(被害者名は仮名)
この事件の犯人である都井睦雄(とい・むつお)は、1917年(大正6年)、岡山県の、ある農家の長男として生まれた。都井(とい)は幼い頃から身体が弱く、学校も欠席しがちだった。15歳と16歳の時に身体に変調をきたし、医者にかかったところ、肺の病であることが分かった。
元々友達もほとんどおらず、家にこもりがちだった都井(とい)は、この病気によってだんだんと自暴自棄になっていく。
都井は19歳になった時、徴兵検査を受けたが「肺結核」と診断され、不合格になってしまった。当時は男たるもの、立派な軍人となってお国のために尽くすというのが最大の名誉とされていた時代だから、この不合格は都井の心にとてつもない衝撃を与えた。
また「結核」という病気も、当時は不治の病とされていた病気であったから、村人たちは都井を異常な目で見るようになり、都井の家の前を通る時には、みんなハンカチで口を押さえて足早に走り去るようになってしまった。
徴兵検査不合格と、不治の病という二重の苦しみで、失意のどん底にたたき落とされた都井は、このころから異常な性欲に走り始める。若い女性にはもちろん、人妻にさえも「やらせてえや」と、関係を迫り、時には畑で抱きついたり夜中に家に忍びこんでは無理やりやったり、自分のモノを出して迫ったりもした。
拒否すれば「殺してやる。」と相手を脅し、何人もの女性と無理やり関係を持った。都井の異常な行動はたちまち村中の評判となり、病気のこととも重なって、村では完全に孤立状態となってしまった。
その一方で都井は、自分を拒否した女性に激しい憎しみをいだくようになり、特に自分と関係を持ちながらも、別の男と結婚した「二名の女性」に、とりわけ激しい殺意を持つようになっていた。
やがていつの頃からか、都井は銃や刃物を集めるようになる。これら武器の購入資金は自分の田畑を担保に、銀行から借りた金である。来たるべき日に備えて、山の奥に入っては射撃の練習をする日々が続いた。
いったんは村人に通報されて警察の家宅捜索を受け、集めた武器を全部没収されたこともあったが、もうその翌日から都井は再び武装計画を開始し、着々と武器を集めていった。
大量殺戮(さつりく)実行の3日前、都井は遺書を残している。「早くしないと病気のために弱るばかりだ」という内容から、結核と知ってたちまち見る目を変え、自分の悪口を言って歩いた何人かの女性の名前をあげて、「復讐のために殺す」という内容などが書かれてあった。
そして1938年(昭和13年)、5月21日深夜、計画はついに実行に移される。岡山県と鳥取県の境に近い苫田(とまだ)郡内の、全戸数23戸のごく小さな村はその日、血で染まった。
都井がこの日を選んだのは偶然ではない。都井が特に激しく憎んでおり、よその土地に嫁いでいった「二名の女性」が、この日はたまたま二人とも村に帰ってきていたのだ。
その前日には襲撃予定の家を自転車で往復し、ルートを確認しておいた。そして夜になってから村の電柱によじ登り、まずは電線を切断して村を停電状態におとしいれた。
深夜1時40分ごろ、都井は黒い詰め襟(えり)の学生服を着用し、足のヒザから下には軍事訓練で使うゲートル(帯状のもの)を巻き、地下足袋(じかたび)を履いて、準備を開始した。
暗闇でも相手が見えるように、頭にはタオルを巻いて懐中電灯を二本差した。まるで鬼のツノのようである。そして胸には自転車用のライトを固定した。
腰には日本刀1本と短刀2本を差し、実弾100発の入ったリュックを背中に背負う。更にポケットにも実弾100発を用意した。そして手には猟銃。完全なる武装である。
殺害はまず自分の祖母から開始した。寝ている祖母の前で手を合わせ、オノを降り降ろして一撃のもとに首を切断した。首は50cmほど飛んで転がり鮮血がほとばしった。
祖母を殺害し家を飛び出した都井は、まず隣の山田家へ忍びこんだ。なにぶん田舎のこと、ドアにカギはかけていなかった。ここには50歳の母親と二人の男の子の、計3人が住んでいる。
都井は自分と関係を結びながらも、村中にその噂を言いふらしたこの母親を特に憎んでいた。最初から銃を使うと騒ぎが早く拡大するため、寝ている母親の部屋をそっと開けて、日本刀で首と胸を思いきり突き刺した。勢いあまって刃物の先は身体を突きぬけて畳まで達した。そして最後に、口の中に刀を突き刺して完全に殺害した。男の子2人の方も刀でメッタ斬りにした。
次はその隣の中川家である。ここは夫婦2人と娘が2人。都井はここの奥さんと長女の2人と関係があり、2人分憎んでいた。長女の方は普段は、よそに嫁いでいるためにこの家にはいないのだが、この日に帰ってきているのを事前に調べておいたのだ。特に憎んでいた女性のうちの1人である。
まずは奥さんの腹に猟銃を突きつけて、引き金を引いた。猛獣用のダムダム弾が炸裂し、奥さんは内臓が飛び散って即死した。この音で別の部屋に寝ていた主人と娘が驚いて目を覚ました。だがお構いなく次々と至近距離で発砲し、3人とも弾が貫通し、身体には大きな穴があいて死亡した。
3軒目は、ここからちょっと離れた所にある岸本家だった。主人(22)、妻(20)、母親(70)、甥(18)の4人。夫婦は猟銃で射殺した。妊娠半年だった妻は腹に弾丸を浴びて即死。
わずかに甥が飛びかかって抵抗したが、銃の柄でアゴを殴られ、アゴは陥没した。アゴがぐしゃぐしゃになった後、胸をうち抜かれて死亡した。母親は必死に命乞いをしたが聞いてはもらえず、胸を撃ち抜かれた。だがこの母親だけは一命をとりとめることが出来た。
4軒目の寺田家は、都井が最も憎むべき相手がいる家だった。家族は6人。その中の4女のゆり子は都井と関係があったにも関わらず、都井を捨てて別の男に嫁いだのだ。
この日ゆり子は、弟の結婚式のためにこの家に帰っていた。もちろん事前にそのことは知っていたからこそ、この日を虐殺の日に選んだのだ。
先ほどからの銃声で寺田家の人間たちはみんな目を覚ましていた。この家もまた、ドアにカギをかけていなかったので、都井は堂々と玄関から進入し、まずは「何事だ!」と出てきた主人をいきなり射殺した。
驚き、逃げまどう長男夫婦たちも順々に追い詰めては、片っぱしから銃を乱射して殺害した。だが、肝心のゆり子は裏口からすばやく逃げ、近くの川田家に逃げ込んだ。
気づいた都井もすぐに後を追う。この家は襲撃する予定ではなかったが、ゆり子が逃げ込んだとなれば話は別だ。だがドアにはすでにカギがかけられてしまった。
「開けろ!開けなければ撃ちまくるぞ!」
都井が怒鳴っていると、雨戸を開けて祖父が顔をのぞかせた。その瞬間、引き金が引かれ、祖父は射殺された。
次男は何とか逃げ出した。そして肝心のゆり子は、川田夫妻とともに全てのドアを閉め切り、家にたてこもった。都井はしばらく銃を乱射したり、銃の柄で戸を叩いたりしていたが、結局中に入られずに諦めた。最も憎んでいたゆり子の殺害は失敗に終わってしまった。
このころになってようやく、響き渡る銃声や悲鳴などから、村中が騒然とし始める。
都井は次に、少し高い所にある中田家に向かった。ここは母(45)と息子の2人暮らし。都井は、自分と関係があった母親が別の男とくっついたのを恨みに思っていた。
また、この母親がゆり子の結婚式の媒酌人を務めたのも気に入らなかった。この親子は寝ているところを布団の上から撃たれて射殺された。
そして自宅の南側にある中井家。ここは家族6人とお手伝いの女性が2人の合計8人が寝ている。中井家そのものには恨みはなかったが、お手伝いの女性は都井と関係があった女性たちであった。女性はそれぞれ2発ずつ弾丸を浴び、1人は脳が飛び散り、もう1人は腹から腸が飛び出て即死した。
狙いをつけていた家を次々と襲っては射殺する。中には必死で命乞いをする者もいたが、都井はそれらを一切無視して、無常にも引きがねを引いた。
凶行は一時間半に及び、午前三時ごろ隣の地区に現れた都井は、その家で紙と鉛筆を借り、そのまま山の中へと消えた。都井の自殺死体が発見されたのは、ここから3.5kmほど山の中へと入ったところである。
「うつべきをうたずに、うたないでよいものをうった。祖母、姉さん、許してください」などと、借りた紙と鉛筆で最後の遺書を書き、自分に向けて引き金を引いていた。
全戸数23戸、人口111人の小さな村は、その内の12戸が襲われ、死者は30人(即死28人・重症を負ってまもなく死亡2人)、負傷者3人という大惨事となった。一家全滅は6戸で21人にのぼる。
その計画性と遺書、実行ぶりからして都井は決して精神異常者ではなく、正常な判断力を持っていたものとされている。村八分、不治の病、そして村人に対する恨みが一挙に爆発した結果、都井は自殺の道連れに30人もの人間を殺害したのである。