子さんは、駆けつけた警官たちから当然のように色々と質問を受けたので、「自分が第一発見者ではなく、この部屋にいた警官から110番するように指示された」ことを伝えた。

ではさっきまでこの部屋にいた警官は誰だったのか。担当区域とA子さんが証言した特徴ですぐに判明した。警視庁北沢署・経堂駅前 派出所勤務 松山純弘巡査(20)である。松山は、駆けつけた警官たちが優子さんの部屋の現場検証を行っている間に、自分の勤務先である派出所に戻って通常通りの勤務についていた。

この展開を、民間人であれば、さほど不審に思わないかも知れないが、警察側から見れば明らかに不審な行動である。現職の警察官が殺人現場にいながら、なぜ自分で通報せずに民間人に通報を頼んだのか。そして第一発見者でありながら、なぜすぐにその場を立ち去ったのか。

松山巡査を呼んで事情を聞いたところ、
「自分はあの時その付近をパトロール中でして、ガラスの割れる音が聞こえたのですぐにその現場に駆けつけました。そして、女性の死体を発見したのです。」と、あくまでも発見者であることを強調した。

しかし証拠は歴然としていた。松山の顔には引っかき傷があり、東荘の家主が松山を見た時には服装が随分と乱れていた。そして制服のボタンがちぎれており、更に調べると松山のパンツには被害者優子さんの血液が検出された。

家主と松山の証言する時間も食い違い、供述もあいまいで、以上の点を踏まえて厳しく追求すると、松山は犯行を自供せざるを得ない状況となり、この日の22時過ぎ、逮捕された。

事件発生から6時間後のスピード逮捕だった。


▼事件に至るまで

松山純弘は、昭和32年に鹿児島指宿(いぶすき)市で生まれた。学性時代から素行は悪く、中学3年の時には洋品店に盗みに入り、高校1年の時にはタバコを吸っていたのが見つかり停学、バイクを無免許で運転し、高校3年の時にはバイクで事故も起こしている。

地元の高校を卒業して警察官となり、1年間の訓練を経て北沢署に配属された。

当時の給料は手取りで9万円。警察寮に住んでいたので家賃は払わなくて済んだが、性欲旺盛でソープランドに月2〜3回行ったりキャバレーに行ったりと女関係の遊びで給料の大半は消えていった。

高校を出たばかりの一介の巡査の給料では、これだけ遊んでいると当然足りなくなる。

「なら、巡回中に空き巣に入って金を稼げばいい。」

松山はひらめいた。勤務中のパトロールの際、適当に選んだ家を訪問し、住人がいたら家族構成を聞いたり、たあいもない話をして立ち去るが、留守の家なら中へ入って盗みを働いた。こうした窃盗事件は5回行っている。

勤務中に行っているのでもちろん制服姿である。

更にこの時に盗んだクレジットカードを使って買い物をしたり、飲食店で支払いをしたりなどの詐欺行為も23回行っている。


昭和52年夏、松山はパトロール中に偶然優子さんを見つけた。優子さんは背が高くて大柄であったが、かなりの美人で、見ただけで松山は一方的に惚(ほ)れてしまった。

後をつけて家を調べると、東荘の1階に住んでいることが分かった。この頃から松山はたびたび優子さんの部屋を覗(のぞ)きに出かけていた。部屋にいる優子さんも当然それに気づいていた。

事件が起きる前には婚約者に「若い警官にしょっちゅう部屋を覗かれてて怖いの。」と相談を持ちかけている。

犯行の2日前である昭和53年1月8日、松山は新宿歌舞伎町にポルノ映画を見に行った。内容は強姦もので松山は興奮して帰ってきた。その晩、布団に入り興奮の余韻(よいん)に浸(ひた)っている時、優子さんのことを思い出した。

翌日9日の勤務中、このポルノ映画と優子さんのことばかりを考え、「明日、あの女をやってやる。」と、この日犯行を決意した。


そして10日、松山は優子さんのアパートへと向かった。アパートに着き、両隣の部屋が留守であることを確認して優子さんの部屋をノックした。
制服を着ていれば女の一人暮らしといえども、信用して中へ入れてくれるだろうと考え、制服姿で訪問した。

「交番から巡回連絡に来ました。」

松山が言うと、優子さんは最初は不思議に思ったような顔をしたものの、現職警官が訪ねて来たのだからドアを開けないはずはない。

「ただ今、この辺りをパトロール中でして。」と適当なことを言い、優子さんの家族構成や本籍地などを聞いた。質問をしながら部屋の奥の方をちらちらと確認し、この部屋には他に誰もいないことを確認した。

誰もいないと確信した瞬間、松山は玄関へ入り込み、すばやく中からカギをかけた。そして振り向きざま、いきなり優子さんに襲いかかった。両手で首を掴(つか)み、奥のベッドまで押して行く。

「何するんですか!」

と、優子さんも必死で抵抗する。「誰か来てーっ!」と大声を上げ、松山の顔を引っかき、暴れ、制服を引っ張り、ボタンがちぎれ飛んだ。しかし女の力ではかなうはずもない。抵抗している最中、優子さんの手が窓ガラスに激しくぶつかった。

ガチャーンと音がしてガラスが割れた。この瞬間、松山は「まずい!」と焦った。他の住人に音を聞かれたかも知れない。

「殺すしかない。」と、とっさに考えを変えた。手で優子さんの首を絞めると足をばたつかせ、押しつぶれたような声を上げて抵抗していたが、間もなく優子さんは身体の力が抜け、ぐったりとなった。

まだ死んだかどうかは分からない。しかし優子さんは、意識を失ったがまだ生きていた。この時松山はタンスからパンティストッキングがはみ出しているのを見つけた。

とっさにこのパンストを手に取り、優子さんの首に巻きつけて思い切り絞め上げた。

「この女がまだ生きていれば、自分がやったことがバレて、警察もクビになってしまう。やはり殺すしかない。」

そう思った松山はありったけの力で絞め上げ、完全に殺害した。そしてその後、優子さんの服を脱がせて強姦した。

行為が終わった後、強盗に見せかけるためにタンスから優子さんの衣類を出して部屋の中にまき散らした。さらに優子さんの財布から8650円を盗んだ。


やることはやった。後はここから逃げ出すだけのなのだが、服を着て帰り支度をしている最中、ふと何気なく割れた窓に目をやると、そこに一人の女性(家主であるA子さん)が立っていた。

松山は内心、飛び上がるほど驚いたが、ここは必死に冷静を装(よそお)って、

「女性が殺されている! 至急110番に電話してくれ!」

と、とっさに叫んだ。

「は、はい!」と、A子さんは返事をし、電話に向かって走り出した。とりあえず目撃者は追い払ったので、この隙(すき)をついて松山はアパートから脱出した。このまま自分の持ち場である派出所へ戻り、通常通りの勤務についた。


松山は第一発見者を装(よそお)い、強盗に見せかけるために部屋を荒すなとの小細工をしていたが、このようなことでごまかしきれるわけもなく、目撃証言や、顔のひっかき傷、ボタンのちぎれた制服など、証拠は揃い過ぎほど揃っており、厳しく追求されると犯行を認めざるを得なかった。

犯行当日の夜には事件はテレビで流れ、現職警官が勤務中に制服で行った殺人事件に世間は驚いた。松山は即日懲戒免職となった。

東京地裁で無期懲役の判決が下されたが、松山はすぐに控訴した。しかし昭和57年11月に東京高裁から控訴が棄却され、無期懲役の判決が確定した。

一方警察もマスコミ各社から糾弾を受け、北沢署の署長は引責辞任、土田警視総監も辞任し、戦後初めて警視総監が処分を受けるという異例の事態となった。東京都は国家賠償法に基づき、遺族に4360万円の損害賠償金を支払った。



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