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No.050 脱獄した死刑囚 菊池正・11日間の逃亡

一審・二審ともに死刑判決を受け、最高裁に上告中の菊池正が、窓の鉄格子を切断して東京拘置所から逃走した。だが菊池の脱獄は、自分が逃げることが目的ではなかった。


▼菊池正 逮捕される

昭和28年3月17日の朝、栃木県芳賀郡 市羽村(現・市貝町)で、従業員を含む一家4人の絞殺死体が発見された。

被害者はこの村で雑貨店を経営する一家で、全員が両手両足を縛られた上に首を絞められて殺されており、人口600人の小さな村はこの事件に騒然となった。

部屋はめちゃくちゃに荒され、女主人(49)と、女性従業員(18)の死体には強姦された跡があった。強姦死体に残された精液からは2種類の血液型が検出された。部屋の荒され方から見て、殺害後に金のありかを探したことは明白だった。


捜査は難航していたが、事件から72日目、現場から300メートルほどのところに住んでいた菊地正(27)が逮捕される。逮捕の決め手となったのは、菊地が現場から盗んでいた女物の腕時計であった。

あの日、金目当てで雑貨店一家に押し入った菊地は全員を殺した後、家中を荒して金を探した。しかし見つかったのはわずか2千円だけだった。その2千円と女物の腕時計を一つ、現場から盗み、すでに死体となっている女主人と従業員を犯して現場から逃走した。

しかし菊地は後日、妹にその腕時計をあげてしまったのだ。妹は当時東京に住んでおり、菊地の犯行は栃木である。まさか妹のところにまで捜査には来ないだろうとの判断で妹に腕時計を贈ったのだが、警察はその「まさか」で、菊地の妹の所にも事情聴取に来たのだ。

妹は何も知らずに贈られた腕時計をしていた。警察はそれを見逃さなかった。その腕時計に不信感を持ち、調べた結果、現場から盗まれた腕時計であることが判明した。このまま一気に菊地への逮捕へとつながった。

2種類の血液鑑定の出た精液は、後の鑑定で二つともA型の菊地のものと一致するとの結果が改めて出され、菊地本人も自分一人の犯行だと認めた。菊地は犯行日の前日に婚約しており、逮捕されたのは新婚一ヶ月目の時だった。


▼犯行の動機

菊池は父・母・兄・自分・妹の5人家族だった。犯行は金が目的であったが、菊池にとってそれは遊ぶための金ではなかった。菊池の母は白内障を患(わずら)っており、次第に目が見えなくっていく母親に何とか手術を受けさせたい、そのための手術代が欲しいという願いから、菊池はこの犯行に走ったのだった。

母は菊池が2歳の時に酒乱の夫と別れ、菊池が5歳の時に再婚した。しかしこの新しい父親は母に対して薄情であり、菊池が「おかやんに目の手術を受けさせて欲しい。」と頼んでもまるで取り合わなかった。

菊池自身も一生懸命働いてはいたが、もらう給料は微々たるものであった。また、菊池は、新しい父親と母の間で生まれた妹もたいそう可愛がっており、妹にも着物や化粧道具などを買ってやったりもしていた。その上で母の手術代など貯められるはずもない。

毎日のように母を自転車の荷台に乗せ、遠くの眼科に通った。しかし手術をしなければ回復の見込みはないという。考えたあげくに菊池が取った行動が強盗殺人だったのである。


▼判決・脱獄の決意

昭和28年11月25日、一審の宇都宮地裁は菊地に対して死刑の判決を下した。そして二審でも死刑判決が出された。菊池は再び裁判のやり直しを求めて上告する。残るは最高裁だけである。ここで上告が棄却されれば死刑が確定する。

昭和30年5月、事件から2年が経った。この時菊池は小菅(こすげ)の東京拘置所にいた。上告中で、最高裁の裁判待ちの状態であった。そんなある日、兄から手紙が届いた。菊池が事件を起こしたおかげで母が村八分になっており、つらい思いをしているということが書かれてあった。

元々家族思いの菊池であったから、逮捕されてからも母の生活のこと、妹の結婚のこと、畑のことなどが気になって仕方がなかった。その上で母での現実を知り、いてもたってもいられなくなっていった。

「母に一目会いたい。」その思いは強烈に菊池の頭を支配し始めた。

菊池は脱獄を決意する。

兄に脱獄の意思を伝え、協力を頼んだ。もちろん現代では娑婆(しゃば)の人間にそのようなことを伝えることは不可能であり、菊池がどういった手段で兄に意思を伝えたのかは分からないが、時代は昭和30年である。まだ監視や面会、手紙などにおいて、つけいるスキがある時代だった。


▼脱獄成功

しばらく経って兄から差し入れの本が届いた。ただの本ではない。本の背表紙の内側には金ノコの刃が隠されていた。この金ノコを使って房内の窓をさえぎっている3本の鉄棒を切断してその窓から脱走する計画だ。

音を立てないようにひっそりと長時間かけて丁寧に鉄棒を切っていく。この当時の鉄棒は鋳物(いもの)製であり、熱く溶かした金属を型に流し込んで固まった後に、型から取り出すという方法で作られていた。現代からすれば弱い部類に入る金属で、金ノコで切断することも不可能ではなかったのである。

もちろん切断出来るからといって、上下を切って完全に鉄棒を取り外してしまえば、次の日の朝の点検の時にすぐにバレてしまう。どのみち1日で終わる作業ではない。切るのは片端だけで、切っている途中や切断が終わった鉄棒はバレないようにごまかしておかなければならない。

幸い、菊池のいる独房には窓の外にアサガオが咲いていた。アサガオのツルを引き込み、鉄棒の切れ目を覆(おお)ってごまかした。

そして根気良く続けた結果、鉄格子の3本を全て切断することに成功した。ここまでは看守に気づかれていない。


東京拘置所では当時、毎日16時50分に夕点検が行われていた。看守が各房を見回りに来るのだ。その後19時から就寝の21時までは自由な時間となっている。本を読んだり手紙を書いたりするのが一般的であるが、横になることも許されている。

その時間、菊池は布団をふくらませ、あたかも自分が寝ているかのように見せかける小細工を済ませてから計画を実行に移した。

昭和30年5月11日20時ごろ、あらかじめ片端を切断していた3本の鉄棒を渾身(こんしん)の力で曲げて自分が通れるだけの空間を作った。そして菊池は計画通りこの窓から脱出することに成功した。

次に看守がこの房に点検に来るのは明日の朝7時だ。それまでに出来るだけ遠くに逃げなければならない。

窓から外の廊下に出た菊地は足音を殺し、渡り廊下を通って本庁舎の屋根の上を走り玄関先へと抜けた。

この東京拘置所は2年ほど前にも脱獄事件があり、その事件以降、屋根際に鉄条網が張られていたのだが、菊地は持って出た金ノコでこの鉄条網も切断した。最後の難関を突破し、ついに敷地の外へと出た。


ここからは速い。荒川沿いの道を全力で走り、すぐ近くの東武伊勢崎線の小菅(こすげ)駅を目指す。もちろん電車賃は持っていないので、土手の辺りの侵入出来そうなところから線路内に入り、そのまま駅のホームへと駆け上がった。無賃乗車である。

久喜駅でいったん降りて東北本線に乗り換え、栃木県宇都宮を目指す。

兄には
「新聞で脱獄が報道されたら宇都宮の総合グラウンドの○○へ来てくれ。」
と暗号で連絡をとっておいた。

とりあえずの目標地点はその総合グラウンドだ。宇都宮駅でも改札を通らず線路を走って囲いの甘いところから外へ出ることに成功した。

菊池が総合グラウンドへついたのは翌日12日の早朝だった。


▼脱獄発覚

一方、その12日の午前7時、東京拘置所では朝の点検が始まっていた。北舎3階の18房、つまり菊池のいた房の点検に来た看守は驚きの声を上げた。室内に誰もいない。窓の鉄格子は切断されて曲げられている。この窓から逃げたことは明らかだ。

「脱走だ!」

ただちに非常呼集がかけられ、拘置所内は大騒ぎとなった。

菊池のいた房には
「お詫びの申し上げようもありませんが暫日(ざんじつ)の命を許して下さい。」と書かれたメモが残してあった。

「暫日(ざんじつ)の命を許して下さい。」、これを拘置所側は「わずかな期間の自由を許して下さい。」と解釈した。菊池の母親思い・家族思いは拘置所側も十分に知っていたので菊池の脱獄の目的は母親に会いに行くことだと判断した。

脱獄を警察に知らせると同時にこのことも伝えると、すぐに菊池の実家の方へ警官や報道関係者が殺到し、張り込みに入った。


▼逃亡生活

菊池の方は、兄との約束の場所である総合グラウンドでひたすら兄を待っていた。待望の兄が現れたのは脱獄してから4日目に当たる5月15日の夕方である。菊池は三日半の間、ここでほとんど飲まず食わずで兄を待っていたのだ。

久しぶりの再開に兄弟は抱き合って喜んだ。ここまではうまくいったが、最終目的は兄と落ち合うことではなく、実家の母に会いに行くことである。2人は用心に用心を重ね、母のいる実家を目指した。総合グラウンドから実家までは約20kmある。

脱獄から7日目の18日の午前中、2人は市羽村(現・市貝町)の実家の近くの山にたどり着いた。
「ちょっと実家の方へ偵察に行って来る。」
そう言い残して兄は実家へと先に向かった。

だが兄はそのまま帰って来なかった。実家の方に警察が張り込んでいることは容易に想像出来る。もう戻って来れなくなったに違いない。

そして翌日の19日にはこの近辺の大掛かりな捜索が始まった。再び1人となった菊池はこの後2日間、山の中を逃げ回った。


▼母との再会

脱獄から11日経った5月22日の夕方、菊地は捕まる覚悟で実家へ行く決断をした。

兄からもらったヒゲソリでヒゲを剃(そ)って顔だけは体裁を整えたが、履物はワラぞうりで、服は拘置所のものを11日間着続けて泥だらけのボロボロである。見た目には乞食のようになっていた。

逃亡生活の間の少し足を痛め、杖をつきながら実家まで歩く。「警察が張っているに違いない。」そう分かっていながらもひたすら実家を目指した。そして23時過ぎ、ついに母のいる実家へとたどり着いた。

「起きろ!俺が帰ってきた!」

ドンドンと、家の雨戸を叩きながら菊地が叫ぶ。

しかし次の瞬間、家の中から、付近の陰から一斉に警察と報道陣が現れて菊地を取り囲んだ。

「菊地正だな。」

そう言いながら刑事が近づく。

別の刑事がすぐに両方から腕を取り、あっという間に菊地は拘束された。

「終わった・・。」

絶望感の中、それでも必死に母に会わせて欲しいと菊地は警察たちに頼み込んだ。

「一目だけでもいいからお願いします!」涙声で頼む菊地に心を動かされたのか、この菊地の願いは10分間だけ叶(かな)えられた。

刑事に両腕をつかまれたまま家の座敷に上げてもらうと、そこには思い焦(こ)がれた母の姿があった。妹も一緒だ。

「正、正、お前、生きていたの・・?」ほとんど目の見えなくなっていた母親が涙を流して呼びかける。

菊地は「おかあやん・・。」と言ったまま泣き出し、後はほとんど言葉にならない。

「もう死んでしまったのかと思ってた・・。」
「こうするより仕方がなかった・・・・悪い男でした・・。」

涙ながらに再会出来た菊地に、妹が生タマゴとカレー汁を出した。

「菊地、そろそろ行こうか。」と刑事に言われ、再会は終わった。

「元気でな・・・。仲ようやってくれ。」最後に別れの言葉を贈り、菊地は刑事に付き添われて去って行った。


▼死刑執行とその後

菊地は再び東京拘置所に戻った。脱獄から1ヶ月が過ぎた昭和30年6月28日、かねてから菊地が出していた上告が最高裁に棄却された。この時点で菊地の死刑は確定した。

今度は懲罰(ちょうばつ)房に入れられ、同じ拘置所内の人間の前にも姿を現すことはなかった。

11月21日、菊池は仙台へ押送(おうそう)された。当時、死刑執行施設がなかった東京拘置所では、死刑確定者は宮城県の宮城刑務所仙台拘置支所へ送られ、そこで刑を執行することになっていた。「仙台送り」と呼ばれ、死刑の代名詞として受刑者たちから恐れられていた時代である。

普通は情緒の安定などが考慮されて、仙台で数ヶ月を過ごした後に刑が執行されるのだが、菊池の場合は仙台の押送前に花村四郎法相によって執行命令が出されていたために、仙台に着いた翌日の朝11時半に刑が執行された。

菊池も覚悟は出来ていたようで「いろいろと迷惑をかけましたが、私が死ねば家族も明るい生活が送れるでしょう。」と言い残し、処刑場に向かった。


この当時には、全国あちこちの刑務所や拘置所からの脱獄が何件も起こっている。もちろん、当時としては考えられる限りの厳重な警戒態勢を敷いていたのだが、昔のことゆえ、建物の構造や建築物の材質、監視システムなどは現代ほどには及ばずに脱獄を許してしまっている。

しかしほとんどの脱獄者が、その日のうちか翌日には捕らえられており、中には6日間逃げた者もいるが、それにしても菊池の11日間というのは異常な記録となっている。

東京拘置所では、菊池の脱獄の2年ほど前にも鉄ヤスリで窓の鉄格子を切断して脱獄した者がおり、この時に「独房の鉄格子を鋳物(いもの)製にしておくのは危険なので、特殊鋼にするべきだ。」との意見が出されていたが、そのまま改善はされていなかった。

そして今回、菊池も同様の手口で脱獄した。二件とも同じ拘置所長の任期中に起こった事件で、国会でも鉄格子の件は指摘され、拘置所長は責任を取って辞職せざるを得なくなった。その後東京拘置所では建物の徹底した検査と大改修が行われ、職員も大量に処罰を受けることとなった。



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