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No.070 実の父親を殺害・相澤チヨ

子供のころから父親に近親相姦を強要されてきた娘が、父を殺害。
▼事件発生

昭和43年(1968年)10月5日、午前10時ごろ、栃木県矢板市の、ある雑貨店に子供を連れた女性が入って来た。

この女性の名は相澤チヨ(29)。

普段からこの店にちょくちょく買い物に来ている常連客である。この店の店主夫婦とも親しい間柄になっていた。しかしこの日は様子が違っており、思いつめた顔をしていた。

「おばさん、今、父ちゃんを殺しちゃった。ヒモで絞め殺しちゃった・・。」

チヨは店に入ってくるなり、こう告げた。

「え?!」
店番をしていた奥さんはびっくりした。チヨはその場で声を上げて泣き始めた。

冗談とは思えない態度に、奥さんは、すぐに警察に通報した。まもなく警察が駆けつけ、チヨの住む市営住宅を捜査すると、証言通り、チヨの父親である政吉(52)が絞殺され、遺体となっているのが発見された。チヨはその場で逮捕された。

娘が自分の父親を殺すという、普通では考えられない犯罪に世間の注目は集まった。だが、捜査が進展してくると、そうなってもおかしくない理由が次第に明らかになっていった。

この時、チヨは3人の子供を持つ母親だった。

だが問題なのは、それが近親相姦によって、実の父親との間に出来た子供だったということである。

チヨと父親は夫婦同然の生活を送っており、そしてそれは父親から強制されていた生活だった。


▼中学生の時に初めて父親から犯される

昭和28年、この当時、チヨの一家は栃木県内の、ある借家で暮らしていた。家族構成は、父(政吉)と母、それに子供が7人の、合計9人家族だった。

チヨはこの中の長女であり、妹が2人と弟が4人いた。この借家は2部屋しかなかったので、この2部屋で一家9人が生活をしていた。

昭和28年当時、チヨは中学2年生で14歳。この年に初めて父親から犯されることになる。

ある夜、父親の政吉が、突然チヨの布団の中に入って来てチヨの身体を触り始めたのだ。チヨもびっくりして最初は抵抗はしたものの、周りで寝ている家族を起こしては悪いという意識から、じっと耐え、結果的になされるがままに犯されてしまった。

この一線を越えた1回目を境に、政吉はたびたびチヨの身体を求めてくるようになっていった。数日に1回の割合でチヨの布団の中に入ってくる。

「母ちゃんに言ったら承知しねえぞ!」

母親にバレないように、父・政吉はチヨに脅しをかけ、口止めをしていた。



しかしこうした生活が1年ほど続いた後、ついにチヨは耐え切れず、母親に全てを打ち明けた。チヨから話を聞いた母親は愕然となった。

普段は従順な妻であったが、この時ばかりは怒りに震え、政吉に対し

「よくもそんな恐ろしいことを!実の娘にあんなことをするなんて、あんたはケダモノだよ!」
と激しくののしった。

これに対し政吉は、反省するどころか逆に開き直り

「ガダガタぬかすとブッ殺すぞ!」と、刃物を持ち出して妻を怒鳴った。
「自分の娘を自由にしてどこが悪い!」


と、口論のあげく、妻を何回も殴った。

これをきっかけに政吉の家庭内暴力は激しさを増し、耐え切れなくなった妻は、チヨと、その下の次女の2人を政吉の元に置き去りにし、他の5人の子供を連れて北海道の実家へと帰ってしまった。


▼父と2人きりの生活が始まる

この時から政吉と娘2人の生活が始まり、チヨが母親の役目を果たすようになる。間もなくして次女は中学を卒業し、東京の会社へと就職が決まり、家を出ていってしまった。

妹が出て行ってしまった後、チヨは政吉と2人きりの生活となった。
政吉は、相変わらず酒に酔ってはチヨの身体を求め、一晩に2回や3回も普通になった。父と娘は夫婦同然の生活となっていた。

時は流れて、昭和31年、母親が子供たちを連れて北海道から帰って来た。やはり家族は一緒に暮らすべきだと、チヨの件について、改めて政吉と話し合いの場を持った。

話し合いには、母の兄も同席した。2人で政吉に「チヨには二度と手を出さない」と約束させ、母の兄が住む家の敷地に、新しく政吉一家の家を建てさせてもらうことになった。

完成した新居で再び一家全員で暮らすようになったが、最初の約束などは全く守られることはなく、政吉は相変わらずチヨの布団の中に入ってきては、チヨの身体を求めた。

見つけるたびに母は止めに入ったが、逆に殴られ、怒鳴られた。母から相談を受けていた兄も、政吉を止めに入ったり説教をしたりしたが全く聞き入れず、政吉はこの兄にも殴りかかるほどだった。

17歳の時、ついにチヨは妊娠した。もちろん、子供の父親は自分の父親である。
ショックを受け、どうしていいか分からなくなったチヨは、とにかく父から逃げようと、知り合いの男と一緒に家を出て、黒磯市に逃げた。

だが逃げられたと気づいた父親は、必死にチヨを探し回り、ついにはチヨと男の居所を突きとめてしまう。相手の男を怒鳴り散らして脅しをかけて追い払い、父親はチヨを強引に連れ戻した。



この一件があってから父親は、チヨを連れて、一家全員で住んでいた家を出た。県営住宅を借りて、ここで再びチヨと2人きりの生活を始めることにしたのだ。

チヨは反抗も出来ず、父についていくしかなかった。

この住宅は3軒長屋のうちの1軒で、この後、チヨはここで12年間暮らすことになる。チヨはこの家で最初の子供を出産した。

子供が産まれてからは、ますます、もう父親からは逃げられないという感情が強くなり、ほとんど諦めの状態だった。

父は相変わらず酒を飲み、チヨを求めてくる。この長屋に住んでいる間にチヨは5人の子供を産み、5回の中絶をした。5人の子供のうち2人は生後間もなく死亡したが、3人は育った。


後にチヨは不妊手術も受けている。

近所の人もこの一家の内情のことは気づいていたようで、すでに色々と噂にもなっていたようである。


▼社内恋愛も破局、父を殺害

昭和39年、チヨは25歳の時、印刷会社に就職した。
会社にいる間は父の束縛からも逃(のが)れることが出来る。チヨは、ここで同年代の女性たちと他愛もないことをしゃべり、一緒にご飯を食べ、家にいる時よりもはるかに楽しかったという。社員旅行にも行った。

そして昭和43年、この会社で29歳になったチヨは、社内恋愛を始めた。相手は7歳年下の男性工員だったが、チヨは夢中になった。

父には残業だと嘘をつき、会社が終わってからデートを重ねた。2人の仲はますます親密なものになり、ついにはプロポーズを受けた。相手の男性としても、チヨに子供がいることを知った上でのプロポーズであった。

チヨは夢心地のような思いで帰宅し、父に彼氏のことを説明し、結婚を申し込まれたことを告げ「結婚してもいい?」と尋ねてみた。

だが、娘の結婚を喜ぶような父ではないことは最初から分かっていた。父は激怒した。

「そんなことをしたら俺の立場はどうなる!」
「今から男の家に行って話をつけてきてやる!」
「そいつをブッ殺してやる!」


チヨは怒鳴り散らされた。父の怒りは頂点に達している。このままでは彼氏にも大変な迷惑がかかってしまうし、彼の家に乗り込んで殴ることぐらい、この父だったらやりかねない。

「ごめんなさい!もう、会社は辞めるから!ずっと家にいるから!」

チヨは恐ろしくなり、父の怒りを沈めるためには、こう言うしかなかった。最初から分かっていたことだったが、やはり結婚は駄目だった。



しかしだからといって、そう簡単に諦められるものではない。チヨは、もうこの家からは逃げ出して彼と一緒になる決意をした。

彼に電話をし、駅で待ち合わせ、彼のところへ連れて行ってもらうことにした。急いで荷物を準備し、着替えて出発しようとしていたところへ、父・政吉が酔って帰宅して来た。最悪のタイミングだった。

用意していた手荷物を見れば、家出しようとしていたのが分かる。父は激怒した。チヨを怒鳴り散らし、暴行を加え、服を引き裂き、下着までも引き裂いた。騒ぎを聞いて近所の人が駆けつけてきたが、おかまいなしだった。

さすがにこの時は近所の人たちが、何とか父を抑えてくれたが、そのスキにチヨは泣きながら半裸姿で家を飛び出した。

まだ諦めてはいなかった。チヨは駅に向かうバスに乗ろうとバス停に走った。しかし、すでにバスは通過した後だった。チヨは再び父親に連れ戻されてしまった。

この日以来、チヨはほとんど監禁状態となった。家から出させてもらえない。外部とも連絡が取れない。

「逃げたら3人の子供を始末してやる。」
「一生不幸にしてやる。」


ことあるごとに父はチヨをこう言って脅した。そして酒によっては身体を求めてくる。拒否すると殴られた。

この父がいる限り、自分の一生はメチャメチャだ、結婚なんてとても出来ない、自由も何もない。子供を殺すとまで言われて、チヨの我慢も、もう限界だった。

ほとんど監禁状態にされてから10日後、チヨは、部屋にあった父の作業用のヒモを掴(つか)むと、相変わらず酒に酔って怒鳴り、グダグダと説教する父を一気に押し倒した。
すばやく父の首にヒモを巻きつけた。この直後、チヨは、思い切り父の首を絞め上げた。

父はすぐ動かなくなった。手を緩(ゆる)めると、父は布団の上に崩れ落ちた。



▼異例の判決

事件が報道され、この異常な親子関係が明るみに出ると世間の注目は集まった。それと同時にチヨへの同情の声も多く上がった。

昭和48年(1973年)4月4日、最高裁判所で出されたチヨへの判決は、懲役2年6ヶ月、執行猶予3年だった。殺人としては異常なほど軽い判決だった。

この当時「尊属殺人罪」という罪があり、これは自分の親(配偶者の親も含める)、祖父母、曾(ひい)祖父母などを殺すことで、一般の殺人よりも罪が重く、死刑か無期懲役と定められていた。

父親を殺したチヨは、本来であれば、この尊属殺人罪を適用されて死刑か無期懲役になるはずだった。

しかし判決では、尊属殺人罪は適用されずに、一般の殺人と同様に扱われ、そこに至るまでの経緯や動機などを考慮の上で、情状酌量され、懲役2年6ヶ月という温情判決となったのだった。


▼「尊属殺人罪」について

自分を育ててくれた親を殺すことなど、人間としてあるまじき行為であり、親殺しは重罪であって、死刑か無期懲役にすべきだとするのが、この尊属殺人罪の考え方である。確かにその通りだといった感もするし、この法の存在も納得出来る。

だが、このチヨのように、子供のころから父親に虐待され犯され、自由も奪われて「殺すしかない」というところにまで追い詰められた人間に対しても、「父親を殺したのだから死刑か無期懲役」という判決を下すことは、正しい判決とは言えない。

また、親殺しは重罪であるとするなら、他人を殺した場合なら重罪ではないのか、ということにもなる。

日本の憲法によれば、全ての国民は法の下に平等であるとされている。

尊属殺人罪は、殺した相手が親だから他人だからと、相手によって罪の重さが違うという刑法であって、これは憲法の「全ての国民は平等」という精神に反するのではないかという議論が、チヨの一連の裁判中に巻き起こった。

親を殺しても他人を殺しても、殺されたのは同じ人間とし、親だから即、罪が重いとするのではなく、それぞれの事件について被害者と加害者の関係や状況、動機などを考慮して、公平な判決を下すべきである、という意見である。

最高裁では、尊属殺人罪が日本の憲法に反するとしてこの刑法を無効とし、チヨの判決には適用せず、一般の殺人と同様な判断で判決を下した。

この判決は違憲判決と呼ばれ、これ以降、尊属殺人は死刑か無期懲役という規定は適用されることはなくなった。

この尊属殺人罪、尊属傷害致死罪などは平成7年の刑法改正で、削除されている。



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