「紅葉のばかっ、しばらく顔も見たくないんだからあっ!!」
毎度お馴染みの台詞をはいて。龍羽はリビングから飛び出していった。
それを見送る壬生の溜め息もまた、いつものとおりで。
もはや、2人にとって一種のコミュニケーションと化しているそれは。
今日もまた、壬生家のリビングを鮮やかに彩っていた。
「……うぅ……」
頭から毛布を被って、龍羽は小さくうめいた。
はっきりいって、紅葉に口論で勝てた試しはない。
恋人同士の『口ゲンカ』といえば、普通、女性側に軍配が上がるはずなのだけれど。
何しろ、龍羽の相手はあの『壬生紅葉』。
1つ言えば、10は返され。しかもそれが、一瞬聞いただけでは反論もできないような、実に見事な屁理屈(龍羽に言わせれば)で構成されているから。
余計に腹が立って。カチンときて。
結局、今のように。売り言葉に買い言葉の末、自分が捨て台詞を吐いて逃げる羽目になることが、お決まりのパターンとなっていた。
そこまで考えて。ふと、思う。
そういえば、いつからこれが『お決まりのパターン』になってしまったのだろう。
初めて出逢ったときの彼は、こうではなかった気がする。
なんと言うか、クールで。ちょっと、ニヒルで。真面目そうで、誠実そうで。
はっきり言って、あの地下鉄のホームで庇われたときには。
ほんの、ちょっぴり。その背中に見惚れてしまったというか……心密かにときめいたのを、実ははっきりと覚えていたりする。
じゃあ、いつから『こう』なったのだろう?
そう思い、龍羽は記憶の中のアルバムを捲り始めた――。
■ ■ ■
『緋勇さん』
出逢って間もない頃。紅葉はまだ、私のことをそう呼んでいて。
『なぁに、壬生君?』
私もまだ紅葉のことを、そう呼んでいた。
今にして思えば。少し恥ずかしいような――それでいて、どこか照れるような。そして、想像もつかないような、初々しい呼び名。
まだ、出逢って間もない男女が、フツーに交わす、会話。
まだ、親友と呼ぶには早くて。
それでいて、どこかお互いに意識して。
手探りで、どうやって近づこうかと距離を測っているような。そんな態度。
でも。
そんな子ども向けの恋愛小説(?)のような雰囲気は、すぐに泡となって消え失せた。
『……で。どれが緋勇さんの彼氏なの?(どれって……)』
地下鉄のホームから地上に出て。さて、折角であった『力』の持ち主――しかも、自分の力と表裏をなすもの――を、どうやって勧誘しようと頭を捻っていた時の、紅葉の問い。
それは、本当に予想外というか。その表情からは想像もできないものだったから。
『――かっ、彼氏なんて、いないわよ!!』
流すことも、笑って冗談にすることもできず、リアルに反応してしまい。耳まで真赤にして(後から亜里沙が教えてくれた)、叫べば。
よほど説得力があったのか、それ以上はツっこんでこなかったけれど。
『ふ〜ん……』
壬生はそのまま口元を手で覆って、人の身体を頭から足の先まで見回してきた。
その視線に。なにやら、とっても居心地の悪さを感じてしまって。
加えて。
『……なによ、その笑みは』
口元を覆っていても、何故かその下には笑みがあることがわかってしまって。
しかもそれが。なんというか、純粋な微笑みとはけして表現できないものであることも、なんとなくわかって。
この時点で、頭に思い描いていた『どうやって仲間に引き入れよう』なんて計画(?)は、綺麗に吹き飛んで。
我ながら、凄みの効いた(女の子なのに……)可愛らしさの欠片もない声で返すと。
『弱そうだけれど(こらこら)、いっぱい男がそろっているのに、と思って』
何気にケンカを売っているような紅葉の言葉に。背後で、京一を筆頭とした男性陣が色めき立つのが、わかったから。
『弱そうなんて、言わないの! みんな、それでもがんばってるんだから!!』
思わず力拳を握って、フォローすると(……フォローになっていません)。
再び、まじまじと見つめられて。
言われたのが、次の言葉。
『……弱い方が、好みなの?』
『……は?』
『まあ、人の好みは千差万別というし……』
『ちょっ、勝手に決めないでよっ!』
『――じゃあ、強い男の方が好みなの?』
『そりゃあ、強い方がいいとは思うけど……』
何故こんな話題になったかなど、既に考える頭はなかったから。
とりあえず、彼から視線を反らせて。横を向きつつごにょごにょと口の中で呟いていると。
『例えば――僕のような?』
本当に、耳元で。囁かれるように――注ぎ込まれるように、言われた言葉が。
その、低くて。甘くて。少し、掠れた声が。鼓膜をゆるがせて、全身に深く浸透していって。
その、言葉にツっこむことも、反論することもできず。
――この時初めて。『腰砕け』という言葉を、実体験することとなった。
思えば。
この時から、優劣は決していたのかもしれない(認めたくないけれど)。
紅葉はこの後、気がついたら私の近くにいるようになった。
事ある毎に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて、何やかやと言ってきて。不意打ちで、綺麗な笑みで視線を奪って、耳元に甘い囁きを落すから。
結局私は、反論できずに、真赤になって。
そして――今のように。
『(私が)負けて逃げる』というパターンが、確立してしまったのだ。
――でも。
それから数ヵ月後。楢崎さんに話を聞きに言ったときに、柳生に切られて。
暫くの間、生死の境を彷徨う羽目になって。
……次に目覚めたときは、桜ヶ丘の病院で。
その時はまだ、切られたときのはっきりとした記憶がなくて。曖昧で。
だからこそ、余計に。
印象的なのかもしれない。
――心を、奪われたのかも、しれない。
初めに覚醒したのは、聴覚。
『……龍羽……』
それが、今までに聴いたこともない――細く、弱い、紅葉の声が。初めて、私の名を呼んで。
次いで覚醒した視界には、今までに見たこともない、彼の表情。
瞬くことも忘れたように、見開かれた漆黒の瞳。
その、黙っていれば誠実そうな綺麗な顔は、今は疲れの色が濃くて。
それでも、どこか安心したような――なくしてしまった大切な何かを発見したような。そんな表情に、目を奪われた。
彼の瞳から零れ落ちてくる、綺麗な雫は、頬を流れて顎の先から、私の頬に落ちて。弾けて。
唇の端まで流れてきて感じた、少し塩辛い味。
――紅葉の、涙の味。
そんな、初めて見る彼の弱さに、五感の全てを支配された。
そして。
思考ごと――心ごと。身体ごと。
絡め取られてしまった、から。
『……くれは……?』
初めて呼ぶ彼の名は。とても自然に、喉から滑り出て。
とても――自然に、響いたから。
まるで、今までもずっと呼んでいたかのように――それが、当たり前のように、響いたから。
『龍羽……』
そして。彼が呼ぶ私の名も。誰が呼ぶよりも、自然に聞こえたから。
当然のように、すとんと。心に入り込んできたから。
この世に、戻ってきたのだと。彼の元へと、帰ってきたのだと実感した。
安心、できた。
そして、紅葉が。
私をこれだけ、心配してくれたのだと。待っていてくれたのだと、気がついた。
胸の傷は、まだ痛かったけれど。
それ以上に彼を想って、心が痛んだから。
同時に、とても。嬉しかったから。
だから。
伸ばされた手が頬に触れるのを、許して。
その手に、私も手を重ねて。指先を、絡めて。
そのまま、瞳を閉じた――。
■ ■ ■
「……あれが、失敗だったのかも……」
今思い返しても、何故あのとき、あんなにお互いに素直だったのか、わからない。
単なるその場の雰囲気に流されたのか。それこそ、怪我の功名(?)か。痛みの見せた、幻なのか。
でも、そう思うには、あの時の涙の味が忘れられなくて。感じた心の痛みが、忘れられなくて。
余計に、壬生には強く出られなくなってしまったというのが、事実だったりする。
今、こうして一緒に暮らしている事だってそうだ。
結局、退院することになった日、迎えに来てくれたのはいいけれど。
何故かそのまま、この――彼のマンションへと連れて行かれた。
しかも、そこには。何故か自分の部屋にあった荷物――服から家具まで――が、あって。
『……え?』
思わず、目を丸くした自分に。壬生は実にあっさりと、言った。
『大丈夫。館長の許可はとってあるから』
『許可……って……』
ある意味『娘命!』のあの鳴滝が。そう簡単に男との同居など――同棲など、認めるはずがない。
なのに。
『話をしたら、素直に認めてくれたよ』
一体、どんな話をしたというのだろうか。
にこりと綺麗に微笑む壬生の顔は、それはそれは怖くて。それ以上、問いただすことができなかった。
そして結局、彼に言われるがまま――というより、されるがまま。一緒に、暮らしはじめることになり。
無事(?)、『現在に至る』という状況だったりする。
「せめてあの時、『冗談はやめなよ〜』とか言って、殴っておけば……(こらこら)」
そうすれば、今のこの状況に変化があったはずと。思わず龍羽が拳を握ったとき。
「物騒なこと、言うんじゃないよ」
独り言に答える壬生の声が、耳を打って。
その――あまりの近さに。慌てて毛布を跳ね除けて、龍羽はベッドの上に起き上がった。
振り向いた視線の先、入り口にもたれかかるように立っているのは壬生の姿。
リビングからもれる光が、そのシルエットを余計に際立たせて。すらりとした長身を、より綺麗に見せて。
思わず、視線を奪われかけた瞬間。
ある、違和感に気がついた。
「……って、何で鍵開いてるの!?」
その光景が、あまりにも自然だったから。気がつくのが、遅れてしまったけれど。
確かに、自分は鍵をかけたはず。
しかし。
「こんな部屋の鍵なんて、数秒で開いてしまうよ」
そう言って、壬生は右手を掲げる。
その手には、1本のヘアピン。
恐らく、洗面台に置いてある自分のものだろう。それを見せつけるということは……。
「それで、開けたの!?」
「うん。簡単だったよ」
恐るべし、拳武館の技術――ではなくて!
「何よっ、しばらく顔も見たくないって、言ったじゃない!」
自分から彼を見てしまったことは、この際遠い棚の上にあげておいて。
龍羽はぷいっと横を向き、そのまま視線を反らす。
直前まで思い出されていた記憶は、脳裏にまだ鮮やかで。
その記憶に流されて、何でも許してしまいそうな、自分がいたけれど。
それが負けを認めることになると、充分にわかっていて。
でもこのまま彼を見ていては、またいらない言葉をぶつけてしまうかも――ケンカをしてしまうかもしれなくて。
それはそれで、イヤだったから。
相反する感情を、自分でもどうすればいいかわからずに。再び毛布を頭から被って、ベッドに伏せる。
そのまま、壬生の気配は動かなかった。
だから、『諦めたかな〜』と思って。様子を伺うため、毛布をそろりと捲ると。
まさしく目の前にというほど、間直に。壬生の、漆黒の瞳があって。
綺麗に笑っている、顔があって。
「――っ!!」
驚いて、逃げようとした矢先。大きな手で、動きを封じられてしまう。
そして。耳元に落される、甘い囁き。
「もう『しばらく』は経ったからね。顔を見てもいいだろう?」
「しばらくって……!」
「1. それほど時間が経たない様子。2. 少し長く時間が経過したと感じられる様子。さあ、どっちの意味がいい?」
「2番、2番!」
「でも、1の方が使用頻度の高いよ?」
「そんなの、知らないわよ〜!!」
交わされる話の内容は、けして色艶めいたものではなくて。傍から聞けば、冗談のようだけれど。
この体勢と、少し笑いを含んだ甘い声が。どうにもこうにも、どきどきと鼓動を高めるから。
ぐるぐると。思考をかき乱すから。
その状態で、とりあえず。
龍羽は頭に浮かんだ言葉を、そのまま叫んだ。
「じ、じゃあ、『もうちょっと、顔を見たくない!』に変更する!!」
龍羽の言葉に、さすがに壬生は意表をつかれて、目を丸くする。
「『もうちょっと』って……」
恐らく、パニックになっていて。自分が言う、その言葉の意味などわかっていないのだろう。
そのまま、『だから離して〜!』と暴れる(……)少女に。苦笑を漏らして、押えていた両手を離して解放する。
束縛を失い、自由になった両手をベッドについて。龍羽はぱっと起き上がると。
真っ赤に染めた頬と、耳のまま。勢いよく、部屋から飛び出していった。
「……ちょっとって、『一寸』って書くんだけれどね」
一寸は、約3.03センチ。その距離は、余りにも短く。近く。
だからこそ、殆ど短い時間という意味なのに。
――『しばらく』と、同意語なのに。
「まあ、いいか」
主のいなくなったベッドに腰掛けて、壬生はちらりと時計を見る。
龍羽が、衝撃からというより、少し自分を取り戻すには。
『ちょっと』や『しばらく』どころか。『かなり』の時間が。必要だろうから。
その間に、中断していた夕食の準備をしようと、立ち上がり。
龍羽に続いて、部屋を出た。
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