Top Page  心霊現象の小部屋  No.90  No.88


No.89 ペイシェンス・ワースの自動書記

▼霊体ペイシェンス・ワースとの出会い

1912年7月、アメリカミズーリ州セントルイスのある家で、2人の女性がウイジャ盤(ウィジャボード)を行っていた。

実際はもっと装飾されているが、ウイジャ盤とは
だいたいこういった感じで、逆ハート型のものが指示器。
この上に何人かが指を置いて質問すると、
指示器が動いて文字を示すというもの。
ウイジャ盤とは、海外版のこっくりさんのことで、霊が降りてくれば、指示器が文字を次々と差し示して文章を綴(つづ)るという道具である。

行っているのはカラン夫人とハッチングス夫人で、とりわけ熱心なのはカラン夫人の方だった。しかし素人がやってもそう簡単にうまくいくものでもなく、何度やっても指示器は全く動かなかったりデタラメな動きをするだけであった。


それから1年後の1913年7月、2人はまだ飽きることもなく、この日もウイジャ盤に挑んでいた。この日は他にも数人の友人を招いて行っていた。

だがこの日に限って、ウイジャ盤は初めてまともな文章を綴(つづ)り出した。

「私は昔、この世で生きていた者です。今、再び戻って来ました。私の名前はペイシェンス・ワースといいます。」

示された文字を書き取っていた友人が、作られた文章を読み上げると、友人たちからは歓声が上がるとともに
「どっちかが強引に手を動かせて文章を作ったんだろ?」という笑いも起こった。

カラン夫人とハッチングス夫人は、「絶対、そんなことはしていないわ。本当に手が勝手に動いたのよ。」と2人とも言い張る。

とりあえず、続きをやってみようということになった。


「ペイシェンスさんは、どこにいるのですか?」と、カラン夫人が空中に向かって質問した。

「海の彼方(かなた)です。」と答えが返ってきた。

「海の彼方とはどこのことですか?」と再びカラン夫人が聞くと、

「だんだん私のことは分かってきます。過去のことを聞く必要はありません。」
「今後はあなたたちと話がしたいのです。私の言ったことを本にして残して下さい。」

という返事が返ってきた。綴られた文章はここまでだった。後はカラン夫人が何を聞いても、ウイジャ盤は反応しなくなってしまった。しかし1年も続けてようやく霊との交信が成功したのだ。カラン夫人は大喜びであった。


▼自動書記で小説を書く

それから数ヶ月間、カラン夫人はウイジャ盤を続けていたが、ペイシェンス・ワースは現れなかった。しかしある日を境になぜか突然ペイシェンス・ワースが戻ってきたのだ。この日から毎日のようにウイジャ盤を通じてメッセージが送られてくるようになった。

メッセージの量はこれまでとはケタが違い、膨大(ぼうだい)な量となった。ついにはウイジャ盤さえも必要なくなり、カラン夫人がペンを持って紙の前に座ると、手が勝手に動いてすごいスピードで文章を書き始めるようになった。

どれもきちんとした意味のある文章であり、それは詩であったり小説であったりした。こうして5年間にカラン夫人が書き取った文章は400万語にも及んだ。

後の分析によると、これらの文章は17世紀のイギリスの方言が多用されていることが分かった。カラン夫人は1919年、ペイシェンス・ワースからのメッセージを本にして出版した。

「バカと貴婦人」「よそ者」とタイトルをつけた本は、中世イギリスを舞台とした短編小説で、「車輪の上の鉢」と「陽気な話」、「悲話」というタイトルをつけた3本は長編小説となった。

カラン夫人は出版するに当たって、これらが霊界からの自動書記によって書かれたことも明らかにしていた。


これらの小説はどれもかなりの評判となり、「ボストン・トランスクリプト」紙は、「心霊ということを前提にしてこれらの作品をバカにしたような感じで読むと、その高度な内容に驚くことになる。」とコメントを載せた。

カラン夫人が言うには「私自身はペンを持った時、何も考えずに頭の中をカラっぽにしておくのです。やがて誰かが頭の上に手を置いたような感じがして、それからものすごい勢いで言葉が浮かんでくるのです。」と語っている。

これらの小説の中でも特に「悲話」は評価が高く、イエス・キリストの生涯を書いたもので30万語に及ぶ文章で構成され、カラン夫人が2年かかって書きとったものである。

登場人物は200人に達し、それらが見事に書き分けられ、古代ローマやパレスチナの家庭生活や政治、社会、ローマ人・ギリシア人・ユダヤ人たちが当時使っていた言葉や習慣などか正確に表現され、こんな文章が書けるのは2000年前の中近東の歴史を専門に研究する歴史学者ぐらいであろうと評価された。


▼霊体ペイシェンス・ワースの過去

カラン夫人とペイシェンス・ワースとの対話は何百何千回にも及んだ。最初にペイシェンス・ワースが現れた時に「過去のことを聞く必要はありません。」とは言われていたが、それでもカラン夫人は時々、ペイシェンス・ワース自身のことを質問し、断片的ではあるが、どういう人物であったかが少しずつ分かってきた。

ペイシェンス・ワースは1650年にイギリスのドーセットシャーで生まれた女性で、1670年にアメリカのニューイングランドに移住し、そこでインディアンに殺害されて生涯を閉じた。

彼女が語る地名の大半は今も現存する地名であり、現存しないものでも古い地図や古文書を調べると、それらの地名が実在のものであったことが判明した。

また、彼女からのメッセージに時々意味不明の言葉が出てくるが、これらの言葉はペイシェンス・ワースが生きた17世紀まで使われていた言葉であり、現在では死語になっている言葉だということも判明した。


▼ペイシェンス・ワースの予知能力

カラン夫人はすでにペイシェンス・ワースとは友人のようになっており、ある時、日常の他愛ない質問をしてみた。

この日はクリスマスの前日であり、自分と一番仲の良いハッチングス夫人が、明日、自分にプレゼントをくれると聞いていたので、その中身は何かをウイジャ盤を通じてペイシェンス・ワースに聞いてみた。

すると返ってきた答えは「15個。ただし、その中の1個は割れている。」

というものだった。

間もなくハッチングス夫人からのプレゼントが配達されてきた。中を開けてみると、キッチン用のジャーのセットで確かに15個の中の1個は割れていた。

またその逆に、ハッチングス夫人も、カラン夫人がプレゼントをくれると聞いていたので、カラン夫人には内緒でこちらもウイジャ盤を通じてペイシェンス・ワースにその中身を聞いてみた。

返事は「テーブル用品。十字縫い。」というもので、プレゼントは十字縫いの入ったテーブルクロスであり、こちらもピッタリ当たっていた。


▼人生に関する提案

1916年8月のある日、カラン夫人がいつものようにウイジャ盤でペイシェンス・ワースと対話していると、これまでとはちょっと違ったメッセージが送られてきた。子供のいない彼女に「もらい子をしてはどうですか。」とペイシェンス・ワースが提案してきたのだ。

更に子供の出生地や現在住んでいる地域、容貌まで細かく指示してきた。カラン夫人はさっそく夫のカラン氏に相談してみた。夫は最初の頃こそウイジャ盤で霊と対話するなど、否定的な考えを持っていたが、カラン夫人がペイシェンス・ワースを通じて出版した小説がヒットし、それなりの収入や名前がついてくるに連れてすっかりペイシェンス・ワースの支持者になっていたので、この案にはすんなりと同意した。

それから2人は言われた通りの子を探した結果、孤児院でそれらの条件にぴったり合う女の子を見つけ、さっそく養子縁組の手続きをとった。

その女の子にはペイシェンス・ワースの名前を取って「ペイシェンス・ワース・ウィー・カラン」と名付けた。

ペイシェンス・ワースは、ウイジャ盤を通じてその子の教育について様々な指示を与え、まるであの世から自分の子供を育てているかのようにかわいがった。そして、カラン夫人に、自分の作品で得た金はその子の教育費にするように、とも言ってきた。もちろんカラン夫妻にも異存はなかった。ペイシェンス・ワースがいてこそあれらの小説が書けたということは十分承知の上だった。


それから月日は流れ、1922年、カラン夫人は39歳になっていた。この年、カラン夫人は初めて妊娠し、本当の自分の子供を生んだ。しかし喜びもつかの間、その代わりとなったのだろうか、夫のカラン氏が病死してしまった。

出産の喜びと夫の死が入り混じる複雑な心境の時も、ペイシェンス・ワースはあの世から励ましの言葉を送ってきた。

カラン夫人はもらい子と本当の自分の子供の二人を育てていくことになったが、カラン夫人の背後にはペイシェンス・ワースがいる。現世の母親であるカラン夫人と、あの世の母親であるペイシェンス・ワースの二人で、二人の子供を育てていこうと約束した。

1934年、もらい子であったペイシェンス・ワース・ウィー・カランは19歳になっており、結婚することとなった。ペイシェンス・ワースも相当に嬉しかったらしく、あの世から熱烈なお祝いの言葉を送ってきた。

カラン夫人と二人の子供たちは平凡ながらも幸せな日々を送っていたが、1937年11月、この時カラン夫人は54歳になっていたが、ある日ウイジャ盤を通じてペイシェンス・ワースから衝撃的なメッセージを受け取った。

「もう、道は尽きた。」

文章はそう綴(つづ)られた。

実に意味深な言葉であり、これはもう小説が書けないという意味か、子供たちの身に何かが起こるということか、それともカラン夫人自身の命が終わりに近づいているということなのか、判断に迷う。


カラン夫人は何人かの友人にこのことを告げ、ひょっとして自分は近いうちに死ぬかも知れないという意思も伝えた。しかしこの時のカラン夫人は健康そのものであり、友人たちはあまり本気でこの言葉を受け止めなかった。

しかし翌月の12月、カラン夫人は風邪を引き、それがみるみる悪化して肺炎となり、12月3日、あまりにもっけなくこの世を去ってしまった。

残された二人の子供たちも成人していたので何とか自活はしていたが、1943年、もらい子であったペイシェンス・ワース・ウィー・カランは27歳の若さにしてにして心臓疾患でこの世を去ってしまった。

あの世のペイシェンス・ワースと何百何千回と交流して友達のようになっていたカラン夫人であったが夫は早々に病死し、自分自身も54歳という年齢で死亡、そしてペイシェンス・ワースに薦(すす)められたもらい子であったペイシェンス・ワース・ウィー・カランも27歳で死亡した。

やはり霊と親しくなると、あの世に呼び寄せられるのだろうかと街の人々は噂しあった。