Top Page 現代事件簿の表紙へ No.065 No.063
戦中から戦後にかけて、太平洋の小島・アナタハン島に日本人の女が1人と男が32人取り残されてしまった。軍に救助されるまでの6年間、女をめぐっての殺人や行方不明者が相次いだ。 ▼アナタハン島の比嘉和子(ひか - かずこ) 終戦間近の昭和19年(1944年)、当時この島には日本企業である「南洋興発」が進出しており、ここでヤシ林を経営していた。 比嘉和子(ひか - かずこ)(24)はこのアナタハン島に住んでいた。和子の夫・正一が南洋興発の社員であり、アナタハン島に転勤になったためだ。 島にいる日本人は、比嘉和子と夫の正一、そして夫の上司である中里(仮名)の3人。この当時和子は、夫と同居はしていたものの、夫の上司である中里とも夫婦同然の関係となっていた。 そしてその他に、島に元からいる原住民が45人ほど住んでおり、中里や和子の夫は、この原住民たちを雇って農園を経営していた。 この時、時代は戦争中であり、サイパンも激戦地となりつつある時だった。ある日、和子の夫はパガン島にいるはずの妹が心配になり、妹を迎えに行くと言って島を出ていった。だが間もなくサイパンは攻撃され、和子の夫はそれっきり消息不明になってしまった。 夫が島を出ていってから2日後、アナタハン島は米軍の空襲を受ける。爆撃の中、和子と中里はジャングルに逃げ込み、命だけは何とか助かったものの、家に戻ってみるとあたりは焼野原となっていた。 飼っていた40頭の豚と20羽のニワトリはかろうじて残っていたが、住む所にも着るものにも困るような生活になってしまった。 夫が出て行ったため、島に残っている日本人は、和子と夫の上司である中里の2人だけになってしまった。これからは2人で力を合わせて生きていくしかない。この、中里もサイパンに妻と子供がいたのだが、間もなく和子と中里は、夫婦生活を始めるようになった。 ▼31人の日本人が流れつく 昭和19年(1944年)6月12日、この日、アナタハン島の近海を、トラック諸島に向けて進んでいた日本のカツオ漁船の数隻が、米軍の攻撃を受けた。 これによりカツオ漁船は、3隻が沈没し、1隻が大破した。沈没した3隻の乗組員たちは何とか脱出し、アナタハン島に泳ぎ着いた。また、大破した1隻も何とかアナタハン島まではたどり着いたものの、そこで更に空襲を受け、この1隻も焼失してしまった。 漁船4隻分、合計31人の男たちがアナタハン島にたどり着くこととなった。彼らは大半が20代で、最年少は16歳の少年だった。この31人のうち、10人は軍人で、21人は軍属船員であった。 乗って帰る船のなくなった彼らは、仕方なくこの島で生活を始めた。島内を歩いてみると、バナナやパパイヤなどが自然に生えていた。タロイモもあったので、食べ物は何とかなりそうだ。 彼らは最初は乗っていた船ごとに分かれて生活していたが、そのうち全員で共同生活をするようになった。 漂着して来た男たちは、すぐに和子や中里とも出会った。和子も中里も、この遠く離れた地で同じ日本人に出会ったことを喜び、食糧を分け、怪我の手当てもしてやった。
彼らは海で魚を獲(と)り、果物の栽培を始め、コウモリやトカゲ、ネズミ、ヤシガニなども獲(と)って食べた。生きるための戦いが始まった。 何とか食糧確保が軌道に乗ってくると、原住民からヤシの樹液を使って酒を造る方法を習い、みんなで酒を飲めるほど、食生活は落ち着いてきた。 だが食べるものは何とかなったものの、他のものは圧倒的に足りない。服もろくにないような生活であり、和子は木の皮で作った腰ミノに上半身裸という姿、他の男たちは元から着ていたボロボロの服や、木の葉で前を隠すだけという格好だった。 昭和20年(1945年)8月、日本の敗戦で戦争は終結した。だが、島に残された彼らはそのことを知らない。 終戦を知らせる米軍の呼びかけが再三に渡って行われたが、島内の日本人でそのことを信じる者は誰もいなかった。米軍がビラをまいて投降を呼びかけたが、ビラを拾う者さえいなかった。 日本の領土でなくなった島からは原住民が全て逃げ出し、島の中には日本人だけが残されることとなった。 この島に残っている女性は比嘉和子ただ1人。そして男は32人。 当然、女をめぐっての争いが予想された。島に漂着して来た者の中で最年長の男が、この島に元々いた和子と中里に、夫婦になるように提案してきた。2人が皆の前で結婚してくれれば、他の者もあきらめがついて、島内での争いを防ぐことが出来るだろうと考えたのである。 和子と中里は島で結婚式を挙げ、2人だけ皆とは離れた所に住んでもらった。 ▼拳銃を手に入れた2人 昭和21年8月、彼らは山の中で、墜落した米軍の戦闘機・B29の残骸を発見した。残骸の中からパラシュートを6つ、缶詰、他にも生活に役立ちそうなものを色々と見つけた。 和子はこのパラシュートの布を持ち帰り、自分の服やスカートなどを始め、他の人たちの服も出来る限り作ってやった。やっとある程度まともな格好が出来るようになった。 この時、この事故現場から少し離れた所で、男たちは拳銃を4丁と実弾70発を見つけた。 拳銃はどれも壊れていて使い物にならなかったが、銃に詳しい男が拳銃を組み立て直し、「使える拳銃」を2丁完成させた。銃は、組み立てた男と、その親友の男が1丁ずつ持つことになった。 2人の男が武器を持ったことで、これまでの集団の中に力関係が発生した。2人の男は銃によって絶対的な権力を持つようになったのだ。 すぐに2人は銃で脅して和子を抱くようになった。和子には中里という夫がいたが、2人はお構いなしだった。和子は3人の男と夫婦生活を送ることになった。 それからしばらくして、不審な事件が起こった。1人の男が木から落ちて死んだのだ。この時、現場の近くにいたのは、銃を手に入れた2人の男たちだった。そして木から落ちて死んだのは、この2人とは普段から仲の悪い男だった。 島内に異様な雰囲気が流れた。 「あの2人が銃で脅して木に昇らせ、転落死に見せかけて殺したんじゃないか?」 証拠はなかったが、みんなが殺人を疑い始めた。 そして数ヶ月後、今度は銃を持っていた1人が、普段から和子にしつこく言い寄っている男を射殺した。 島内で殺人が起き始めた。 2人の支配はこの後も続いていたが、翌年の昭和22年、銃を持っていた2人の男は仲間割れを起こした。2人が酒を飲んでいてケンカになり、片方が「2、3日の間にお前、ブッ殺してやる!」と言ったのだ。 しかしこのセリフを言った方が逆に射殺された。 2人がケンカになった原因は和子のことである。和子の正式な夫である中里は、次は自分が殺される番かと恐怖した。射殺した男に和子を譲って、自分は身を引くことを宣言した。 相手の銃を手に入れ、2丁の銃を持ったこの男が今度は絶対的な支配者となった。和子とも夫婦生活を始めた。 しかし、この支配者も、それからしばらくして夜釣りをしている最中、海に転落して死んでしまった。事故なのか殺人なのか分からなかったが、不審な死に方だった。 最初に銃を手に入れた2人は両方とも死んだ。この後この2丁の銃は、中里と、岩井(仮名)という男が持つことになった。 今度は中里と岩井と和子が同居することになった。銃を持っている男が和子を手に入れることが出来るという雰囲気になってきた。 だがこの生活も長くは続かなかった。一ヶ月後、岩井が中里を射殺したのだ。岩井は中里の銃も手に入れた。今度は岩井が支配者のごとく振るまい、和子と夫婦になった。 しかしこの岩井も2年後に刺殺されてしまう。 銃を持っての権力争いに付随(ふずい)して島の中では、崖から転落して死んだ男、食中毒で死んだ男、いきなりいなくなった男などが次々と出始めた。 ここまでで、9人の男が死んだ。中には本当の事故死や病死もあったかも知れないが、殺された者が一番多いことは明らかだった。このままではいつまでも殺し合いが続いてしまう。 この状態を何とかしなければと、島の最年長の男がみんなに提案を持ちかけた。 和子を正式に結婚させ、その夫と暮らすこと、みんなはその2人に手出ししないこと、そして殺人と権力の元凶である拳銃を海に捨てることである。 幸い、最後に銃を持っていた岩井が殺されて以降、そのような支配者は現れていなかった。だが銃自体はまだ残っていたので、またいつ、銃による支配を考える男が出てきてもおかしくはない。 島の男たちは、和子に自分の好きな男を選ばせて、皆の前で結婚式を挙げ、銃は海へ捨てられた。 このことはこの島にとって大きな区切りとなった。これからは平和な島になると誰もが思ったが、現状はあまり変わらなかった。この後も4人の男が死んだり行方不明になったりした。 最初の殺人が起こってからすでに5年が経っていた。32人いた男たちは、19人になっていた。 和子に正式な夫を決めても、銃を捨てても和子をめぐっての殺人は起こる。 「どうすれば殺し合いをやめられるのか」 残った男たちは会議を開いた。そこで出された結論は「和子を処刑する。」ということだった。和子がいるから殺人が起こる。 明日、和子を殺そうということで全員が一致した。 だがその日の夜、1人の男が和子の小屋を訪ね、このことを伝えた。 「逃げろ。殺される。」
だが、つらい逃亡生活に入って33日後の1950年6月、和子はアメリカ船が沖をいるのを発見した。すぐに木に昇ってパラシュートの布を振って大声で叫び、救助を求めた。 アメリカ船が近づいて来た時、男たちはまだ戦争終結を信じていなかったために隠れており、和子は無事、このアメリカ船によって救助してもらうことが出来た。 孤島での生活は6年間に及び、その間、殺された者と行方不明になった男は13人に昇った。 和子はこの後、サイパンに送られてそこで一ヶ月を過ごし、グアムに滞在した後、日本に帰って来ることが出来た。救助されてから和子は、この島で起こった出来事や島に残っている日本人の名前、男たちの元の所属など、出来得る限り細かく伝えた。 ただちに彼らの両親や兄弟、妻などにこのことは伝えられた。島の男たちはまだ戦争終結を信じていない。それぞれの両親、妻たちからの200通以上の手紙や日本の新聞がアナタハン島に届けられた。アメリカ軍も島から出てくるように呼びかけた。 それでもまだ、島に残った男たちは、これをアメリカ側の罠と思い、戦争終結を信じようとしない。 和子が島を出て行って1年以上経った昭和26年6月9日、一人の男がこの呼びかけに応じて投降した。自分宛てに来た手紙の封筒が妻の手作りだとはっきり確信出来たからである。この男もアメリカ船に無事救助され、残っている島の男たちに対してスピーカーで説得を行った。 6月26日、この男の呼びかけに応じ、ついに島の男たちは敗戦の現実を受け入れ、全員が降伏してアメリカ船に救助された。彼らはいったんグアムの米軍基地に送られ、その後日本に帰されることとなった。 昭和26年7月26日、飛行機で羽田に降り立った時には、全員が泣いていたという。 マスコミは大々的に報道し、羽田にも、帰還した兵士たちを一目見ようと多くの人々が訪れた。アナタハン島で生存していた男たちは、てっきり全員戦死したものと思われており、戦死の公報も送られていたため、ほとんどの男はすでに葬儀も行われていた。 奇跡の生還として、自分の遺影を持った写真などがマスコミによって報道された。 和子の本来の夫であり、島を出てから消息不明になっていた正一は、すでに帰国しており、和子が死んだものと思って、沖縄で別の女性と結婚していた。 また、アナタハンから帰って来た別の男も、妻が他の男と結婚していたり、愛人がいたりといった事態がいくつも起こった。 中には、妻が、自分の弟と結婚して子供までいたという男もいた。これは話し合いの結果、妻は本来のアナタハンから帰って来た男の妻に戻り、弟との間に出来た子供は養子として迎え入れたようである。 そして、島に流れ着いた4隻の漁船の、他のメンバーについての尋問が行われたが、生還して来た男たちは、みんな「彼らは事故死した」と証言した。だがより詳しく聞いてみると、それぞれで話が食い違い、更に追求した結果、アナタハン島で和子を巡っての殺人や行方不明事件があったことが明らかになった。 このことも大々的に報道され、新聞や雑誌では和子のことを「アナタハンの女王」「32人の男を相手にハーレムを作った女」「女王蜂」「獣欲の奴隷」「男を惑わす女」などと書きたてた。 中には、生きるために仕方なかったと同情的な記事もあったが、大半の記事は和子を非難・中傷したり、事件を面白くするような書き方であった。 人々の好奇の目は和子に集中し、和子のブロマイドが爆発的に売れた。日本はアナタハンブームになり、当分の間、話題で持ちきりとなった。 和子には舞台の話が持ちかけられ、和子の主演で「アナタハン島」という芝居が作られ、昭和27年(1952年)から2年間、全国を巡業した。 また映画「アナタハン島の真相はこれだ!」が和子の主演で製作された。ハリウッドの映画界・スタンバーグ監督による「アナタハン」も完成し、和子は時の人となった。 ただ、和子は、超がつくほどの有名人にはなったものの、それは決して良い意味で名前が知られたわけではなかった。 男をたぶらかして何件もの殺人を招いた悪女のような書き方をされており、和子は芝居が落ちついてからは沖縄で「カフェ・アナタハン」を開いて商売をしていたのだが、相変わらずの報道に沖縄に居づらくなり、本土の方へ引っ越してきた。 東京でしばらくストリッパーをやっていたが再び沖縄へ帰り、34歳の時に再婚した。新たな主人と、たこ焼きとかき氷の店を始め、店も繁盛して、ようやく平穏な生活を取り戻すことが出来た。和子が40代半ばの時に夫が死去し、和子自身も49歳で脳腫瘍により、その波乱の人生を閉じた。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.065 No.063 |