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No.073 人間を次々と食ったヒグマ

大正時代の北海道で、一頭の巨大ヒグマが何日にも渡って村を襲い、数人がヒグマに食われた。

北海道北西部に位置する苫前(とままえ)郡 苫前町 古丹別(こたんべつ)。日本海の沿岸から内陸の方へ30kmほど入った地域である。

今から約100年前の大正4年(1915年)、この地で、一頭のヒグマが村人を次々と襲い、7人が殺害されるという事件が起こった。

この地の当時の地名は 苫前(とままえ)郡 苫前村。 ここの三毛別(さんけべつ)六線沢で起こったことから「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件」と呼ばれる。



▼最初の出現

明治時代から大正時代にかけて、まだ未開の地の多かった北海道では、あちこちで土地の開拓が行われていた。

開拓民として、まだ未開だった土地にいろんな人が住みつき、人々は村を形成し、農業を営(いとな)んで生計を立てていた。

事件のあった三毛別(さんけべつ)六線沢村も、そんな村の一つだった。

ここには約20世帯の人々が住んでおり、村には電気も水道なく、家も自分たちで立てた粗末なものばかりだったが、人々は力を合わせて生活していた。

大正4年(1915年)11月初旬。

ある村人の家に突然巨大なヒグマが出現した。その大きさにびっくりした村人は、この時は、なす術もなく見ていただけだったが、幸いヒグマはトウモロコシを少し奪っただけで逃げていった。

野生動物が家のすぐ近くまで接近してくることは、特に珍しいことではなかったが、この場合、出現したヒグマはあまりにも巨大過ぎた。

もう来なければ良いが・・と思っていたところへ、数日後、その巨大ヒグマは再びその村人の家に姿を現した。

この時もすぐに逃げて行ったが、2回現れたということは、3回目もあり得る。

飼っている馬でも襲われたらたまらないと思い、村人は危険を感じて、マタギを2人頼み、自分も銃を用意してヒグマの襲来を待ち構えることにした。

予測通り、後日またもやヒグマはこの村人の家に現れた。3人で一斉に発砲したが、何発かは命中したものの、仕留めることは出来なかった。ヒグマは血を流しながら山の中へと逃げて行った。




▼初の犠牲者・太田家

三毛別に住む太田夫妻の家。

上記の村人の家とはまた別家族である。ここには主人の太田と、内縁の妻・阿部 マユ(34)が暮らしていた。

家の中には、太田夫妻の他に、同居人の男(59)と、太田夫妻が預かっていた子供が一人。
全部で4人暮らしである。

12月9日。

主人の太田と、同居人の男は外へ働きに出ており、家の中には阿部 マユと子供が残っていた。

同居人の男が昼飯を食べようと家に戻って来ると、普段だったら家に近づくと聞こえてくるはずの子供の声が聞こえてこない。

家の中はしんと静まり返り、さらに血の匂いが漂っている。不安に思い、急いで家の中へ入ってみると、囲炉裏(いろり)の横に子供が横たわっていた。

現場に再現されている、事件を伝えるセット。
ヒグマも家も、実際の大きさに合わせてある。
近寄ってみると、顔には血がついており、ノドはえぐられ、頭には親指ほどの穴が開き、すでに死亡していた。室内は荒らされ、あちこちに血が飛び散り、家の外壁も一部壊されていた。

「マユは!?」

家の中にはこの子と、太田の妻のマユがいたはずだ。

「マユ!マユ!」と叫んで探してみたが反応はない。同居人の男はすぐに家を飛び出し、近くの家々にこれらのことを伝え、助けを頼んだ。

男たちが集まってきた。家の中には大きな動物の足跡が多数残されている。これがヒグマの仕業であることは明白だった。

入り口の反対にある窓が破られ、そこから室内の足跡が始まっていることから、ヒグマはこの窓から侵入してきたものと思われた。この窓にはトウモロコシが干してあった。

おそらく、トウモロコシを取ろうと近寄ってきたヒグマに、マユと子供が気づき、悲鳴を上げた。これがヒグマを刺激し、ヒグマはターゲットを家の中の「生物」に切り替えた。

家に侵入したヒグマは子供を殺し、マユに襲いかかった。

男たちが家の中を見てみると、居間にはまだ火のくすぶっている薪(まき)と、血まみれになって柄の折れたマサカリが転がっていた。そして大量の鮮血。

マユが薪を投げつけ、マサカリで抵抗した形跡が残っている。そして大量の鮮血は、ここでマユが殺されたことを物語っている。

別の窓枠には、マユのものと思われる大量の髪の毛が絡(から)みついていた。おそらくヒグマはマユをくわえたまま、この窓から外へ逃げたのだろう。

外には何かをひきずったような血の跡が残されており、その血の跡は林の方へ向かって続いていた。



▼マユの遺体発見

子供の遺体を居間に安置し、部屋を片付けるとすでに夕方に近かった。マユは連れ去られ、林の中で食われていることはほぼ間違いなく、せめて遺体の一部だけでも取り返したかったが、もう、日が暮れる。捜索は翌日にせざるを得なかった。

そして翌日、30人ほどの男が集って捜索隊を結成し、血の続いていた林の中へと踏み行った。何人かは銃を構えている。

林の中へ150メートルほど入った時、突然、例のヒグマが現れた。

「うわああーっ!」

捜索隊は改めてその巨大さに驚く。ヒグマは怒っている。捜索隊に襲いかかって来た。たちまちのうちに捜索隊はバラバラになった。ちりぢりになって逃げるのが精一杯だった。

銃を持っていた男たちがヒグマ目がけて発砲する。だが、普段の手入れが悪かったのか、引き金を引いても銃が反応しない。

5丁あった銃で、まともに弾が発射出来たのは、わずかに1丁のみ。

だがこの1丁だけでも効いた。音にびっくりしてヒグマは逃げ出したのだ。幸い、捜索隊に犠牲者は出なかった。

ヒグマが逃げた後、その付近を探してみると、雪が血に染まった個所があった。そして更に、そのすぐ近くの木の根元には、小枝が山盛りに重ねられている場所があった。

捜索隊が小枝をどけてみると、黒い足袋を穿(は)いたままのヒザから下の脚と、食い散らかされた頭蓋骨が出てきた。

マユのものだった。

ここに隠しておいて、後でまた食べるつもりだったのだろう。わずかな遺体だったが、何とか回収は出来た。捜索隊は、早々に林の中から引き上げた。



▼通夜の席が襲われる

そしてその日の夜、破壊された太田家では、子供とマユの通夜が行われた。

当時の開拓民の家を再現したもの。
多少、形に違いはあっても、当時の開拓民のほとんどの家が
こういった感じの造りになっていた。
獲物を残したクマはその地を離れないという習性があり、また、マユの遺体はクマが保存していたものを奪ってきたものだ。

ヒグマがマユの遺体を取り返しに来るのではないかと、ヒグマの襲撃を恐れて、この通夜に出席したのはわずかに9人だった。

しかも全員、ナタやノコギリ、銃などを持ち、武装して通夜に出席するという異様な光景となった。


そして儀式が一通り終わり、通夜振る舞いが行われていた最中のことだった。

「バリバリバリ!」

と音を立てて、家の壁が破壊された。一斉に皆がその方向を見る。壊された壁から、あの巨大ヒグマが顔をのぞかせた。

ベキベキベキ!と更に壁を壊して、ヒグマは家の中へと入ってきた。

「うわあぁぁっ!」「きゃあぁぁぁっ!」

全員がパニック状態になった。隠しておいたマユの遺体を持ち去られたために、匂いを頼りにここを突き止め、マユの遺体を取り返しに来たのだ。

家に入ったヒグマは暴れる。物を壊し、棺(ひつぎ)はひっくり返されて、子供とマユの遺体が散乱した。

ランプも消され、真っ暗になった中、参列者は逃げ惑う。だが勇気ある者が石油缶をガンガン叩いて大きな音を出し、銃を持っている者は発砲し、何とかこれでヒグマは驚いて逃げて行った。

300mほど離れた隣の家に集まっていた50人の男たちが物音に気づいて太田家に駆けつけたが、その時にはヒグマも姿を消していた。

通夜も室内もメチャクチャになったが、犠牲者が出なかったのが不幸中の幸いだった。



▼最大の殺戮の場・明景(みよけ)家

通夜をメチャクチャにしたヒグマは、このまま林へ帰ったわけではなかった。ヒグマは、通夜の会場である太田家から約500m離れた「明景(みよけ)家」にたどり着いていた。

この時、明景(みよけ)家には、10人の人間がいた。主人の明景(みよけ)は、通夜の会場にクマが出現したとの連絡を受け、熊退治の部隊として出ていたので、残っていたのは明景(みよけ)の妻ヤヨと5人の子供たち。

それに他の家から避難して来た4人が加わっていた。

ヒグマが通夜の会場を去ってから約20分後の20時50分。明景(みよけ)の妻ヤヨが1歳の子供を背負って、熊退治部隊の夜食を作っている時、突然、窓の方から

「バリバリメキメキ!」

という音がした。

「誰!?何かあったの!?」

ヤヨがびっくりして窓の方を振り向くと、まさに窓から巨大なヒグマが侵入している瞬間だった。

「きゃあぁぁぁっ!」

悲鳴を上げ、鍋をひっくり返してしまった。10人全員がパニック状態に陥(おちい)る。クマは完全に家の中に侵入してきた。
混乱の中でランプも消え、家の中は真っ暗になった。

逃げようとするヤヨに、8歳の子供(ヤヨの次男)がすがりつき、ヤヨは1歳の子供を背負ったまま転んでしまう。

ヒグマは、まずこの3人に襲いかかかった。ヤヨと8歳の子供を抱き抱(かか)えるように捕まえ、最初にヤヨが背負っている子供の頭をかじった。そして、直後に今度はヤヨの頭をかじった。

だがこの瞬間、別の男が出口に向かって走って逃げたため、ヒグマはそっちに興味を引かれてヤヨから手を離してしまい、このスキをついて、ヤヨは2人の子供を連れてヒグマから離れることに成功した。

ヒグマはターゲットを変更し、この、逃げようとした男に襲いかかる。男に向かって腕を叩きつけた。ヒグマのツメが男の腰を直撃し、男は悲鳴を上げた。

この悲鳴にびっくりしたのか、ヒグマはこの一撃だけで、今度は別方向に顔を向けた。そこには、ヤヨの三男(3歳)と、この家に避難しに来ていた男がいた。

ヒグマはこの2人の顔面を殴った。2人とも一撃で即死した。

ヒグマは更に別の一人に噛みつく。この時、むしろを被(かぶ)って隠れていた斉藤家の妻・タケが思わず顔を出してしまった。

タケは、この家(明景(みよけ)の人間ではない。斉藤家からこの家に避難しに来ていたのだが、この家に避難していたことが逆に仇(あだ)になった。

タケを見つけたヒグマは、一直線にタケに向かい、タケを捕まえた。

この時タケは妊娠中だった。

「腹破らんでくれ!」、「ノド食って殺して!」


お腹の子供をかばい、必死になってヒグマに叫んだが、通じるはずもない。ヒグマはタケの上半身に噛みつき、タケを食い始めた。

「ぎゃあぁぁぁっ!」

叫び声を上げるタケ。

明景(みよけ)の家から聞こえる激しい物音や叫び声を聞きつけて、この時点でようやく熊退治の部隊が明景(みよけ)の家に駆けつけた。

中で何が起こっているのか、誰もが理解出来た。

数十人の男たちが明景(みよけ)の家を取り囲む。中からは、肉をぐちゃぐちゃと噛む音や骨を噛み砕く音が聞こえてくる。

そして生きたまま食べられている、タケのうめき声。


中にまだ人がいる以上、一斉に射撃することは出来ない。家の裏に回った者が空砲を2発撃つと、ヒグマはタケを食べるのをやめて反対側の入り口から出てきた。

ここで一斉射撃するはずだったが、またしても銃の手入れの悪さから、弾は出なかった。全員がもたついている間に、ヒグマは悠々とその場を去り、林の中へと帰って行った。

ヒグマが去った後、松明(たいまつ)を片手にクマ退治の部隊が家の中に踏み込むと、そこは修羅場だった。

天井まで血しぶきが飛び散り、辺り一面は血の海。タケは無残にもズタズタに引き裂かれて食われており、タケの腹は引き裂かれて胎児が出ていた。

そして撲殺された遺体が2つ。

それから、生きてはいたが、太ももから尻にかけて食われ、骨になっていた者が1人。一緒にここに避難していた、タケの子供もうなされながら、20分後には死亡した。

この辺りにいるのはあまりにも危険だ。村人たちは全員、三毛別の分教場へ避難することにした。

重傷者たちもすぐに病院に搬送されるべきだったが、交通の便が悪く、古丹別の病院に入院出来たのは翌々日の12日になってのことだった。

最初に殺された太田家の子供・連れ去られて食われていたマユ、そしてこの明景(みよけ)の家では4人が殺され、犠牲者は二日間で6人となった。タケの胎児も含めると7人にも昇る。



▼警察の討伐(とうばつ)部隊

村の自衛団のような組織では太刀打ち出来ない。自分たちでの解決は不可能だと村の人たちは判断し、警察や役所に助けを求めた。

北海道庁に、殺人熊が出現したとの連絡が行くと、すぐに警察は動いてくれた。討伐(とうばつ)部隊を組織し、警察だけではなく消防や青年団からも人を募(つの)った。集まった人々は、それぞれが銃や刃物を持ち寄り、武装した討伐(とうばつ)部隊が出来上がった。

三毛別に到着した部隊は早速行動に移った。もちろん、その日の一日でカタをつけるつもりであったが、初日は林の中を探し回ったが、例のヒグマには遭遇出来ず、カラ振りに終わってしまった。

討伐部隊の、その日の夜の作戦会議において、「ヒグマをおびき寄せる作戦はどうか」という案が出された。

クマは食べ残したエサを取り戻そうとする習性がある。この習性を利用して例のヒグマをおびき寄せ、そこを射殺するのだ。

そしてこの場合のエサとは、殺された6人の死体のことを指す。完全に非人道的な作戦である。

だが、警察側が村人にこの作戦を説明しても、村人の中に反対する者はいなかった。それほどまでに村の人間はヒグマの恐怖に怯(おび)えていたのだ。

明景(みよけ)の家に六つの死体を並べ、天井部分の梁(はり)を補強して、銃を持った6人がその梁の上に昇って待機した。
室内には死臭が漂い、その匂いは当然ヒグマにも届くはずだ。しばらく待った後、例のヒグマが家の前に現れた。

鉄砲隊に緊張が走る。だがヒグマは室内へは入ってこない。家の前で立ち止まり、少し家の周りを歩いた後、また去っていった。狙撃は出来なかった。

その後もしばらく待ち続けたが、ヒグマは帰って来ず、この作戦は失敗に終わってしまった。

もちろん、ヒグマは、この家だけをターゲットにしていたわけではない。六線沢の村は、現在、村人が全員避難して無人となっており、ヒグマはこれら無人の家に入り込み、飼っていたニワトリを食べたり、保存食としてとっておいた味噌漬けなど、見つけた食料を次々と食いあさっていた。
三渓神社にある「熊害慰霊碑」。

三毛別村の村長の息子・
大川 春義(おおかわ - はるよし、事件当時7歳)氏が
後に建立したもの。

大川 春義氏は成長した後、ヒグマ撃ちとなり、
「犠牲者一人につき、10頭のヒグマを仕留める」と誓いを立て、
62年のマタギ生活で102頭のヒグマを仕留めた。

目標を成し遂げて引退し、この慰霊碑を建立した。

また、寝具や服などをズタズタに引き裂いたり、家の中は荒らし放題に荒らしいてた。特に女が使っていた枕には異常なほどの執着を示していた。

こうした、無人の家の被害は8軒にも昇った。だが実際、避難せずにそのまま家にいたら、ヒグマに襲われていたわけであり、物損の被害だけで収まったのは幸運だったと考えるしかない。

12月13日には、旭川の陸軍から歩兵の部隊30人が投入された。

そしてその13日の夜、討伐部隊は問題のヒグマを偶然発見する。討伐部隊とは、川を挟(はさ)んだ反対側にヒグマは出現した。

隊長の命令の元、一斉に射撃が行われた。だが仕留めるまでには至らなかった。ヒグマはそのまま奥地の方へと逃げて行った。

翌14日の朝、ヒグマのいた場所を調べてみると、ヒグマの足跡と血の跡を発見した。銃弾のいくつかは命中していたのだ。

怪我を負ったヒグマは今までのようには動けまい。完全にカタをつけるには今日がチャンスである。

警察や軍で組織された討伐部隊が林へと向かう。この時点で討伐部隊は、警察・消防・軍・民間人、合わせて200人の大部隊になっていた。

だが早々に林に入っていたのは、民間人のマタギ・山本兵吉(やまもと へいきち 50歳)だった。

山本兵吉は酒癖が悪く、酔って喧嘩をすることもたびたびだったが、マタギとしての腕は確かで、これまでも数々の獲物をしとめてきた優秀なマタギだった。

もちろん現役のマタギで、彼の愛用の銃は、日露戦争の時の戦利品で手に入れたロシア製のライフルだ。

山本兵吉は、林の中を風下の方向からそろそろと進み、例のヒグマを探した。探し回ってしばらく時が経った午前10時ごろ。

いた!

ヒグマは怪我をしており、木に寄りかかって休んでいるようだ。山本兵吉は、ヒグマから20mくらいの所まで気配を殺して近づき、そっと木の陰に隠れた。

狙いを定めて引き金を引く。


銃声が響き渡り、弾丸はヒグマの心臓の辺りに命中した。

すかさず弾を込め直し、もう一発放つ。今度はヒグマの頭部に命中した。そのままヒグマは崩れ落ちた。

そのすぐ後、討伐部隊の大多数の人間が銃声を聞き、かけつけてきた。これまで何人もの人間を食い殺した巨大ヒグマの最後だった。

だが死んだからといって村人たちの怒りは収まらず、ヒグマの死体を棒で殴りつけたり、蹴ったり踏みつけたりする者が多数いた。

やがて討伐部隊全員が万歳を叫び始めた。最初の事件が起こったのが9日、警察や民間の討伐部隊が組織されたのが12日、そしてしとめたのは14日。

6日間に渡る恐怖はようやく幕を閉じた。

討伐部隊に参加したのは延べ600人以上、アイヌ犬も10頭以上動員され、用意された鉄砲は60丁にも昇った。

ヒグマの死体は5kmほど離れた三毛別青年会館に運び込まれた。体を測定してみると体重は340kg、身の丈は2.7mほどあり、人間の身長をはるかに超えていた。

解剖してみるとやはり、胃の中から人間の肉、髪の毛、服の切れ端が出てきた。ヒグマの死体はバラバラにされて、肉は煮てみんなで食べた。

事件の一連は、各社の新聞で大々的に報道され、ヒグマをしとめた山本兵吉もインタビューを受けている。

ヒグマに頭をかじられたヤヨは何とか順調に回復したが、あの時に背負われたまま頭をかじられた2歳の子供の方は後遺症に苦しみ、2年8ヶ月後に死亡した。
この子供まで入れると死者は8人となる。

何人もの村人が殺された六線沢村は、事件の後、1軒、また1軒と、村人たちは次第に引っ越して行ってしまい、最終的には川の下流に1軒残っただけで、他の家は皆、無人と化した。




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