▼地上絵の発見

今や世界的に有名になったナスカの地上絵は、ペルーのリマから南へ400kmのあたり、太平洋とアンデス山脈に挟(はさ)まれたナスカ平原にある。
このナスカ平原の地面に長い溝(みぞ)がたくさん掘られていることは古くから知られてはいたが、長い間、誰もそれが絵だとは気づかなかった。この溝たちが絵を形成していると発見されたのは20世紀に入ってからである。

ここはほとんど雨の降らない地域で、草も生(は)えないような場所だったので人は住んでいなかった。時々ロバを連れたインディオたちがこの平原を横切って細々と交通はあったものの、溝のことを気に止める者は誰もいなかった。

1900年代に入って飛行機が発明されるとこの地を飛行機が飛ぶようになり、1920年代にはリマから南のアレキーパまでの民間航空路が開設された。パイロットたちは地上絵の上空を何度も飛んだものの、まだそれが「絵」だとは感じていなかった。

ロメロが最初に気づいた鳥の他に、クモ、シッポがうずまきになっているサル、トカゲ、クジラ、魚「ナスカの線は何か意味があるんじゃないのか。」「線が魚の絵に見えた。」という程度の話題がパイロットたちの間でちらほらされていた程度で、ちょっと変わった風景といぐらいの話題でしかなかった。

初めて、それが「絵」だということに気づいたのは1938年、ペルー人のアレッサンドロ・ロメロというパイロットだった。彼がこのあたりで金脈を探すためにナスカ上空を旋回していた時、上空1800メートルの地点から「鳥の絵」に気づいた。

それは相当に巨大な絵で、直線部分も正確に描かれており、注意してあたりをじっくり見渡すと、他にも様々な絵が描かれていることに気づいた。

びっくりしたロメロは金脈のことは後回しにして、すぐにリマに飛び帰り、このことを警察や新聞社に知らせた。

それで騒ぎとなり、多くの報道機関や学者たちが現地に殺到した。しかし車で行った者はただ地面に掘られた溝を見ただけで意味が分からない。

飛行機で上空を飛んだ者だけが、3000メートルのあたりまで上昇して、この数々の地上絵の全貌(ぜんぼう)を見ることが出来た。

4本指の手、道路か滑走路のような直線図形など、膨大(ぼうだい)な数の絵が発見されることとなった。

しかしこの時期は間もなく第二次世界大戦が始まり、調査はいったん打ち切られ、「地上最大の謎の絵を発見」というニュースだけが報道された。

<渦巻きのシッポを持ったサル。>


<後の調査で、クモの絵はリチヌレイという、アマゾンの奥地にのみ生息するクモと判断された。ナスカ近辺近辺には生息していないクモである。>


<ハチドリ。>


<九本指の妖精、あるいは九本指のサルと言われる絵>

▼上空から見て描いたものなのか

1940年代に入って本格的な調査が開始された。描かれた絵は人間やシャチ、コンドル、犬、木などの動植物の絵が約70種類、幾何学(きかがく)模様が700以上という、相当な数に昇り、直線に至っては、長さが数kmに及ぶものも多数あり、中には丘や谷を超えて進んでいっているものもある。

代表的な絵としては、長さ46mのクモ、96mのハチドリ、55mのサル、65mのシャチ、180mのイグアナ、135mのコンドルが挙げられる。それらの絵の中で最大のものは、鳥を描いたもので、全長285mある。

このナスカは現在は観光名所となり、展望台も設置されているが、展望台からでも上空から見下ろしたような全景を把握することは出来ない。

絵はどれも、誰か指揮者が上空から見て指示を出さないと出来そうもないものばかりである。

1973年に、国際探検協会のジム・ウッドマンが発表したところによると、ナスカで発見された布と当時の技術だけで気球を製作してみたところ、実際に空に浮かぶ気球は製作可能であり、しかも上空130mまで上昇したとの実験結果が出たという。

現実に当時、地上絵を描く際に現場監督が気球を使って上空から指示を出していた可能性もないわけではない。

しかしこれは可能性があったというだけで、実際はそういった気球の残骸などは発見されていない。ナスカの謎は、ほとんど「絵」しか発見されていなくて、それを描くための道具や技術の痕跡(こんせき)がほとんど残ってということである。

<わりと小さな絵だが、人間の視線からでは何が描いてあるのか認識出来ない。>

▼太古に描かれたものが現在まで残っていたのは

この平原では絵だけではなく、木の杭(くい)や布も発見されている。これらも絵が描かれた同じ時代のものと推論され、この木や布を年代測定した結果、この絵はナスカ文明が残したものだと結論が出された。

ナスカ文明は、紀元前100年ごろから紀元後800年くらいまで、ペルーの中南部のイカや、ナスカの砂漠地帯で繁栄していた文明である。だとすると、この地上絵は2000年ほどの時を経てもまだ残っていたということになる。

正確には「絵が残っていた」というよりも、「地面に掘られた溝が残っていた」という言い方になるが。

絵を構成する線の作り方は単純で、地面を削って溝を掘っただけである。ナスカ平原は鉄酸化物を多く含んだ石と、乾いた土が表面を覆(おお)っており、この表面の土を5cmから10cm掘ると、その下から石灰質の多い大地が現れる。

この大地は白っぽい色をしており、掘った溝の部分だけ白い線となって残る。深さが10cm程度で、幅が数十センチから2メートルの溝を掘っていくことにより、ナスカの地上絵は描かれていた。

また、2000年も時が経つのにこのような単純な構造の線が残っているのは、この地方独特の気候によるものである。このナスカは、年間降水量が十数ミリというカラカラに乾いた土地で、雨が極端に少ないために線がほとんど崩れることがなかったのだ。

風はもちろん吹くが、風にも形を崩されていない。海岸から吹く湿気を含んだ風は、石灰質の表面や周(まわ)りの土に湿気を与え、乾燥した時にはそれぞれをしっかりと固める役割を果たす。

また、年間平均気温が17~18度という比較的低温であるため、朝の冷え込みなどによって発生する冷気が、大地や線を更に固める。その結果白い線は固定されてこの時代まで残り続けてきたのだ。

▼絵は何のために描かれたか

この地上絵の調査のために何人もの考古学者がナスカを訪れた。

1927年にこの地を調査したペルーの考古学者メヒーア・ヘスペは「地上絵は道路の跡だった。」と発表した。当時この地に住んでいたナスカ人たちが、祭祀(さいし)行事や軍隊のパレードで隊列を組んで歩くために目印にしていたというのである。

1937年にナスカを調査し始めたアメリカの歴史学者ポール・コソックは、「直線は、太陽や星の動きを示したもので、動物の絵は星座を描いたものだ。」との結論に達した。

ナスカに描かれた線の中で、冬至と夏至の日に、太陽の沈む方向に一致する線も発見されており、これらの絵や線は暦(こよみ)の要素を持っているという説を数人の学者が結論づけた。

冬至や夏至は、雨季と乾季の境目となり、農業を営むにおいては重要となるが、しかし実際、絵も線も多過ぎて、暦の役割を果たすものや、星の運行を表すものは全体からすればごくわずかであり、現在この説を支持する学者は少ない。

結論を言えば、何のために描かれたかよくわかっていないのが現状である。

▼エーリッヒ・フォン・デニケンの説・・地上絵は異星人が描いたもの

様々な学者が絵の目的について説を唱える中、異色の説を掲(かか)げたのは、エーリッヒ・フォン・デニケンである。彼が1968年に発行した「神々の戦車」という著書の中でナスカの地上絵について書かれているが、それによると地上絵は異星人が描いたものだと述べている。

この時代、ナスカを含めて、異星人たちが地球上に頻繁(ひんぱん)に飛来して来ており、一部の異星人たちはこの地上に住み着いていた。

当時稚拙(ちせつ)な文明しか持たなかった地球人は、空を飛び、様々な奇跡を見せる彼らを神とあがめていた。

デニケンの説によれば、この地球上には、人類が文明を持つ以前には大量の異星人が住んでいたとしている。そして異星人たちは当時の地球人たちと共存していた。

ナスカに描かれた線の中でも道路状に直線で描かれているものは、その異星人たちの飛行物体の滑走路であるという。

もちろん、この説にも反論はある。仮に異星人たちが飛来していたとしても、星の単位で移動するほどの文明を持った生物が乗るようなものであれば、垂直離着陸をしていて当然であって、滑走路が必要な飛行機タイプのものなどを使うわけがないという意見である。

しかしこの反論は、文明の高度さという一面だけを見た意見である。

現在の人類が、車・新幹線・飛行機・船・ロケットと様々なものを利用しているように、当時住んでいた異星人たちも、星の間を移動するのであれば垂直離着陸の出来る宇宙船、地球上を移動したり観光するのであれば滑走路が必要な飛行機と使い分けていても不思議ではない。

<滑走路の可能性があると言われる直線群。>


<こちらも滑走路と言われるほど綺麗に伸びた直線。>


そして更に、仮に高等生物が大量に住んでいたとすれば、そこに経済も発生する。

乗り物の種類によって料金や維持費が違ってくるのも当然であるから、星を移動するほど高度な文明を持っていても、宇宙船だけではなく、飛行機や車を使っていたとしても何ら不思議はない。

彼らの乗り物の一部である「飛行機」のための滑走路が、ナスカに書かれた直線部分に相当するのではないかというのである。

しかしこの説も確証されているわけではなく、やはり反論もある。これらが本当に滑走路として使用されていたならば、そこには飛行機の離着陸があった痕跡が残っていて当然である。

それは金属片であったり、飛行機が地上に残したへこみであったり、燃料の跡だったりという、機械類特有の痕跡である。地面に掘られた溝が現代まで残っていたくらいだから、それらの痕跡も残っていて当然であるが、ここからはそのようなものは何も発見されていない。

また、滑走路として使用するには地面では柔らか過ぎて、本当に使用可能だったかという疑問が残る。「直線は滑走路だった。」という説は現在説得力が弱い説となっている。

結論として、この直線で囲まれたスペースにおいてもまた、意味不明のままである。

現在、ナスカの地上絵は、「それが絵と認識出来るものや、綺麗な直線を描いてあるもの」と、何が描いてあるのか分からないようなグシャグシャになっている部分がある。

デニケンの説によれば、綺麗に描かれているものは異星人で描いたもので、グシャグシャになっているものは地球人が描いたものであるとしている。

ある目的を持ってこの星を訪れた異星人は、何かの目的で地上絵を描き、しばらくの間地球人と共存していたが、ある時期、何かの理由で地球を去って行った。彼らの起こす奇跡を見て「神」とあがめていた地球人たちは、なぜ彼らがいなくなったのか分からなかった。

そこで彼らの再来を願って、「神」たちが描いていた地上絵を更に増やした。「神たち」が再びこの地に飛んで来てもすぐにこの場所が分かるようにと願いを込めてひたすら溝を掘った。

しかし当時の地球人たちは、神が掘った溝が線になっており、上空から見るとこれらが絵になっていることなど、全く知る由(よし)もなかった。ただ真似て溝を掘っただけで、結果的には意味不明のグシャグシャな線を作った結果となってしまった。

つまり、ナスカに掘られた線は異星人が掘ったものと地球人が掘ったものと二種類があるというのがデニケンの説である。

▼最大の功績者・マリア・ライヘ

地上絵は現在多数の写真が撮られて世界中で見ることが出来るが、これらの絵を綺麗に整備したのはドイツ人研究者のマリア・ライヘという女性である。マリア・ライヘは元々数学者であったが、地上絵に興味を持ち、この地を訪れた。

<マリア・ライヘ>


マリア・ライヘは、前述の「ナスカの絵の直線は、太陽や星の動きを示したもので、動物の絵は星座を描いたものだ。」と結論付けた、アメリカの歴史学者ポール・コソックとリマで知り合い、コソック博士の影響を受けてナスカに住み着き、徹底した調査を開始した。

彼女が残した最大の実績は、砂が積もって線が不明瞭になっている部分を一つ一つ丁寧にホウキで掃(は)き、線を浮かび上がらせて絵をくっきりと表示出来るようにしたことである。

いくら絵が残っていたといっても2000年の時が経っているのだから、ところによっては線が埋もれたり消えたりしている。

それら薄くなっている線をホウキで掃(は)いて、綺麗に掃除したのである。そしてその後、それぞれの絵を図面化していった。

現在であれば古代文明の調査ということで国から補助金も出るかもしれないが、当時はそのようなものもなかった。マリアは、リマで通訳や家庭教師のアルバイトをしながら生活し、自費でナスカの絵を復元していった。

女性でありながら砂漠にテントを張ってそこで何日も寝泊りすることもあった。時には寝袋だけで寝ることも何度もあった。

ホウキが駄目になると街へ行ってまたホウキを買う。ホウキばかり買いに来る彼女を見て、地元の人たちは「変わった人だ。」と噂しあった。

しかし彼女の努力の結果、様々な絵がその全貌を明らかにしていった。巨大な絵たちは独特のタッチであり、一筆書きのような描き方がされていた。

この、一筆書きのような絵の描き方が、軍隊の行進のための道筋だったという説の根拠にもなっている。

彼女の考えもまた、ポール・コソック博士と同じ意見で、この地上絵たちは星の運行と星座を表しているという結論に達していた。

サルは大熊座、クモはオリオン座、トカゲ(シャチも見える絵)はさそり座。どれもが完全に星座に当てはまるわけではないが、天体の図を示した可能性は高いと結論した。

今はユネスコの世界資産に指定されている地上絵だが、以前ペルー政府は、この地に灌漑(かんがい)施設を作って、このあたり一帯を大農場にしようという計画を立てたことがあるが、その時に先頭を切って、いかに地上絵が人類にとって大切なものであるかを主張し、この地上絵を守ったのも彼女である。

▼巨大な地上絵の描(か)き方

この方法で間違いないとは言えないが、少なくとも300メートル以上の上空からでしか認識出来ないような巨大な地上絵は、中心点を決めて、そこからロープを使って距離を測る「拡大法」によって描かれたと推測されている。数学の相似形の描き方に当たる方法である。

最初に地上に原画となる絵を描く。この絵の大きさは、大地に立った人間が自分の目で見て、十分に認識出来る程度のわりと小さい絵である。

この絵の内部の適当な所に中心点を定め、ここに木の杭(くい)を打ち込む。この杭が今後、絵を拡大していくための中心となる。

例えばこの星のような図形であれば、中心点からA点までの距離をロープで測る。そしてそれをそのまままっすぐに伸ばして、数倍の距離のB点を決める。

絵が複雑な場合は、この点を細かく増やしていく。拡大されたB点同士を線でつないでいけば、原画を拡大した図形が出来上がる。

しかしこれはあくまでも、理論上可能というだけであって、例えば数kmに及ぶような綺麗な直線を、本当に人力とロープで描けたかどうかとなると、かなり難しいと言える。

<絵は拡大法によって描かれたと推測されている。>

▼全長50kmの矢印の発見

NASA(アメリカ航空宇宙局)の地球観測衛星ランドサットが、ナスカ付近を地球上空900kmから撮影した写真の中に、全長50kmに及ぶ超巨大な矢印型の図形が写っていた。

この直線は山や谷、川などを乗り越えて進んでおり、数百メートルくらいの上空からではそれを認識することは出来ない。宇宙空間からしか分からないような直線である。

写真では線が細すぎてわかりずらいが、描かれている図形をCGで線にしたのが下の図である。

<NASAの地球観測衛星ランドサットが撮影した衛星写真。>




人力と地上だけでの作業ではこの線を描くことは不可能であり、異星人が関与していたという可能性が極めて高く、前述のデニケンの説もあながち空想の中の世界ではない。

ナスカに描かれた巨大な地上絵や直線、直線で囲まれた滑走路のような部分などは、描かれた目的や方法など、説はいくつかあるものの、どれも欠点があり反論もありで、はっきりとした結論には至っていない。


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