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No.071 「日本は戦争に勝った」と信じ切ったブラジル「勝ち組」騒動

第二次世界大戦終了後、地球の裏側・ブラジルでは、そこに移民していた日本人のたちの間で「日本は勝った」「いや、負けた」と意見が真っ二つに分かれ、その対立は殺人事件にまでエスカレートしていった。
▼戦争終結。その時ブラジルでは・・。

1945年、第二次世界対戦が終結した。日本ではポツダム宣言を経て、無条件降伏文書に調印し、日本にとって戦争は「敗北」という形で終了した。

これ以降、日本はアメリカの支配下に置かれることになる。

そして終戦後、日本にとっては地球の裏側の国に当たるブラジル。

この当時でもブラジルには多くの日本人が移住して住んでいたが、ブラジルに住む彼らの間では

「戦争は終わった。日本はアメリカに勝った。」

と、「勝った勝った」と大騒ぎになり、各地で戦勝祝賀会が次々と開かれていた。


まるっきり現実と正反対の話がブラジル国内の日本人の間を駆け巡っていたのだ。当時ブラジルに移住していた日本人は約30万人と言われ、そのうちの90%が「日本は勝った」と信じていた。

もちろん戦争終結のニュースは世界中に報道され、ブラジルでも日本の敗戦、アメリカの勝利は伝えられたが、彼らは逆に「日本が負けたというデマ」が流されていると解釈した。

日本が勝ったと信じていた人たちを「勝ち組」、負けたという事実を素直に受け入れた人たちを「負け組」と呼ぶ。

現在「勝ち組」「負け組」と言えば、一般的には、勝ち組は社会的に成功し、高い収入を得ている人たち、負け組はその逆といった解釈が普通であるが、もともと「勝ち組・負け組」という言葉はここから派生したものである。

「神の国・日本が負けるはずがない」と固く信じていた人たちにとっては、「日本が負けた」と口にする「負け組」の人々は断じて許すことの出来ない存在であった。

「負け組の奴らは、祖国を侮辱する『国賊』である。」

勝ち組の人たちは、そう解釈していた。

勝ち組と負け組はいがみ合い、確執を深めていった。だが、勝ち組が圧倒的に多い現実の中、負け組は.勝ち組と戦うと言うよりも、むしろ勝ち組に虐待される運命をたどることとなった。



▼なぜ圧倒的多数が、勝ち組となったのか

1945年7月、この敗戦間近の時期、ブラジルのサンパウロに「臣道連盟(しんどうれんめい)」という、ブラジル在住の日本人による組織が結成された。

祖国である日本を応援し、勝利を信じる組織である。7月に発足して、12月には会員が3万世帯にもなったというから、急成長の組織である。それぞれの世帯の家族全員が会員とみなすと、会員数は全部で12万人にも昇った。

ブラジル国内の日本人からすれば、これはあまりにも巨大な組織である。

結局発足して一か月程度で日本は敗戦を迎えたのであるが、発足してからこの臣道連盟(しんどうれんめい)は、戦争における日本の情報を次々と印刷物として発表していき、ほとんどそれが、ブラジル国内における日本人の標準的な情報となっていった。

当時臣道連盟(しんどうれんめい)が当時配布した情報として、次のようなものがある。

「米国の8倍の破壊力を持つ日本の原子爆弾で、犬吠崎沖に集結した米英艦隊400隻が全滅」

「日本の高周波爆弾により、沖縄の敵15万人が15分で撃滅」

「日本軍の放った球状の火を出す兵器により、米国民3,650万人が死亡」

「ソ連、中国が無条件降伏。マッカーサーは、捕虜となり、英米太平洋艦隊は武装解除」

「日本軍艦の30隻、ハワイへ入港。米大統領は日本が指名」

日本は原子爆弾を持っていて、「高周波爆弾」という超未来型爆弾も持っていたという。「高周波爆弾」の意味はよく分からないが。
それに球状の火を出す兵器」とは何だろうか。

この情報を読む限りでは、日本は世界最強であり、無敵である。アメリカ、イギリス、ソ連も中国も敵ではない。

遠く離れた異国の地で日本の勝利を心から願い、そしてこの情報。

臣道連盟(しんどうれんめい)以外の情報源としては短波放送があったが、当時短波放送が受信できるラジオは非常に高価であり、持っている人間もほとんどいなかった。それに受信状態も極めて悪く、よく聞き取れない様な状況だった。

それに加えて、第二次世界大戦では日本とブラジルは敵国同士だったので、ブラジル国内では日本人は相当な制約を受け、肩身の狭い思いをしていた。

日本語の出版物や新聞は廃止され、日本人同士の集会も禁止されていた。日本語学校も閉鎖され、ポルトガル語で書かれた現地のブラジルの新聞も読める日本人はほとんどいなかった。

心のよりどころは、臣道連盟から発行された、「圧倒的日本有利」の情報だけだった。

このような状況の中で、ポルトガル語の新聞の読める日本人が、あるいは短波放送でポツダム宣言の受諾を聞いた日本人が「日本は負けた」と彼らに伝えたとしても、それは全く信じるに値しない情報でしかなかった。

「日本は勝った。負けたというのはニセ情報だ。」

誰からというわけでもなく、各地でこのような声が上がり始めた。そしてこの話は大半の人が固く信じていくこととなった。



▼狙われたハッカ工場

話の時間は少し戻るが、まだ臣道連盟が誕生する前、終戦の一年ほど前から、ブラジル国内では、日本人の経営するハッカ工場が、同じ日本人によって次々と放火されるという事件が相次いでいた。

ハッカとは、今ではあまり聞かれなくなった言葉であるが、昔はお菓子やのど飴に入れられていた香料で、食べると口やノドがスース―する。

現在一般的な「ミント」とか、たばこのメンソールと同じような効果がある。

ハッカ自体は植物であり、これを採取して食用の香料として加工したり、油を抽出したりしている工場がブラジルには多くあり、日本人の経営する工場はこの当時でも技術的に優れていて繁盛している会社が多かった。

これも戦時中ゆえの思考になるが、当時「薄荷(ハッカ)国賊論」という出版物がブラジル国内の日本人の中で出回っていた。

その文書によれば、

「ハッカを肌に塗れば肌がスースーする。それと同じ原理でアメリカの戦闘機はエンジンにハッカを塗ってエンジンを冷やしているから性能がいいのだ。」

「ドイツの科学者の研究によれば、ハッカをニトログリセリンに混ぜると爆発力が300倍になる。

火炎放射機に混ぜると火力は数倍に増える。

毒ガスに混ぜると防毒マスクも効かなくなると言う結果が出ている。」

といったことが書かれていた。現代からすれば、誰もが冗談として聞き流すようなことばかりだが、当時の日本人たちはこれを信じた。

ハッカを栽培してアメリカに輸出している日本人は、アメリカに武器を打っているようなものであり、祖国日本の敵だと判断したのだ。

また、ハッカ農家の多くはブラジルでは成功をおさめ、裕福なものが多かった。大半の日本からの移民は洗濯屋などをして細々と生活していたのであって、彼らに対するひがみもあったのではないかと言われている。

「敵に協力する者は許せん。」

と、ハッカ工場や農家は、過激な人々のターゲットされた。

こういった意識は、後(のち)の過激な勝ち組の行動へと変化していく。


▼「負け組」を殺害していく「勝ち組」

1946年3月7日、サンパウロから460km離れた町バストスで、産業組合の理事をしていた清部幾太が殺害された。彼は夜中にトイレに行ったところを、待ち構えていた勝ち組みの過激分子に射殺されたのだ。

清部幾太は日本敗北を主張する「負け組み」だった。これが勝ち組みが負け組みを殺害した初めての事件で、この事件を皮きりに、負け組みは合計23人が殺害されることとなった。

テロ行為を実行していた勝ち組みのメンバーは、自分たちを「特行隊(とっこうたい)」と名乗った。「とっこうたい」は、本来なら、特「攻」隊という字であるが、ブラジルでラジオの音声のみを聞いていた彼らは、そこまで分からずに「行」という字を当てたのだと言われている。

殺害までされずとも、各地で負け組みは襲撃を受け、小包爆弾を送られた者もいた。

負け組みを襲っていた勝ち組みの中には、「戦時中はお国にために役に立てなかったが、負け組みを殺害することで、ようやくお国の役に立てた」と信じている者も多かった。

だが現地のブラジル側からすれば、ピントのズレた理由で同じ日本人同士が殺し合っているわけであり、これら一連のテロ事件は、ブラジル国民から反感を買っており、現地での日本人の印象は悪くなる一方だった。

ブラジルのポルトガル語の新聞も、この日本人同士の抗争を大きく報道していた。
事件が起こるたびに当然、ブラジル警察も介入してくるわけだが、それでも負け組み襲撃事件は次々と各地で巻き起こった。



▼日本の勝利を利用した詐欺も横行

勝ち組が次々と騒ぎを起こしているこの時期、抗争事件だけではなく、詐欺事件も大量に発生していた。

「日本は勝った。日本へ帰国しようではないか。」

と持ちかけ、帰国手続きを取ってやると言って近づいてくる。

「帰国乗船券」を手に入れるためには○○円ほどかかると言い、高額な船券を売りつける。現金がない者は土地と交換させる。

だが、これはニセモノの「帰国乗船券」である。当然、これでは船に乗れるわけがない。
この、偽造の乗船券を売りつける詐欺はかなり横行した。

また、ブラジル国内には日本のお札も流通していたが、日本の敗戦によってこれらは使えなくなってしまった。

それに加えて日本では当時、新札に切り替わっていたので、ブラジル国内で流通していた日本の旧札は使えない上に、他の外国通貨との両替も不可能になってしまった。

日本の旧札を大量に所有していた企業や銀行にとっては大変な損失が出る。そういった事情をふまえて、ブラジルの、ある新聞社は「日本、勝利」とのデマの記事を掲載した。

日本が勝ったという噂を流せば帰国したいと考える日本人が増える。帰国するには日本のお金が必要になってくる。

そうした人たちに、土地や家、家畜を買い取ると話を持ちかけ、代金は日本の旧札で払うのだ。

手持ちの財産をいったん、日本の旧札に変えてしまったら、それらはもうブラジル国内では使えない金になってしまう。

資産の買い取りだけでなく、両替屋も多く現れた。日本へ帰国したがっている人が持っているブラジルのお金を、日本のお金に両替してやると言って、同じく旧札で両替してやるのだ。

これらの詐欺は、主に「日本が勝った・日本に帰ろう」ということを前提にした詐欺が多かったので、財産や土地をだまし取られたのは、勝ち組みの人が特に多かった。

変わった詐欺では、自分は日本から来た皇族だと名乗って、日本の勝利を祝い、現地の日本人から献金を巻き上げて、そのまま消えた男もいた。

金銭的な詐欺は相当数に昇り、中には全財産を失って自殺する者も出たほどだった。



▼勝ち組みに真実を伝えようとする「認識派」

勝ち組みは負け組みのことを「国賊」とみなし、襲撃し、何人も殺害している。だがその勝ち組みの中の人たちも、日本へ帰りたがっている気持ちを逆手に取られ、多くの人が財産をだまし取られていた。

終戦後、ブラジル国内の日本人の関係は泥沼化していた。これら全て、「日本が勝った」という噂が原因となって起こったことである。

この問題を解決に導くには勝ち組みの人たちに真実を伝えることしかない。

日が経つにつれて、ポルトガル語ではあるが新聞でもたびたび報道され、ラジオでも報道され、事実は簡単に分かりそうなものであるが、それらの情報に触れても勝ち組みの人たちは「日本は負けた」という事実を一切受けいれようとしない、全く信じない。

むしろ組織ぐるみで自分たちをだまそうとしているとしか思っていなかった。

このまま問題が起き続ければ、ブラジル国内で日本人の立場がますます悪くなることは確実である。

日本人や日系人の中でも比較的地位の高い人たちが集まり、「勝ち組みに真実を伝えよう」という動きが始まった。

これらの人々は「認識派」と呼ばれた。

1945年(昭和20)10月3日、認識派の一人であり、ブラジルでも社会的地位の高かった宮腰千葉太に、日本から、終戦を告げる文書と、東郷外相から、海外の日本人に宛てたメッセージが届けられた。

宮腰千葉太は、日本人の有力者を集めてこれらの文書を公開し、日本はアメリカに負けたということをその場の全員に伝えた。

だがこれで真実が伝わるかと思えば逆であった。

日本の敗戦を語る宮腰に対して勝ち組みの人たちは激怒した。この発表を行ったことで宮腰は「非国民」「国賊」と見なされ、勝ち組みの襲撃ターゲットの一人となってしまった。

宮腰は、最初の計画ではこの発表の後は各地をまわり、人々に真実を伝えて行くという予定だったが、身の危険を感じてこの計画は取りやめにし、代わりに文書を印刷して各都市に配布することとした。

その後、認識派の人たちは、日本から新聞や雑誌を取り寄せ、これも各都市に配布した。後には吉田首相のメッセージも配布された。
また、サンパウロの政治家が公邸に勝ち組み600人を集めて真実の伝達を行ったこともある。

しかしこの辺りまで、勝ち組みの人たちはこれらの事実をほとんど信じようとはしなかった。


日本から政治関係者がブラジルまでやって来て、各地で敗戦を伝える演説と今後のことについての伝達も行った。
だが、こういった各地の講演会が増えるに連れ、勝ち組みの間では、またも新しい噂が立ち始めた。

「アマゾンの奥地には『新日本』という、日本そっくりの国がある。今、敗戦を説いてまわっているのは、その『新日本』という国から来た奴らだ。

あいつらは日本人ではない。だまされてはいけない。」


よく、こういったことを思いつくと感心する。この噂も多くの人が信じることとなった。



いずれは勝ち組みの人たちも、全員が間違いだったと認識するのであるが、そこに至るまでの道のりはとてつもなく長かった。

日本の負けを信じるようになった人は、本当に少しずつしか増えて来ない。

相変わらず続く勝ち組のテロ行為に、やがて認識派だけではなく、アメリカ国務省、日本政府、戦後日本を管理していたGHQ、スウェーデン政府までが協力しあって、勝ち組みの説得に当たるようになった。

「ブラジルに友人や家族がいる人は手紙を出すように」と、日本国内でも呼びかけられた。日本の新聞や日本の今の映像などもブラジルに送られてきた。

ここまで資料を見せられ、政府関係者から説明を受けて、それでも日本の敗戦を信じないというのは、すでに意地になっているか、もう引くに引けない状況にまでなっていたと思われる。

勝ち組みの奇行はその後も続いたが、1956年2月、ようやく「矢折れ、矢尽きた。」と、事実上の活動終了宣言が出された。

敗戦から11年後のことだった。


そして戦後28年経った、1973年、ブラジルから「最後の勝ち組み」と言われる一家が日本に帰ってきた。空港で待ち構える報道陣の前で、その一家は最初に

「天皇陛下、万歳!」と叫び、周囲を見まわして

「これが負けた国ですか。やっぱり勝っております。」と報道陣に言ったという。

勝ち組みの最後の意地を見せた言葉である。

第二次世界対戦で、日本と同様に敗戦国となったドイツやイタリアでも、他国にいたドイツ人やイタリア人が勝ち組み・負け組み騒動を起こしているが、両方とも数ヶ月で収まっている。
日本の11年というのは、あまりにも特殊な長さとと言える。



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